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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの修道女: Maria Da Riva(マリーア・ダ・リーヴァ)

前回のブログに、マリーア・ダ・リーヴァという修道女が登場しました。G. ニッサーティ著『ヴェネツィア奇聞』は彼女について語っています。
『ヴェネツィア奇聞』「マリーア・ダ・リーヴァはヴェネツィアの古い貴族の出で、サン・ロレンツォ修道院で若い時から薄いヴェールを被っていた。しかし修道院生活はこの美しい活気に満ちた少女には不向きであった。

1733年、大女誑しのフルーレ公がフランス大使としてヴェネツィアにやって来た。修道院面会所でダ・リーヴァに会うや、ゾッコンとなり、愛を囁き、大変幸運なことに、直ぐに何度となく愛人を尼僧院から連れ出し、夜を徹して夜明けまで自分の部屋で彼女と過すことが出来た。

1735年、ダニエーレ・ブラガディーンがサン・マルコ財務官に選出され、サンタ・マリーナ広場のブラガディーン館で催されたパーティへ、彼女に仮面を付けさせ、タバッロで男に変装させて(da homo in tabaro)、連れて行きたいと思った。そうしたゴタゴタは直ぐに露見するものである、ということはそれなりの意味があった。

それが故に国家異端審問官は、面会所に二度と現れないよう、修道女にフルーレとの出会いを禁じた。それにも拘わらず不倫関係は続行し、ダ・リーヴァがフェッラーラのある修道院に移動させられるまで続いた。

その後、新しく出来た愛人、モローニ陸軍大佐とそこから逃亡し、ボローニャに連れて行かれ、そこで彼と結婚した。しかし両親の訴えで夫婦は捕えられたが、マリーアは監獄から脱走して、罪を償われて自由の身になっていた大佐の元へ逃げ込んだ。遂には迫害して来る者の手を振り切ってスイスに逃れ、多分自らの激動の日々を終えた。

フルーレについては、フランス大使時代、彼は殆ど狂人の様であった。どしゃ降りの雨の下、金の布地の衣装で周りを歩き回り、夏には暑い最中、毛皮を着てサン・マルコ広場へ行った。そしてサン・ジョルジョ・マッジョーレ島のベネディクト会の菜園で蟻の採集に夢中になった。

ある人は言っている。《あれはダ・リーヴァ尼僧とのスキャンダル後、手の付けれないキ印になった》 と。」
  1. 2018/11/02(金) 00:05:17|
  2. | コメント:0
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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