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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ベルナルディーノ・ゼンドリーニ(Bernardino Zendrini)

先頃の《Il Gazzettino》紙にムラッツィ(i Murazzi――護岸壁)を構築した技術者ベルナルディーノ・ゼンドリーニについて紹介がありました。《Il Gazzettino》紙は前回紹介したガースパレ・ゴッズィの創刊した新聞《Gazzetta Veneta》の伝統的な名前を継承した新聞で、次のようなリードで彼を紹介しています。
Il Gazzettino
「"Murazzi"とは何かを知らないヴェネツィア人やヴェネツィア愛好者はいない。それは少なくとも一度はヴェネツィアに居た(夏にそこで日光浴をした事を含めて)、或いはこの仮説の非常に些細な場合、この事を聞いたこともないという場合も含めてであるが。

しかし1700年代のこの壮大な工学的・水力学的構築物は、何世紀も海の怒濤と浸食作用からラグーナを守護してきたのである(1966年の大洪水の時はただ一度だけ海に脱帽せざるを得なかった)。この時の事を知る人は少ないかも知れない。ヴェネツィアの歴史では能く起きるようにヴェネツィアでは何物も生まれなかったし、論理的に言えば、何物も技術者を作り出した訳でもなかった。……」と。
『ヴェネツィア人物事典』彼の生涯は左のM. ブルゼガーン著『ヴェネツィア人物事典』(Newton Compton Editori、2006.11)から紹介してみます。

「 (1679.04.07サヴィオーレ~1747.0518ヴェネツィア)
1679年ブレッシャ県のサヴィオーレに生まれ、ヴェネツィアのイエズス会の学校で学び、1701年パードヴァ大学医学部を卒業した。卒業後故郷に戻り、仕事についていたが、故郷の空気が自分に合わないと判断し、1704年頃ヴェネツィアに戻り、重要な科学者のサークルに入り、そこで医学と数学(熱烈なニュートン主義者だった)についての学識を深めることが出来た。

1708年小冊子を出版した。それは人々に彼を周知させたのだが、その中で自然現象について述べながら、大気やそれに関連する風や旋風についての小論文差し挟んだ、その中に1月25日ヴェネツィアに襲い掛かった竜巻についての一節ががあったためである。

しかし彼が自然界についての明確な自説を得るのは数年後のことで、1715年の研究書『河川における浸食線の発見法』の出版においてであり、その書の中で水の流れの速度測定のための極簡単な手法を記述している。

1720年1月18日彼は、総督コルネール・ジョヴァンニ2世から非常に重要な任務を託された。それは《ヴェーネト共和国の河川、潟、港の水に関する数学官にして監督官》というものであった。その時以来彼の名声は最高となり、彼の助成については、ヴェーネト共和国以外からもリクエスト数多だった。1717年ボローニャ人とフェッラーラ人の意見の争いの相談役だったし、1728年はウィーン宮廷、1731年はラヴェンナのために教皇の仕事をし、1735年ヴィアレッジョのためにルッカ共和国にいた。
ペッレストリーナのムラッツィ[サイトから借用。防波堤の右がラグーナ]  ヴェネツィアでのゼンドリーニの仕事、いわゆる“ムラッツィ(Murazzi)”と呼ばれるリード島を海から守護する壮大な護岸壁は永遠に記憶されるものである。それは1740年(1738年に“カッソン・ディ・マラモッコ”で最初に試作された)から、年に80ペルティカ(1pertica=約10ピエーディ[1piede=約29.6cm]で約165m)ずつ進行して、1760年第一期工事完成に漕ぎ着けた。ゼンドリーニの導入した革新は、あるタイプの岩石、ポゾラン石を手作業で仕上げたことであった。この石に石灰を混ぜ、水面下でも最上の状態で、あらゆる水の力に耐えるべく硬化させることが出来た。そして壮大な作業は別の時代、1800年6月の新教皇ピウス7世の時代、更に1807年12月、ナポレオン時代にも行われた。

1747年5月18日没(彼は自らの壮大な事業の完成を見なかった)。アポーストロ・ゼーノは葬儀の弔辞で《あらゆる文言にあるように、この政府が彼に与えた“苦”であり、大いなる“肯定(sì)であった……》と述べた。

彼の重要作品『ヴェネツィアのラグーナや河川と対話する楽しさ、その古くて新しい歴史の思い出の数々』が没後出版(1811年)された。それは大部の2冊で、彼の全ての覚書やスタディ、《水の数学官・監督官》時代の最初の6年間の研究、14世紀から18世紀にかけて記録として表れた潟と河川のあらゆる現象と特殊性に関するものであった。 」

ヴェネツィア共和国の水の監督官は、伝統的に重要な役職でした。水の問題は現在も続いています。運河の浚渫、運河沿いの建物基礎部への対処、アックァ・アルタ等……何年も掛かっているモーゼ計画はこの先どうなるでしょうか。2013.01.26日のブログアックァ・アルタで、第一期Murazzi 完成時の碑等について触れています。
  1. 2019/04/04(木) 03:16:44|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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