FC2ブログ

イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ルドヴィーコ・マニーン(2)

(続き)
「ルドヴィーコ・マニーンの選挙の日には既にヴェネツィアの状況は、多くの人の民主化と自由に対する要求があり、革命の準備が進行する仏国の事態による、国内の不安で緊張感が高まっていた。続く年、ヴェネツィアは反動勢力とフランスによって肩入れされた自由主義勢力との間で、中立を維持しようとした。
ルドヴィーコ・マニーン[ルドヴィーコ・マニーン像、サイトから借用]  1792年8月30日、妻エリザベッタがトレヴィーゾで亡くなり、総督は退位を考えたが、許されなかった。その時は公的機関を少なくとも続行させようとして、公職に就く人全てが良心的に自分の義務を果たすよう、そして今や古臭い司法機関の改革がなされるよう主張して管理した。

ある年代記作者は次ぎのように書いた。《濃い眉毛、茶色で血の気の失せた眼、大きな鷲鼻、上唇が突き出て、草臥れた足取り、やや前屈みの人物だった。表情には内部に恐怖心あるいは嫌悪感といったものが窺われ、彼を形作るそうしたものが全ての行動を支配していた。》

1797年4月30日、仏軍が既にラグーナの沿岸に達して、ヴェネツィアに侵入しようとしていた時、ルドヴィーコ・マニーンはかの有名な言葉を発した: 《sta notte no semo sicuri neanche nel noetro letto.》(今夜我々は、自分のベッドでも安全ではない)。

続く日の大評議会の会議において、仏軍の要求に応えるかどうか、決定しなければならなかったのだが、彼は蒼褪め、震え声だった: ナポレオンは現行の寡頭政治の代わりに、民主体制を作り上げる事を、更に4000の仏軍をヴェネツィアに上陸させる事(ヴェネツィアに外国軍が上陸する事は開国以来初めての事)を、本土側で侵入した仏軍と闘った将軍達を引き渡す事を要求した。

5月8日総督は、司法・行政官全てを呼び寄せ、総督宮殿を革命の長の手に渡す用意があると言った。反フランスの新しい防衛軍を組織すべく、ダルマツィアのザーラに逃亡した、彼に背いた人々もいたが、彼はヴェネツィアから動こうとはせず、5月12日には大評議会の最後の会議の議長を務め、ボナパルトの要求を徹頭徹尾全て受け入れることを決めた。
[5月12日の最後の大評議会で彼の案は賛成512、反対20、棄権5の投票結果だったことが、『Atlante storico della Serenissima』(Supernova、2010.02)にあります。建国時代以来の強かった覇気が、もうヴェネツィアにはなかったのでしょう。]
イッポーリト・ニエーヴォ著『あるイタリア人の告白』[イッポーリト・ニエーヴォ著『あるイタリア人の告白』] 5月15日には総督は総督宮殿を出、家族の居宅に戻り、仏軍はヴェネツィアに上陸した。大評議会の最後の会議はイッポーリト・ニエーヴォの小説『あるイタリア人の告白(Le confessioni d'un italiano)』の中に描かれている。

退位後、ルドヴィーコ・マニーンは臨時政府の長になることを拒否し、あらゆる公式行事への出席を止めた。総督に関わる表章・印は全て引き渡さなければならなかったが、それらは寡頭政治の貴族達家族の名簿である“リーブロ・ドーロ”(黄金の書)と共にサン・マルコ広場で、反対者達によって焼尽された。

修道院に引き籠り、自分の人生を終りとしたかったが、彼のこの最後の願いは実現不可能だった。1802年10月24日、水腫と肺の鬱血で自宅で亡くなった。

葬儀は《出来るだけ質素に》やるように定めていた。精神障碍者、捨て子、持参金の必要な少女らのために11万ドゥカートを遺した。現サンタ・ルチーア駅脇のスカルツィ教会の妻の眠る一家の墓に葬られた。かなり生気の無い文体ではあるが、彼の自筆の回想録が残されている。 」
  ――M. ブルゼガーン著『ヴェネツィア人物事典』(Newton Compton Editori、2006.11)

2011.12.10日のドルフィーン・マニーン館もご覧下さい。
  1. 2019/04/18(木) 09:30:33|
  2. | コメント:0
<<Daniele Manin(ダニエーレ・マニーン)(2) | ホーム | ヴェネツィア共和国総督: ルドヴィーコ・マニーン(1)>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

カウンタ

カレンダー

05 | 2019/06 | 07
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア