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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

Daniele Manin(ダニエーレ・マニーン)(2)

1797年ナポレオンによって消滅させられたヴェネツィア共和国を再興した人達がいました。1848年はヨーロッパ各地で革命の嵐が吹きました。ヴェネツィアも例外ではなかったのです。ダニエーレ・マニーンは奇しくも共和国最後の総督ルドヴィーコ・マニーン一族の姓を、カトリックに改宗する時、貰ったユダヤ人で新共和国の統領になった愛国者でした。彼はだらしなかったルドヴィーコ・マニーンの汚名を雪いだユダヤ人でした。M. ブルゼガーン著『ヴェネツィア人物事典』(Newton Compton Editori)から彼の生涯を辿ります。
『ヴェネツィア人物事典』ダニエーレ・マニーン[右、サイトから借用]  「 ダニエーレ・マニーン 愛国者(1804.05.13ヴェネツィア~1857.09.22パリ)
1804年5月13日に生まれた。ユダヤ系の倹しい弁護士の息子で、カトリックに改宗した時、代父の洗礼名がマニーンであったので、かつての総督ルドヴィーコ・マニーンに敬意を表して、姓名メディーナからマニーンに改姓した。1825年法科を卒業し、1827年ラーウラ・ペリッスィノッティと結婚、2人の子供、エミーリアとジョルジョを得た。

1840年から反オーストリア活動を始め、1848年にはニッコロ・トンマゼーオと共に捕まった。2ヶ月も経たない内、3月17日、反乱を起こした民衆によって解放された。それは1848年3月23日、彼が新ヴェネツィア共和国の長に任命される、自由への革命の始まりだった。1848年8月11日、臨時政府への任命はオーストリアの圧制を排除する事だけを目的としたものだった。

しかし反乱は、飢えと疫病と悲惨な生活で衰弱し、1849年8月22日にはヴェネツィアはオーストリアに屈した。マニーンは妻子と共に逃亡せざるを得ず、最初マルセーユに落ち延びた。その地で妻を亡くし、パリに行った。パリでは窮乏の極みで、イタリア語を教えながら、辛うじて糊口を凌いだ。

1857年9月22日パリで亡くなり、彼の遺灰は1868年故国に運ばれ、今日サン・マルコ寺院の脇で眠っている。中でも思い出されるのは、彼に捧げられた大モニュメントがマニーン広場の中央に設けられていることである。彫刻家ルイージ・ボッロの作品(1875年)である。 」
[2011.12.10日のドルフィーン・マニーン館もご覧下さい。]

イタリアのウィキペディアは“マニーン広場”について次のように述べています。
「マニーン広場は以前“サン・パテルニアーン広場”(この地にサン・パテルニアーン教会があったが、19世紀に崩れ落ちた)と呼ばれた。広場中央にルイージ・ボッロ作のダニエーレ・マニーン像(1875年)がある。運河と反対側の奥にはネルヴィ=スカットリーン館があり、ヴェネツィア貯蓄銀行である。ピエール・ルイージ・ネルヴィが1972年、貯蓄銀行150周年記念のために設計したもの。……銅像向かって左手の建物の間の小路に入ると奥に“コンタリーニ・デル・ボーヴォロ館がある。 」
ダニエーレ・マニーンの生家ダニエーレ・マニーン像マニーンの住んだ家[左はサンタゴスティーン広場近くのアストーリ通り奥にある彼の生家。右は彼が住んだ家、中央は住んだ我が家を見るダニエーレ。細かい事については2007.11.22日のダニエーレ・マニーン(1)をご参照下さい。]

また革命運動が頂点に達して、アルセナーレに駐屯するオーストリア軍を排除した3月22日を記念した“3月22日通りについて、イタリアのサイトは次のように述べています。

「サン・マルコ広場に近い3月22日大通りは上級品贅沢品を買いたい人に愛される通りである。この通りにはヴェネツィアでも最も重要なブティックがあるのである。この通り名はヴェネツィア史でも最も意義深い日付に関わっている: 1848年3月22日。

何年も前からヴェネツィア市は非常に非自由主義的オーストリアの支配下にあった。3月22日ヴェネツィア人民は二人の愛国者ダニエーレ・マニーンとニッコロ・トンマゼーオの釈放を求めて蜂起した。オーストリア人は町から追い払われ、マニーンを統領として再び共和国を宣言した。しかしこの反抗は不運に終わった。何故なら18ヶ月後、オーストリアは海陸を封鎖して町を飢えさせ、ヴェネツィア人は降伏するしかなかった。

それにも拘らず、1848年3月22日のオーストリア排除は、ヴェネツィア維新の第一歩として文化的レベルでの基本であったのであり、1867年イタリア王国と結び付くことが出来た。
拡張された3月22日大通りの碑 トンマゼーオ[左、道が広げられ、3月22日大通りになった時の碑。右のニッコロ・トンマゼーオ像はサント・ステーファノ広場中央にあり、3月22日大通りの方を睨んでいます]  こうして1881年古いサン・モイゼ通り(直ぐ傍にサン・モイゼ教会がある故)が古い建物等を壊して広げられた時、3月22日大通りと命名された。 ……」
ヴェネツィア上ヴェネツィア下1848年のヴェネツィア革命については、『ヴェネツィア』下巻(クリストファー・ヒバート著、横山徳爾訳、原書房、1997年5月10日)をご覧下さい。2009.02.28日のジョルジョ・バッサーニでも触れています。
  1. 2019/04/24(水) 02:31:02|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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