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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ジョルジョーネ(4)

若桑みどりさんの『絵画を読む』(日本放送出版協会、1993年3月1日)の時代は、未訳だったサルヴァトーレ・セッティスの『La ≪Tempesta≫ interpretata. Giorgione, i committenti, il soggetto』 (Einaudi Editore、Torino 1978)が『絵画の発明――ジョルジョーネ「嵐」解読』(小佐野重利監訳、石井元章・安達薫訳、晶文社、2002年11月25日)として出版されています。少し引用してみます。
サルヴァトーレ・セッティス『絵画の発明』「二人とも、彼らのこれまでの経験と人類の未来の歴史を少ない筆致で要約する《教訓的な風景》のほうを向いている。背景には、“快楽の園”であるその町がエデンの川を越えてはいまやいかなる人間も通わない橋の向こうに、塔や円柱、城壁に満ちた近寄ることのできないものとして存在する。

人類と蛇に呪いを宣告し、またそれを繰り返す“遠くからの声”としての雲を裂く稲妻が、町の上にも橋の上にも、遠くから脅かすように迫っている。それゆえ、アダムは身じろぎもせずに棒に寄りかかり、エヴァは小さなカインに乳を与えながら、産後の裸体をかろうじて茂みに隠しているのである。二人に挟まれた二基の折れた円柱は、人間の生の筋書のなかに――労働の苦労と出産の苦痛を伴って――入り込んでしまった《死》を表すエンブレムとなっている。

物静かで可愛らしいカインは、将来、彼が犯すことになる兄弟殺しをその独りだけのあどけない容姿のなかに予告している。それは、罪と神の懲罰からなる苦痛に満ちた道を通って人間が歩まねばならない道程なのである。

前景には、かろうじて見える程度に、蛇が油断のならない様子で地に身を隠しているが、この蛇こそ誘惑と原罪の原因であり、それゆえ、蛇もまた神の呪いに打たれ、《女》のかかとに踏みつぶされる運命にある。このため、神の厳しい言葉は、人類には同時に《言葉》の化肉と贖罪の約束となるのである。
……
『三人の哲学者』にとってと同様に、もし場面が――ベルガモのコッレオーニ礼拝堂やロベッタの一連の版画におけるように――《原罪》、《楽園追放》、そして、神の声と彼らやわれわれの運命に関するこの無言の瞑想を表現する一連の作品のなかにあったのならば、それはたちどころに理解しうるものとなるであろう。

したがって、これは物語の表示された《希釈》からでなく、想像された《希釈》から生まれた場面ということになり、それに対して、物語の続きの諸瞬間を示す――つまり蛇(《原罪》)、小木(《恥辱》)、稲妻(《呪い》)、アダム(《労働》)、エヴァ(《出産》)、円柱(《死》)、カイン(《犯罪》と《責め苦》)――があたかも《縮約》されたかのように、そしてそれにもかかわらず、《道徳的な》風景の中に完璧に溶け込んでいる。

神を稲妻に、蛇をかろうじて見えるような存在に《還元し》、《死》を折れた円柱で表し、《犯罪》をまだ純真なカインで表すことによって、ジョルジョーネは自らの絵が物語の諸瞬間の集積物になることを回避した。 ……」
  1. 2019/06/14(金) 02:33:59|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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