イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

Veronica Franco(F)(ヴェローニカ・フランコ―1546~91)

天正の4人の少年使節、伊東マンショらが、ローマからイタリア各地を回りヴェネツィアに到着した1585年6月26日当時、ヴェネツィアで活躍していた閨秀詩人ヴェローニカ・フランコ(1575年詩集出版)の話は、何年か前一般上映された米映画『娼婦ベロニカ』(マーシャル・ハースコビッツ監督)で記憶されている方もあるでしょう。
ベロニカ―1ベロニカ―2[映画パンフレット] 彼女がヴェネツィアの高級娼婦だったことは、例えば Alvise Zorzi 著『Cortigiana veneziana』(Camunia出版、1986)等に詳しく述べられているのですが、このような人が詩人でもあったことは驚きです。

またライナー・マリア・リルケが『マルテの手記』の中で言及している、ガースパラ・スタンパ(Gaspara Stampa、1523~54)もペトラルカ風の詩を遺しました。この詩集『Rime d'amore』(1554刊)を読むのは私には難しく手に負えません。悲しい失恋の歌のようです。彼女もまた高級娼婦ではなかったかと言われています。

『ヴェネツィアの花形娼婦総覧』に名を連ねていたヴェローニカは、ヴェニエール(Venier)家のサロンの定期的な集いにも参加し、作家ピエートロ・アレティーノ(Pietro Aretino)や出版人パーオロ・マヌーツィオ(Paolo Manuzio、アルド・マヌーツィオの息子)などまで知り合いだったようです。
ヴェローニカ・フランコの肖像[コッレール美術館のヴェローニカ・フランコの肖像] 彼女の絶頂期は、1574年(28歳)将来フランス王アンリ3世となるアンリ・ド・ヴァロワがヴェネツィアを訪問し、彼女の元を訪ねた頃と思われます。そして天正の4人の少年使節がこの地にやって来た時、彼女は大運河を歓迎船で行進する彼らを、知り合いの貴族の館から眺めたかもしれない、などと想像します。

1580年頃、彼女は娼婦のための救護院の設立を総督に請願して、500ドゥカートを差し出したということです。

しかし彼女の願いとは別に、他の貴族夫人達の案でそうした施設が数年後作られることになったそうです。その場所とは最初、サン・ニコロ・デイ・トレンティーニ(S.Nicolo` dei Tolentini)、そこからサン・ピエートロ・ディ・カステッロ(S.Pietro di Castello)へ、更にサン・トロヴァーゾ(S.Trovaso)、最終的に1593年にサンタ・マルゲリータ広場(Campo S.Margarita)のサンタ・マリーア・デイ・カルミニ(S.Maria dei Carmini)教会傍のソッコルソ運河通り(Fondamenta del Soccorso)に定まったようです。

それ故に、Soccorso(救護)の地名が現在まで残っているようです。

追記=2010.09.18日~ に、ヴェローニカについて参考までにもう少し詳しく文学に表れたヴェネツィア――ヴェローニカ・フランコ(1~4)を書いてみました。
  1. 2007/11/03(土) 19:19:42|
  2. ヴェネツィアの娼婦
  3. | コメント:0
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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