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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの18世紀(3)――(その3)

(続き)
「賭博場(カジノ)で夜を過ごした貴族たちは、就寝前に大運河の河岸に係留された船へ果物を買いに行った。……貴族たちが床に就くころ、商人たちは会計室に入り、法律家たちや政府の役人たちはデスクに向かって座り、九時から一時まで仕事を続けた。

良心的な貴族たちは責務を遂行するために敏速に到着して怠け者の仲間を赤面させた。大評議会(マッジョール・・コンシーリオ)は――議員総数は一八世紀初頭の一七三一名から一七六九年には九六二名に減少していた――毎日、夏季には八時より正午まで、冬季には正午より日没まで開会し、例外は二つだけあった。無欠席を自慢できる議員もいた。十人委員会(コンシーリオ・デイ・ディエチ)と国家審問委員会(インクイジトーリ・ディ・スタート)はしばしば終日仕事を続けた。……
codeghe [codeghe] 夜間に市の大部分が闇に閉ざされたのは従来と変わらなかった。いくつかの小路(カッレ)では、照明といえばちらちらするランプ一つだけ、あるいは祠堂を照らす蠟燭の光しかなかった。もっとも一七一九年以後は商店主は一般に店舗の外にランプをつるすようになった。しかし一七三二年以前には多くの街区で街灯はまれであり、それ以後でさえコデーゲと呼ばれる松明持ちをやとって、暗い街路を通りつるつるすべる橋を渡るときに道を照らしてもらう歩行者がまだいたのである。

しかしヴェネツィアの街路は、照明は悪かったけれども、いまではヨーロッパの他の大部分の都市よりも安全であった。これは一つには国営造船所(アルセナーレ)の砲手(ボンバルディエーレ)や船板のすきまに詰め物をする槇皮職人(カラファート)のおかげであった。彼らに要請して、謝肉祭期間に街路を行進する武装市民からなる民兵隊を援助してもらうことができたからである。
……
国事犯監獄への恐怖、そしてそこでの秘密の刑罰や拷問への恐怖は容易には消えなかった。人びとは、歯や舌を引き抜く道具や頭蓋骨を砕く道具について、また国家査問委員会の猛毒について、こわごわ小声で話した。……十人委員会の監獄はいまも存在したが、そのいずれかに犯罪者が投獄される可能性はきわめて小さかった。……統領宮殿の一階の、《井戸(ポッツィ)》と呼ばれる牢獄、つまり暗く水があふれた独房のなかで囚人がかつては乏しい食物をねずみと奪い合った土牢に投獄されたり、これほど恐ろしくないが、溜め息橋(ポンテ・デイ・ソスピーリ)から入り、パラッツォ運河を見下ろすカロメッティ・ディ・クアットロの独房にさえ投獄されることは、あまり考えられなかった。
……
十七世紀にあった一八の公営劇場のいくつかは閉鎖されていたけれども、その後他の劇場が建造されたり拡張されたりして、一七九二年五月、フェニーチェ劇場(テアトロ・ラ・フェニーチェ)のこけらおとしの際には、この劇場のライヴァルは七または八であった。ほぼすべての劇場が貴族の所有であり、もっとも人気の高い劇場は、イタリアの他の地方では休演となる金曜日をふくめて、毎晩満員となった。そのため、市民に人気のあるいくつかの芝居やオペラの上演中には、ガスパレ・ゴッヅィが言ったように、市中の個人の家はすべて貸家かと思われる状態になった。

豪華な道具立てと独創的な舞台装置をともなう芝居がもっとも熱烈に歓迎された。そればかりか、外国人が観察して仰天したのは、役者たちに対する明白な無関心ぶりであった。観客はしばしば大騒ぎしており、仲間同士でしゃべり、賭博をし、接吻をし、冗談を言い、叫び、口笛を吹いた。ゴンドラの漕ぎ手は古くからの慣習でしばしば無料で入場を認められ、座席越しにたがいに大声をかけ合った。

仕切り席の若い貴族たちは、《極端に下品(マッシマ・インデチェンツァ)》な服装の情婦を連れており、蠟燭の燃えさしやリンゴの芯を落とし、下にいる人びとの頭に唾をはきかけた。比較的大きな劇場では、四列の仕切り席の最上段の席では、しばしば男女の情交場面が見られた。場内が静まるのは、有名な詠唱が歌われるとき、人気ダンサーが肌を露出させた衣装で熟練した踊りを見せるとき、あるいは受けがよいコメディアンが一時的に注目を集めるときであった。
……
交響楽団や音楽学校(コンセルヴァトーリオ)における演奏は静かに傾聴されたので、劇場の場合とは著しい対照をなしていた。四つの慈善院、インクラービリ、メンディカンティ、オスペダレット、ピエタに収容された女子の孤児たちは、ヨーロッパでは比肩するもののない手がたい音楽教育を受け、彼女たちが催す音楽会は参加した人びとすべてを魅了した。

……イギリスの音楽学者チャールズ・バーニーは一七七〇年代にヴェネツィアに滞在したが、彼のように判断力のある外国人はヴェネツィア人のパフォーマンスの趣味のよさ、識別力、技量を激賞し、またゴンドラの漕ぎ手の歌の魅力を誉めそやした。……

ヴェネツィアは早くも一六世紀初めにアドリアーン・ヴィラールトの影響のもとにマドリガルの作曲と個人的な楽奏の中心地として指折りの存在となっており、その世紀の中ごろにはヴェネツィアはヨーロッパの楽譜出版の中心地であった。音楽における市の名声は、一五六四年にジュゼッペ・ヅァルリーノがサン・マルコ寺院(バジリカ)の聖歌隊指揮者(マエストロ・ディ・カッペッラ)に任命されて以来高まっていた。彼は最初の器楽合奏団を編成し、歌唱や奏楽を市の教会(このうち一〇〇以上の教会にオルガンがあった)においてだけでなく同信組合(スクオーラ)においても奨励した。

音楽は、一六〇三年に聖歌隊指揮者となったジョヴァンニ・クローチェの時代に、そしてサン・マルコ寺院のオルガン奏者、作曲家であり、一七世紀初頭にヴェネツィアに留学した多くの外国人学生たち数人の師であったジョヴァンニ・ガブリエーリの時代に、引きつづいて隆盛をみた。
クラウディオ・モンテヴェルディモンテヴェルディの墓[左、モンテヴェルディの本、右、モンテヴェルディの墓、フラーリ教会正面左のカッペッラにあります。サイトから借用] しかしヴェネツィアの作曲が一つの流派として円熟期に入ったのは、一六一三年にヴェネツィアに来て、死去するまで三〇年間を過ごしたモンテヴェルディの時代であった。いまやオペラが盛んになりはじめ、モンテヴェルディ自身ヴェネツィア最初のオペラ劇場サン・カッシャーノ(カッスィアーノ)劇場のためにオペラを作曲したばかりでなく、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロやサン・モイゼのオペラ劇場やノヴィッシモ劇場のために作曲した。
新カッスィアーノ劇場前[世界初のオペラ劇場、旧・新サン・カッスィアーノ劇場前テアートロ小広場。建物のあった所は現在、アルブリッツィ館の庭となっています]  これらの劇場のために、そしてその後の劇場――サン・サムエーレ、サンタンジェロ、サン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ、そしてサン・サルヴァトーレの劇場――のために、つねに新しい作品の需要があり、一七、一八世紀を通じてとどこおりなく供給された。
ガルッピ像[ブラーノ島B. ガルッピ広場のガルッピ像] 上演されたのは、ピエトロ・フランチェスコ・カヴァッリ、ジョヴァンニ・パイジエッロとニコロ・ヨンメッリ、ニッコロ・ピッチンニ(orニコーラ・ピッチーニ)とブラーノ島生まれのバルダッサーレ・ガルッピ(インクラービリ音楽学校の聖歌隊指揮者となった)、ドメーニコ・スカルラッティらの作品である。……」
  1. 2020/02/17(月) 00:00:00|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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