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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの18世紀(3)――その4

(続き)
「完全な静寂はヴェネツィアの賭博場でも見られた。貴族達が胴元で、物音といえば、トランプを両手に半数ずつもって切る音、持ち主が変わるときに硬貨とカウンターがチリン、チリンと鳴る音だけであった。賭博の規制を意図して、一六三八年にマルコ・ダンドロに、サン・モイゼ教会の近くの自邸に公営の遊興場(リドット)を開設する許可が与えられた。
グアルディ『リドット』.[『ヴェネツィアのリドット』(左、フランチェスコ・グァルディ、下左、ピエートロ・ロンギ画集、下中左、下中右、下右、ロンギのリドット画)] 
ピエートロ・ロンギ画集『ヴェネツィアのリドット』Il ridotto賭場の胴元この邸館はその後大幅に増築されて、大きな部屋一〇室をもつことになり、各室にはテーブルがいくつか備えられ、バッセッタやファラオーネからパンフィル、タロッコ、ビリビッソやツェッキネッタにいたる、あらゆる賭け勝負が行なわれた。このような賭博室の一つで、由緒あるモーロ家出身のある男が長年の間胴元をつとめた。彼は負けを支払うときも勝ちを受けるときも穏やかで冷静な表情を変えないことで有名であった。……」

「おおくの有名な貴族家門が賭博で没落したのちに一七七四年、大評議会(マッジョール・コンシーリオ)は七二〇対二一で公営遊興場(リドット)の閉鎖を議決し、建物は政府の官庁へ転用された。実はこの法律が通過すると予想していた議員はほとんどいなかった。多くの議員が賛成票を投じたのは、こうして賭博反対の意を示したところで、自分自身の楽しみが損なわれることはなかろうと確信していたからである。……」

「賭博はあまりにも強固に定着していたので、簡単に廃止することはできず、、公営遊興場(リドット)が開設されていたときと同様に、その後もヴェネツィアのいたるところで、邸館にある私営遊興場(リドット)で行なわれた。……」
[賭博熱については、2019.08.19日のヴェネツィアの賭博等で触れました。]

「貧しい人たちもまた貪欲に賭博に興じた。あまりに寒くて、あるいは雨天のため天水槽のおおいを賭博用の台に使えないときは《海難救助員宿泊所》の裏手のような場所があった。これは一七八二年に政府が閉鎖したクラブであるが、それまでは召使い、給仕、その妻や友人らがしばしば訪れた。

賭博はまた居酒屋、、床屋、そして市中の多数の葡萄酒酒場(マルヴァジエ)で行なわれた。葡萄酒酒場では労働者たちがベンチに座って、乾いてかたいヴェネツィアのパンをムシャムシャ食べながら陶器の瓶からエペイロス産葡萄酒(マルヴァジーア)をすすった。

さらに賭博に興じる人びとを見ることができる場所は、粗末な葡萄酒がスープと魚のフライとともに出される店として知られ、暗くて煙で黒くなったフラトーレであり、お客がウエハースに入れた泡立てクリームを食べる店であるペストリーニであり、葡萄酒とガルバ(渋い味のブランデーの水割り)とともに食べ物も買うことができ、物品を質に入れることができ、《遊蕩を目的として》部屋を借りることができるマガッゼンであり、そしてコーヒー店であった。

コーヒー店は、文人たちが集まる《カッフェ・メネガッツォ》や政府役人が贔屓にする《カッフェ・デイ・セグレターリ》から、コルフ島出身のある男が経営者で濃く甘いトルコ風コーヒーで有名な《カッフェ・クアードリ》や昔の《ヴェニス・トライアンファント》で一七二〇年にフロリアーノ・フランチェスコーニが引きついだ《カッフェ・フロリアーン》にいたるまで多種多様であった。

これらのコーヒー店のほとんどで経営者は新聞、官報、ときには書物さえも提供した。書物は、ヴェネツィアでは他のイタリア都市と比べて安く、他の地方では発禁処分となっている出版物ばかりでなく、優れた印刷の古典や現代文学を、書店のみならず市場の屋台店や街頭の呼び売り商人からも容易に買うことができた。

ほとんどすべてヴェネツィア方言で書かれた新聞『ガッゼッテ』は、どこにでもあった。掲載されている記事は、ニュースと噂話、調理法と園芸や家庭での修理の心得、売り物と探し物のリスト、書評と劇評、商取引の報告、そしてのちに二〇世紀初頭の『ガッゼッティーノ』に見出すことになるような記事であった。……」

「たいていの新聞は、詩人を自称した、ときに金のために売文家となる連中が編集していた。彼らはヴェネツィアに無数に存在する文学協会のいずれかに属していた。たとえばグラネッレスキ協会、すなわち金玉アカデミー(その紋章は爪に二つの睾丸をつかんだ〝ふくろう”であった)、ヴェントゥロージ協会、インペルトゥルバービリ協会、インペルフェッティ協会、シレンティ協会、アドルニ協会(寓話を書いた)、メッカニーチ協会(専門は猥褻文学)、あるいはアッカデーミア・デッリ・インフェコンディ(その入会資格は著述遮断、すなわち心理的要因から著述不能になっていることが要件であるので、入会以前に著作のある人はいなかった)などである。
[有名なグラネッレスキ協会については、2012.05.26日のダンドロ・ファルセッティ館で触れています。》

著述によって生計をたてている者はほとんどいなかった。……詩人のドメーニコ・ラッリは《実際に飢え死にした》と言われた。実際、ゴルドーニのように成功した多作の作家でさえ貧窮のうちに他界したのである。……」 (その5に続く)
[ゴルドーニについては、2009.10.10日のカルロ・ゴルドーニ》(4)等で触れています。]

追記: パードヴァ在住の人がコロナウイルスで亡くなったのはニュースで読んでいました。ヴェーネト州の感染者が25人にもなり、ヴェネツィア在住の88歳の老人が2人入院の結果、感染陽性が判明し、急遽ヴェネツィアのカーニヴァルは日曜日で中止の事態となりました。ホテルは40%程度しか今年は埋まらなかったと聞きましたが、25日のmartedì grassoまで続く予定だったカーニヴァルも突如中止となれば、観光客は直ぐヴェネツィアを去って行くでしょう。
  1. 2020/02/23(日) 17:37:30|
  2. ヴェネツィアの歴史
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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