FC2ブログ

イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

伊語版Wikipedia“Peste nera(黒死病)”――7

(続き)
「  人口統計の推移  

人口統計上黒死病は、2000~2500万人、当時のヨーロッパ人口の約3分の1の生命を奪ったと推定されている。しかしアジアやアフリカの犠牲者については確たる資料がない。当時の人の証言は、このパンデミックへの恐怖心や悲惨さを表現するのに恐らく過剰な数字を挙げ連ねているから、数字は慎重に考慮されねばならない。

例を挙げれば、アヴィニョンでは同時代の年代記作者は死者の数を12万5千と見做していたが、その当時町には5万以下の住民しかいなかった。宗教団体に関するデータでより信憑性があるのは、例えばアヴィニョンの聖アウグスチノ修道会士全員、またカルカソンヌとマルセイユのフランチェスコ会修道士全員(それらはそれぞれ凡そ150人であった)、更にマグロン(Maguelon―これは大聖堂のあるヴィルヌーヴ=レ=マグローヌの事だろうか?)のフランチェスコ会修道士160人中153人、また更にモンペリエのフランチェスコ会修道士140人中133人が各々亡くなった。

1347年12月~1349年5月の間ヴェネツィアでは、人口の約60%ほどが消滅した。言わば、12~15万人の間を上下していた人口の内、7.2~9万人が犠牲者となった。早々とquarantena(40日間の検疫)を行っていたにも関らずである。ロンドンは12万5千の住民に対して、2万5千~5万人の死者を数えた。

トスカーナではサン・ジミニャーノで、住民の70%が死んだし、プラートでは、ブレーメン(Brema)の70%、リューベク(Lubecca)の25%、マクデブルク(Magdeburgo)の50%の家族が消滅したように、38%の家族が消えた。

数字以上に、ペスト猖獗に具体的なイメージを与えてくれるのは、個人の運命である。スィエーナの年代記作者アーニョロ・ディ・トゥーラは死者の埋葬人が最早いなくなり、自分の5人の子供を自らの手で葬らねばならなかったと嘆いた。

キルケニーにあるアイルランド修道院で、最後に生き残ったジョン・クラインは自分がペストで死ぬ直前に、疫病蔓延の中、自分は最後に生き残っている人間であり、自分が書き始めたペストの年代記を書き続けることが出来ればという希望を紙に記していた。多くの場合、自分自身もペストに冒され、ペスト患者に呼ばれて慰めの言葉を与えてから死んだ宗教者は多かったのである。ヨーク市の教区では土地の聖職者約40%が亡くなった。

黒死病は全ヨーロッパを同じ程度で打ちのめした訳ではない。ある稀な地区では感染から殆ど免疫状態にあった(ポーランド、ベルギー、プラハのある地域のように)が、他の地区では逆に殆ど人が居なくなった。イタリアではペストからミラーノが地域的に免れ、約10万人の人口ながら1万5千の死者で済んだ。一方フィレンツェは住民の5分の4が死んだ。

ミラーノは何故死者を抑えることが可能だったかという推測がなされた。その幾つかは、ヴィスコンティ家の強力な政庁に焦点が向けられた。それは町への商品や人の出入りを激しく制限したことであった。そして家族内の一員に感染者ありの疑いが出た時は、家に隔離させた。一方別の人々には、町から少し離れた、人気のあまりない広大な地域にいるように勧めたし、多くの人には隔離場所を見付けることを許した。

ドイツでは特に南部が難を逃れたが、ハンブルク(Amburgo)、ブレーメン(Brema)、ケルン(Colonia)は、手酷く打ちのめされた。人口に及ぼした結果は、特にフランス、イタリアでは厳しいものであった。

スカンディナヴィアも悲惨なものだった。特にノルウェーではパンデミックは、国王夫妻なしという状態に国民を放り出すほど激甚だった。即ちデンマーク、ノルウェー、スウェーデンの北欧三国がデンマークのマルグレーテ(Margherita)1世女王の元に合体したのはこの時のことであった。

ヨーロッパの人口がパンデミック前の密度に戻るには数世紀が必要であった。合衆国の中世史学者デイヴィッド・ハーリヒイは、ヨーロッパの住民数は15世紀の初めの数10年間は下降は止まったが、次の50年間は固定的であった。その後1460年頃からゆっくりと増加を始めたと書いている。 」 (8へ続く)
  1. 2020/05/08(金) 00:46:54|
  2. 疫病
  3. | コメント:0
<<伊語版Wikipedia“Peste nera(黒死病)”――8 | ホーム | 伊語版Wikipedia“Peste nera(黒死病)”――6>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

カウンタ

カレンダー

06 | 2020/07 | 08
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア