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イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

リアルト橋

2000年の大聖年の年から6年間、ヴェネツィアの語学学校に通いました。仕事がありましたので、年に精々2~3か月間でしたが、レベル1から始まりました。現在のコロナ騒ぎで学校はどうなったでしょうか。伊語の学校には外国人しか学びに来ません。国境は閉鎖状態で観光客もまばらなヴェネツィア! 市は観光客もいない状態で、市の美術館や博物館も閉鎖することにしたそうです。

学校から伊語の勉強を怠るな、と能くヴェネツィアに関する書物からの引用文をメールで送ってくれていました。その中に、リアルト橋についての引用文がありました。リアルト橋については以前にも何度か触れていますが、視点の異なることと文章が非常に難しかったので、譯の練習を兼ねて、蛮勇を奮って訳してみました。どういう人が書かれた文かは判りません。

「……1507年、十人委員会は、木製のリアルト橋を石製に取り換える意向を固めた。石製は3アーチで、中間に2橋台・2橋脚という、中央が通過出来る様に開かれた構造とされた(最初の石造製の構想)。有能な技術者がいたにも拘わらず、年月が経った。
カルパッチョのリアルト橋[カルパッチョ画の木造のリアルト橋(部分画)]  1527年から彫刻家で建築家のサンソヴィーノ(ヤーコポ・タッティ)がヴェネツィアに最終的に定住した。彼はサン・マルコ政庁の印刷者であり、サン・マルコ小広場を古代ローマ様式に再生させるためのクリエーターとして任命されていた。

貴族のアルヴィーゼ・ドナは航海に長けた愛好家だった。1537年、3アーチの橋のモデル(第4番目の構想)を既に完成させていた。1546年、十人委員会は以前にピエートロ・デ・グベルニに相談を持ち掛けていた。彼は塩と海洋庁の職長で、単独アーチの木造橋のモデル(第5番目の構想)でサンソヴィーノに重大な疑問を投げ掛けていた。

1551年には石造橋についての質問が元老院に強力に投げ付けられた。工事の監督官には、サンソヴィーノの支持者であったヴェットール・グリマーニとアントーニオ・カッペッロが選ばれた。
アルピーニ橋[サイトから借用。1569年バッサーノ・デル・グラッパに架橋されたパッラーディオの屋根付きの木造の“ヴェッキオ橋”、アルピーニ橋とか屋根付き故コペルト橋等呼ばれます]  竟にコンクールが公募された。ヴェネツィアのマエーストロやイタリア各地の人が公募に応じた。サンソヴィーノ以外にもバルバロ兄弟に支持されていたヴィチェンツァ出身のパッラーディオも応募した(バルバロ兄弟の、ダニエーレはアクイレーイアの貴族で、パッラーディオの挿画入りの、ウィトルウィウスの『建築について』の知的翻訳者であり、マルカントーニオはドミヌスの施政官、サン・マルコ収入役で、サンソヴィーノ図書館[サン・マルコ図書館]完成に尽力した)。
……
街を美しくしたいという通常の目的には橋も含まれていたが――それは特にサン・マルコ地区を変えたいということが中心であった――パッラーディオの構想はそれまで知られていなかったが故に、無に帰した。彼は観念的、象徴的、水力学的な発想の時期にいたのかも知れない。
……
パッラーディオはその時、出向で遠くにいたのであったが、必要な場合は、事に対して批判的にもなって、自分の論文にリアルト橋の3アーチという野心的な構想を導入していた。木造ということは部分的な修復が可能という、十人委員会の認めていたことのために後々まで彼の心に残っていた。
Palladio[パッラーディオ、サイトから借用]  彼のその悲しむべき状態の前で、元老院は新しい橋を完璧に遂行するために、3人の監督官を任命することを決めた。橋の輪郭は大評議会が大衆的見地から認めるものとなるかも知れなかった。
……
1587年[この年再度の公募が行われました]12月28日、前例にはなかったような手続きで、政府の役人達は最初の相手に、更に質疑に応じることの出来る全専門家に向き合った。9つの関係する質問があり、それは安全性、費用、建造の難度、高さ、通行人や船の利便性、潮の流れ、障害物、埋め立ての危険度、橋の美観だった。そのデッサンが監督官の家に張り巡らされていたので、現在我々は職人衆の証言内容が判るのである。

質疑に応じて、ヴィチェンツァの建築家の、パッラーディオの弟子であったヴィンチェンツォ・スカモッツィもコンクールに参加[師のパッラーディオの死は1580年]し、“コンクールに参加”と署名したように、それは戦いであった。

スカモッツィ(同じ様にマルカントーニオ・バルバロに支持され、援助されていた)によれば、3アーチと水流の川床中間部に埋め込んだ2本の橋脚で橋を建造することが必要だった。古代ローマの建築家が教えているように、正しい教えは長期となる建造期間中に結果が出るのである。単独アーチの橋という考えは、未開人の意見であって、橋は偏に橋台の堅牢度に委ねられる。故に、その橋の強度の持続は短期間だけの事である。[直ぐに崩れるの意]

リアルトのために、彼は中間の2つの橋脚の中央に完全な半円形の大きなアーチを提案した。河岸上の橋台と共に2つの小さなアーチを支えるだろう。
……
アントーニオ・ダ・ポンテ像[ダ・ポンテ像、サイトから借用]  18世紀の研究者によると、3アーチという解決策を持つヴィンチェンツォ・スカモッツィの案が元老院に選ばれるはずだった(1587年)としている。17世紀と19世紀の歴史家は、提出された色々の案について仄めかしているが、選択としては単独アーチのアントーニオ・ダ・ポンテ案が考慮された(彼は建造現場の監督だった)としている。
[アーチ1個案が選ばれる結果になりました]
……
実際の建造作業と共和国の政府機関の、危険を能く知った配慮が失敗を阻止した結果となったが、困難な過程は大きな橋が失敗作になった可能性もあった。しかしそれは、大運河の川床に支えられた訳でもなく、中断なしに大きなアーチで大運河を跨越し、泥濘に打ち込まれた橋台の重さの圧力に堂々と耐え、潮の流れや巨大船も危険なく上向下降させ、大理石の舞台、というよりモニュメンタルな背景、言わずと知れた水の大通りを、隠すことなく正しく設定したからである。
ジュゼッペ・ボルサート画『リアルト橋』鳥瞰的リアルト橋[左、ジュゼッペ・ボルサート画『リアルト橋』] それは直ぐ様、ヨーロッパ中に知れ渡った。……」
 ――ヴェネツィア学院送付の文章から

各国の語学生で成り立つ語学学校です。コロナ禍中、人の行き来が途絶えれば、生徒はゼロ、経営破綻は目に見えています。日本の日本語学校も同様でしょう。懐かしい先生方の顔が目に浮かびます。何とも成す術はありません。下手な訳文、申し訳ありません。
  1. 2021/01/08(金) 23:20:43|
  2. ヴェネツィアの橋
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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