イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

Giordano Bruno(G)(ジョルダーノ・ブルーノ―1548~1600)

2000年1~3月、ヴェネツィアで初めて語学学校に入学しました。

2ヶ月近くの間、借りたアパートは、ヴァポレットのサン・トマ(S.Toma`)停留所の、大運河の対岸真正面にある、モチェニーゴ館(Ca` Mocenigo)でした。サン・トマ駅から見ると、左から《モチェニーゴ・カーザ・ヌオーヴァ(新)》《モチェニーゴ》《モチェニーゴ・カーザ・ヴェッキア(旧)》と3棟のモチェニーゴ館が並んでいます。
モチェニーゴ館借りたのは右側のカ・ヴェッキア(Ca` Vecchia)の一部屋でした。マルコ・ポーロ空港に着いて、空港からボート・タクシーで案内され、大運河の表玄関から入館した時は、大変な感激でした。やって来るまでは、大運河に面した貴族の館に住むなどという思いは全然なかったからです。

初めてのアパート生活となると、食品等の買物その他のために周りの地理を覚えることが先決です。アパート生活中、鍋の蓋の摘みのねじが紛失した時、探し当てた金物屋さんにピッタリの物がありました。今ではその店も無くなり、ヴェネツィアの人々が土産物屋ばっかりが増えていくと嘆く気持ちが、よく分かります。

学校のあるサンタ・マルゲリータ広場(Campo S.Margharita、私の参照している地図は、Helvetia 出版『Calli, Campielli e Canali』で、ヴェネツィア語を多用しているようです)へは、近くのトラゲット通り(calle del Tragheto o Garzoni――ヴェネツィア式綴り)から、トラゲット(伊語traghetto、渡し舟。当時700リラだったでしょうか)で渡河するのが早かったのですが、アッカデーミア橋を渡って通学しました(所要時間10分)。

それを機に、大運河に面した館のことを書いた本を買ってきて読んでみました。Raffaella Russo 著『Palazzi di Venezia(ヴェネツィアの館)』(arsenale editrice、1998)という文庫本です。

ナーポリで異端の嫌疑をかけられ、1576年に逃亡し、アルプス以北の国々(北イタリアからジュネーヴ、パリ、ロンドン、ヴィッテンベルク、プラハ、フランクフルト……)を漂浪していた哲学者ジョルダーノ・ブルーノは、1591年ヴェネツィアにやって来ます。ジョヴァンニ・モチェニーゴがそれを聞き付け、彼を自分の館に招待します。ジョヴァンニは錬金術の秘密を彼から教わりたかったのでした。

哲学者にはそれは無理なことだったので、ジョヴァンニは「Cristo e` tristo.(キリストは邪悪だ)」「Niuna religione gli piace.(どんな宗教も好きになれない)」等を口にしたとして、彼は異端者だ、とヴェネツィアの異端審問所に訴え、彼はこの古モチェニーゴ館で捕らえられます。

ローマに送られ、7年の刑を言い渡されますが、《異端思想》を捨てなかった(non ha abiurato)ため、1600年2月にローマのカンポ・デイ・フィオーリ(Campo dei Fiori)広場で火炙りの刑に処されます。

初めは快く招いてくれた人間が後で豹変して、彼を死に追いやった裏切者の家の中庭に、火刑になった日に幽霊となって現れるという噂がすぐに立ち、言い伝えとなっていると書かれています。

その日学校から帰ると、復習をしながら伊語の音声に早く慣れたいため、RAIのヴェネツィア放送を聴いていました。話者達によってジョルダーノ・ブルーノの名前が何度も繰り返されるので注意をして聞いていると、その日2月17日は彼の命日で特別番組が放送されていたのでした。

その日は深夜までワインをすすりながら、中庭(大部荒れていましたが、相当に広く、狭いヴェネツィアの土地に比し、中庭を広く持てるのは貴族の誇りなのでしょう)を凝視していたのですが、奇妙な東洋人に人見知りをしたのか、彼は姿を見せてくれませんでした。

2000年の大聖年、それも彼の死後400年回忌に、彼の運命を決定的に左右した館に滞在したことで、私は以来ヴェネツィアという町に非常に不思議な因縁を感じています。
campo-de-fiori-market[サイトから借用]  ローマのカンポ・デイ・フィオーリは、毎日(日曜日を除く)午前中、野菜、肉、魚などの市場が立ちます。ジョルダーノ・ブルーノは今では自分が処刑されたその広場で銅の像となって、ローマ人の活気ある日常生活を眺め下ろしていますが、自分の思想は間違っていなかったと思っているに違いありません、故ヨハネス・パウルス2世(1978~2005在位)はガリレーオ・ガリレーイに下した教皇庁の判断は誤りだったと認めたのですから。
  1. 2007/11/07(水) 00:05:39|
  2. ヴェネツィアのアパート
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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