イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――ガースパラ・スタンパ(2)

(続き)
「1548年のクリスマスの数日前、ドメーニコ・ヴェニエールのサロンで、彼女はトレヴィーゾ国境の領主で文学者の後援者でもあった、貴族のコッラルティーノ・ディ・コッラルト(Collaltino di Collalto)に逢った。当時風に言えば、彼もまた平凡な詩人であった。

彼はアレティーノ、ジェローラモ・ムッツィオ、ドルチェ、オルテンシオ・ランド、バルダッサッレの友人のドメーニキらと親しかった。

コッラルト伯爵との最初の出会いから、1、2ヶ月でガースパラとの間は恋愛関係に発展する。彼は彼女の詩作品にインスピレーションを感じていたが、彼女の深い、真っ当な愛には応えないで、縛られるような絆は拒否する態度をとった。

母と姉の願いは彼女と彼が結婚してくれることだったが、関係が始まった約6ヶ月後には2人の関係は立ち消え状態になっていた。それは突然彼が恋人には目もくれず、傭兵隊長オラッツィオ・ファルネーゼに従って、フランスでの戦争に行ってしまったからだった。

1549年彼は、1544年からイギリス人の手に落ちていたブーローニュ・シュル・メールの再度奪還を目指すアンリ2世に従って、フランスに旅立った。6月にはアンリ2世の娘ディアーヌとオラッツィオ・ファルネーゼの結婚祝賀会にも行ってしまう。

11月彼は偶々ヴェネツィアに居て、彼女に近付いたようである。彼は不在中、手紙はおろか彼女の愛情溢れるソネットには応えたことは皆無である。今や恋人の不実は明白である。2人の関係は嫌々ながらも再開したが、彼女の方が彼に対する熱い思いに再び火が点いてしまう。

そして有名な「O notte a me piu` chiara e piu` beata(おゝ夜よ、あなたは私には更に明るく晴朗で、幸せなもの)」のような、最も美しいソネットが幾つか生まれた。

数ヶ月後彼は再び出発し、1550年末まで居ない。恐らく彼女はこの間アナクスムのアナッシッラ(Anassilla da Anaxum)の名前で、ドゥッビオージ・アカデミー(Accademia dei Dubbiosi)に参加している。アナクスム(Anaxum)は、恋人の領地を流れるピアーヴェ(Piave)川のラテン名である。

1550年ヴェネツィアに帰ってくると、彼は彼女をトレヴィーゾ領のサン・サルヴァトーレに連れていく。その地で彼女は彼との関係が始まった当初のような幸せな日々を過ごした。しかし人もいない邸館に独り残されることがしばしばで、彼女は最初の精神的不安定状態に追い込まれ、健康上の虚弱体質が露わとなり、悪化していった。
ガースパラ・スタンパ[ガースパラ、イタリアのサイトから借用] サン・サルヴァトーレから帰宅すると、彼との関係は破れ、覆水盆に返らずだった。肉体的に衰弱し、精神的にも憔悴し、彼女は何ヶ月にもわたって完全な休養を取らねばならなかった。この期に彼女の近くに居たのは、ヴェネツィア貴族のバルトロメーオ・ゼーンで、彼の包容力溢れる配慮を受け入れ、感謝している。」  (続く)
  1. 2009/05/09(土) 00:01:50|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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