イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

Seminario Patriarcale(総大主教のセミナーリオ)

前回書きました大運河左岸の、塩倉庫右隣りにはあまり目立たない建物、教皇庁のセミナーリオが、サンタ・マリーア・デッラ・サルーテ(S.Maria della Salute)教会とに挟まれてあります。
教皇庁神学校この辺り一帯はかつて、旧至聖トリニタ教会(chiesa di SS.Trinita`)とその修道院(monastero)があったそうです。1630年元老院はペストの鎮静化に感謝して、聖母マリアに捧げる教会の建設を決定し、バルダッサーレ・ロンゲーナ(Baldassare Longhena)を建造者に選び、建設に当たり、老朽化していたらしい至聖トリニタ教会と修道院を取り壊し、その跡地を新教会の建設地としたようです。サルーテ教会の完成までに1687年まで掛かります。

1669年バルダッサーレ・ロンゲーナが、現在の総大司教セミナーリオの場所にソマースキ神父(Padri Somaschi)達のために、セミナーリオを建設しました。1810年ナポレオンの命令でヴェネツィアの宗教施設や信心会・修道会の類が、沢山廃止の憂目に遭います。1815年にはオーストリア・ハプスブルク皇帝フランツ1世の通達で、このセミナーリオは教皇庁のセミナーリオとして生き残ることになりました。

そうした中、かつてのヴェネツィアの思い出となり、記念となる物、例えば石碑や遺物等の収集に情熱を傾けていたモスキーニ(G.Ant.Moschini)司祭のお陰で、セミナーリオは芸術品や歴史的遺物等を収集・保存し始めました。

それは1810年のナポレオンの命令で廃止になった教会や修道院にあった、放っておけば結局は消滅し、失われていく運命にあった物の収集・保存ということでもありました。こうして最初のセミナーリオの重要なヴェネツィアの収集物の中核が形成されていきました。1940年に再整備された、2階にあるマンフレディアーナ美術館(Pinacoteca Manfrediana)や考古学コレクションなども含まれていきます。

私が1996年ここに訪れたのは、現在はアッカデーミア美術館になっているカリタ大同信会館[カリタ教会もカリタ修道院も美術館に改変されました。最近まで本部が置かれていた美術アカデミーはかつてのインクラービリ養育院(Ospedale Incurabili)に移されたようです]にあったと思われる、4人の天正少年遣欧使節の来訪を記した1585年の石碑を見せて頂くためでした。

1585年7月5日、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの4人はヨハンネス・ベッサリオン(Giovanni Bessarione)枢機卿の残された聖遺物を拝観にサンタ・マリーア・デッラ・カリタ大同信会館に来訪しました。その事を記した碑が現在はここ総大司教神学校に移されたのでした。
天正遣欧使節の碑正門を入って直ぐの広い中庭キオーストロ(chiostro)の一番奥左の壁面にその碑は掲げてありました。名状し難い感動を覚えました。素晴らしい装飾のある井桁(vera)は目に入りませんでした。またここには Giusto Le Court の沢山の彫刻で飾られた大階段もあるのだそうです。

『天正遣欧使節』(松田毅一著、講談社文庫、1999年1月10日発行)によりますと、天正の使節が宿泊した場所は、このセミナーリオの裏庭となっている場所だったそうです。老朽化した建物は彼らの滞在後、4年目1589年には大修理が施され、1606年にはイエズス会はこの建物を放棄したのだそうです。

勝手な推測を述べてみますと、年代的には至聖トリニタ修道院がまだ存在していた時代、4人の使節はこの修道院に泊ったのではないかと推察します。ヴェネツィア人にはこの石碑とトリニタ修道院の関係は分かっていて、この碑をこのセミナーリオに置いたのでしょうか。少年使節は各地のイエズス会派の宿舎に泊ったようですが、この修道院がイエズス会派のものであったかどうか、まだ調べていません。しかしこの狭い区画に宗教施設が林立していたとは考えにくいのです。

参考にした書籍=Giuseppe Tassini『Curiosita` veneziane』(Filippi Editore Venezia, ristampa 1990)、Giulio Lorenzetti『Venezia e il suo Estuario』(Edizioni Lint Trieste, 1996)、Elsa e Wanda Eleodori『Il Canal Grande―Palazzi e Famiglie』(Corbo e Fiore Editori, 2007)等。

2008年3~4月に《天正のローマ使節》として4人の少年のことを書きました。参考までに次のサイトも見て頂ければ、と思います。天正のローマ使節(3~5)》、《天正のローマ使節(1、2)
  1. 2009/06/20(土) 00:01:01|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
  3. | コメント:2
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コメント

少年使節

少年使節の話、興味を持って読ませていただきました。添付のリンクも全部訪問して、安土城の屏風の絵はいつか発見されることを祈ります。少年使節を行く先々で熱狂的な大歓迎で迎えたイタリア人たちは何を思っていたのでしょうか。ただの物珍しさだけではないような気がします。
  1. 2009/06/19(金) 19:56:03 |
  2. URL |
  3. September30 #-
  4. [ 編集 ]

september30さん、コメント有難うございました。
私も単なる物珍しさだけから大歓迎されたのではないと思います。イエズス会の布教
に応えて、挨拶に地球の裏側からローマまでやって来た使節を歓迎するように、教皇
も下知を飛ばしたのでしょう。発案者のヴァリニャーノにはあんな風にイタリアを
派手に経巡る計画はなかったと思います。
ヴェネツィアから大変高価なお土産を沢山頂いたようですが、その中にヴェネツィア
でしか作れなかったレースグラスがあり、近所の八王子の城跡からその破片が見つ
かっており、あの頃の物の流れを想像すると不思議な思いに囚われます。
  1. 2009/06/22(月) 07:13:14 |
  2. URL |
  3. ペッシェクルード #/plE8HKU
  4. [ 編集 ]

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Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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