イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの女: ペギー・グッゲンハイム(1)

今までも何度か引用させて頂いている、ブルーノ・ロザーダ著『ヴェネツィア女 愛とその意義――カテリーナ・コルナーロからペギー・グッゲンハイムまで』(Corbo e Fiore Editori、2005.10)で、最後に登場する女性ペギー・グッゲンハイムという、ペギー・グッゲンハイム・コレクションを立ち上げた女性について。

グッゲンハイムという発音はドイツ語式でしょうか、ヴェネツィア人はグッゲナイムと"H"を発音しません。初めてこのコレクションに向かった時、途中土地の人に《グッゲンハイム・コレクションへはこの道でいいですか?》と尋ねると、ちょっと不審そうに間を置いて《お前の言うのは、グッゲナイム・コレツィオーニのことか。だとすれば、この道で Va bene.》と。
ブルーノ・ロザーダ『ヴェネツィア女――愛とその価値』ペギー[写真はサイトから借用]  「ペギー・グッゲンハイムはヴェネツィア女だろうか? その名前から判断すれば、そうだとは全く思われない。 しかも誕生の地だってそうではない。だがしかし"Sìー"、ヴェネツィア女性なのである。1898年8月26日、ニューヨーク生まれは明確そのもの。喋る調子、生き方は全くアメリカ的である。

しかし彼女には何かがある。ヴェネツィア女達について語るこのお話の中で、ヴェネツィア女として彼女を語ることは可能である。ヴェネツィア女ペギー・グッゲンハイムは1962年2月6日、名誉あるヴェネツィア市民権を与えられたというお役所的な理由からだけでなく、更にはより情動的動機からもヴェネツィア人なのである。

ペギー・グッゲンハイムはかつて書いたことがある。即ち《ヴェネツィアは正に我が大いなる"愛"である。この世でヴェネツィア以外、他のいかなる地であれ、私はそこで幸せであり得るべからざるのである。この地に常住したいのだ。》 だから"愛のヴェネツィア女"、我々は彼女をこうも呼べるだろう。

それはあらゆる意味での愛なのだ。それは町にとっても、ある幸運な住民にとっても、更に彼女の比類なき美術のコレクションを鑑賞しようとヴェネツィアを目指し世界各地から訪れる我らが区々の友人達にとっても、である。

ペギーは単なる美術品の大収集家だったのではなく、経営的な意味においても特別な才能も持ち合わせ、愛に焦がれる情熱家だった。私は思い出す: 私の女友達や彼女のアメリカの女友達が私に語った、彼女に対する誹謗中傷のことを。 : もし本当だとすれば、いかにもありそうに思えることは確かである。

欣喜雀躍して1000番目の恋が彼女の人生にやって来たある時期、私の女友達が解説するように、憧憬の余り狂い死にしそうだと妹に直ぐ様電話したらしい。多分彼女には羨望の思いもあったのだろう。ペギーは自分から愛することも出来たし、自分を愛させることも出来た。自らを抑制して、しっかりした、ある種の共感というものを輝かせることも出来た。

しかし時に愛は悩み苦しみを与える。タンクレーディ・パルメッジャーニ(芸術家としては単にタンクレーディ)は偉大な画家だった。19世紀芸術の革新的欲求にひどく敏感に反応し、心の情動、愛、苦しみにも深く突き動かされた。1964年ヴェネツィア・ビエンナーレに出品した。それはいくつかの成功の後に到達した目標地点だった。そして…… 」 (2に続く)
ヴェネツィアが燃えた日今まで何度か紹介したジョン・ベレント著『ヴェネツィアが燃えた日――世界一美しい街の、世界一怪しい人々』(高見浩訳、光文社、2010年4月25日)が、ペギーについて詳しく触れています。
  1. 2017/09/07(木) 00:05:36|
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マリーン・サヌード(Marin Sanudo――伊語Marino Sanuto)

前回も触れ、今までも何度か触れてきたマリーン・サヌードの生涯について、マルチェッロ・ブルゼガーン著『ヴェネツィア人物事典(I personaggi che hanno fatto grande Venezia)』(Newton Compton Editori、2006.11)から紹介してみます。
『ヴェネツィア人物事典』「歴史記述史家、年代記作者(1466.05.22ヴェネツィア~1536.04.04ヴェネツィア)
サヌードの裕福な一家の最も重要な一員である。少なくとも11世紀からはヴェネツィア史の中では確定した一家であり、13~14世紀生きたマリーン・サヌード・トルセッロ(初代il vecchio)の子孫として区別するために、il giovane(ジュニア)と呼ばれた。

元老院議員であり、歴史記述史家であって、サンタ・クローチェ区に在住し、その建物は市民のための穀物が保管されていたのでそう呼ばれた、メージョ(Megio=伊語miglio、粟、穀類の意)運河通りに面していた。

1500年を挟んでヴェネツィア生活の優れた年代記作家として、ヴェネツィアの1496~1533年の政治、経済、軍事を始め、日々の事、個人的な事、風俗習慣に渡ってあらゆる出来事を微に入り細を穿って58巻の日記の形で書き留めた。この日記(驚異的な著名なヴェネツィア語で書かれており、出版は漸く20世紀になってからだった)は、ヴェネツィア史の研究者にとって無尽蔵のニュースの源泉であり、何世紀にも渡って、この現実の町の歴史のあらゆる瞬間に関する詳細なニュースを得ようとする時、この潟の街の歴史家達はこの日記に鋭意専心してきた。
[ヴェネツィア語とは――現在では方言と処理されますが、ウンベルト・エーコはバーカロの中で国語というものについて述べています。現在でもヴェネツィア語のコミュニティーがブラジルやメキシコに構築されているそうです。]

しかし作品の読み易さ、取り込まれたデータの豊富さと興味深さが、単純な読者をも熱中させ、その中に限りない、詳細な細部に至るまで見出させ、読者を巻き込み、薫陶していった。

サヌードは他の重要な文学作品の作者でもある。その中には『歴代総督伝』『De situ et magistratibus urbis Venetae』『ヴェーネト地方内陸部旅行記』、これらはヴェネツィア史にとっても重要な作品である。しかしサヌードは詩や劇作品においても教養豊かで洗練されており、確かに知名度はあまりないが、芸術的才能は際立ったものがあった。

彼の収集癖、文学に対する熱い思い、洗練された書き手といった性格は、彼を手稿本や印刷本の豊富な図書室を作り上げることに向かわせた。1530年頃には地勢図、都市図、地図類以外に約6500冊を数えた。こうした驚異的な図書室は、当時のインテリ達に大変評価されたが、残念なことに、《単に貧しいというよりも、年老いて、病身で、貧しい紳士》(1531年経済的援助を求めて、その時十人委員会に向けて彼自身がそう書いた)は、年に金貨150ドゥカートの終身年金を得たかもしれないのに、祖国の歴史的記憶の研究と追及に注いだ長い年月の間に背負い込んだ負債の清算のために全書籍を売らざるを得ない事態に立ち至り、その多くが露と消えたのだった。」

『ヴェーネト地方内陸部旅行記』は英国の古文書学者ロードン・ブラウンが1848年パードヴァで最初に本にしたそうですが、ブラウンはヴェネツィアに到来し、英国関係の古文書を調べる中で、サヌードを知り、もっと知られるべきだと周知活動等をしながら、ヴェネツィアで亡くなったようです。2009.12.05日のブログダーリオ館でブラウンについて触れました。

『Diarii di Marin Sanudo 1466-1536』は1879~1902年、ヴィゼンティーニによりヴェネツィアで本になったそうですが、監修者には次の名前が挙げられています。Rinaldo Fulin、Federico Stefani、Niccolò Barozzi、Guglielmo Berchet、Marco Allegri。この中のGuglielmo Berchet(グリエルモ・ベルシェ)という名前は、米欧回覧使節の岩倉使節団が1873年にヴェネツィアに到着し、東洋学者グリエルモ・ベルシェの案内で古文書館に行き、支倉常長や天正遣欧使節の日本文のヴェネツィアへの挨拶状を発見した、という話を思い出すのですが、その当人でしょうか? 岩倉使節団については、2010.10.16日の久米邦武をご参照下さい。
  1. 2017/08/24(木) 00:57:24|
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天正遣欧使節(10)

世界文化社の『家庭画報』2017年3月号に次のような特集記事が掲載されていました。即ち「誌上初、ヴァチカン教皇庁図書館の至宝を特別公開」として、特集《天正遣欧少年使節団の書簡》という大変貴重なものでした。
天正使節書簡天正遣欧少年使節については、私のブログでも2008.03.21~2013.11.27日天正遣欧使節》(1~9)と触れてきましたが、その内容とこの雑誌で書かれていることに齟齬があるようです。カトリック大辞典(冨山房)を始め、新異国叢書5の『デ・サンデ版 天正遣欧使節記』(泉井久之助、長沢信寿、三谷昇二、角南一郎訳、雄松堂書店、昭和44年9月30日)、ルイス・フロイス著『九州三侯遣欧使節行記』(岡本良知訳注、東洋堂、1942-49年)、三浦哲郎著『少年讃歌』(文春文庫)、松田毅一著『天正遣欧使節』(講談社学術文庫)等、少年使節の行路はリヴォルノに上陸、西海岸沿いにフィレンツェからローマへ、教皇に謁見し、突如の教皇逝去のためローマに2ヶ月滞在後、東海岸沿いにイタリア各地を経巡って、ヴェネツィアに至り、更にミラーノを経てジェーノヴァから船出し、スペインから帰国の途へ、というのが大まかな行程だったようです。

「……1582(天正10)年に長崎を出発し、1585年にフィレンツェに入った使節団は、各地を歴訪した後、ヴェネチアに到着。サン・マルコ広場で祝典行事が催されるなど大歓迎を受けたといいます。その後ローマにて教皇グレゴリウス13世との謁見を果たした彼らは、ヴェネチアに宛てて謝意を綴った書簡を送ります。日本語の原文と訳文、4名のサインも書き込まれた貴重な《感謝状》。現地で購入したと思われる洋紙に、筆と墨汁を用いて、滞在時のお礼と、彼らが見聞したことを日本で披露し布教を約束する内容が書き綴られています。……」とこの雑誌に書かれています。

雑誌の編集部の文章を逆に、2ヶ月のローマ滞在の感謝状をヴェネツィア滞在10日間に書き送ったとすると、時間的にも合致して来ます。ヴェネツィア政府に布教の約束をする必要は皆無です(教皇庁にはする必要があります)。ヴェネツィアに送られた感謝状がローマにある(その逆も)、ということは両市互いに殆どあり得ない事と思われるのです。誤訳があったのか、編集部の不勉強か、何かがあったとしか私には思えません。《ヴェネチア宛て…》ではなく、ヴェネツィアからローマへの礼状でしょう。

先日も読売新聞でヴェネツィアの観光客の数を「2004年―175万人、2014年―260万人」と書いていました。La Nuova紙によりますとヴェネツィアのベッド数は35000だそうで、ツイン(2人)が基本ですが、一人旅や延泊もあるので、平均365日の4分1、90日に90人が宿泊したと仮定して、ホテルで約300万人(多過ぎるか?)。その他未登録のアパートやB&B、ヴェネツィアに泊まれず、近隣のホテル等に宿泊した人々を含めて、船舶、バス・車、電車で到着する1日の観光客は宿泊数の何倍にもなるそうなので、2000万程度になるのでは、と言われているそうです。いずれにしても、鳥取県境港市が水木しげる効果で観光客が200万を越したと喜んでいた時私が訪れた時の人出とは比べものになりません。

事ほど左様に、人は間違いを引き起こすものであり、誤解・書き間違いはもとより、間違った文献を再び書き写すことも屡ですから(私のブログでも間違いを起こし、後でこっそり訂正しました)、私も心しなければ、と思う次第です。

それは例えば、2008.08.31日の私のブログパードヴァ大学で、パードヴァ大学の解剖教室の設計者を、有名な解剖学者のアンドレアス・ヴェサリウス(オランダ人)と書いたのですが、実際はアクアペンデンテのファブリキウス(伊名ジローラモ・ファブリーツィオ)が1594年に作った物であることを後に知り、赤面して書き改めました。

また他の例では、日本ウィキペディアの《支倉常長》の項で、彼はスペインから陸路でローマに行ったと書かれています。彼は地中海を海路でスペインからローマに行く途中、嵐に遭い、フランスのサン・トロペ港に避難し、仏国の土を踏んだ最初の日本人として、戦後発見されたサン・トロペ侯爵の書簡が翻訳され、明らかになりました。そして伊国のチヴィタヴェッキア港に上陸します。彼らが石巻の月ノ浦港を出発してから400年記念の年2015年、私はチヴィタヴェッキアに行き、彼の銅像やら彼らが辿った道筋が石に刻んであるのを視認しました。こういうオープンのウィキペディアの間違いをインプットされると、信じた人は悲劇です。
[チヴィタヴェッキアについては、2015.10.17日のチヴィタヴェッキア行をご覧下さい。]
  1. 2017/06/01(木) 00:09:41|
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ピアニスト、ルイーザ・バッカラ(3)

(続き)
「ルイーザはフィウーメに発った。そして彼女を待つダンヌンツィオは、港の女歌手、リリ・ドゥ・モントゥレゾルと夜を過ごしていた――フェデーリチは更に書いている――彼女はかなり散文的な報酬で翌朝立ち去ったと、そしてそれがどのような報酬であったか我々は知りたいものである。

しかし我々はある事を知る、それはリリ(彼女の本名はリーナ)はペスカーラ出身で、暫く前からダンヌンツィオを知っており、友人の画家ミケッティのモデルをしたことがあるということである。

フィウーメでルイゼッラは、色々に忙しかった。先ずは音楽家としての、公開のコンサートでの演奏活動に勤しみ、更に多分自分の男への熱心な協力者として、賢明で十全な秘書活動をした。

しかし彼女の新しい生活は始まったばかりで、19歳にして、1938年3月1日の詩人の死まで彼の傍にあって注意深く、忍耐強かった。正しく彼は、数年後には彼女を丸で妻の如く扱った、封書の宛名に“ダンヌンツィオの女ルイーザ(donna Luisa d'Annunzio)”と。しかし彼女に与えた屈辱は大変なものがあった。彼の人生で唯一の失敗があり、滔々たる冒険的活動の結論として、1921年ルイゼッラとガブリエーレが隠棲した、ガルドーネ近郊のカルニャッコの豪勢なヴィッラ、ヴィットリアーレで、その20年足らずの間に100人近くの女性達がそこで過ごしたと思われるからである。事態は正しくこのようであった。

100人近くの女性達の中には、正式の妻のマリーア・アルドゥアン・ディ・ガッレーセ(Maria Hardouin di Gallese)、女流のポーランド人画家タマラ・ドゥ・ウェンピツカ(Tamara de Lempicka)、ヴェントゥリーナ(Venturina)やイーダ・ルビンステイン(Ida Rubinstein)のようなかつての恋人達である。

ルイゼッラの態度をはっきりと示す、日付のない手紙がある。《私のアリエール様、あなたのオフイスは整頓されていて、純白無垢の花があなたにお帰りなさいを言うためにあなたを待っています。朝食のために万全の準備をしておきました。ミサに行って、直ぐ帰ります。私の両腕は昨日の疲れの後も痛みはありません。その事に満足しています。あなたを抱擁します。ルイゼッラ》

アリエール=ガブリエーレなるイタリア男の集中するもの、一体何が好みであったのか。しかし彼女は彼に信じ込ませたのでもなければ、感謝の念を示したのでもない。全てはそれ相応の事であった。そして彼女は次のような事を書くことになる。《おちびさん、あなたの事を一杯考えてます、心配なんです。多分私の存在だけがあなたを落ち込ませているんです。決めるって事だけがあなたに残されたことです。貴方の重荷になるよりは、私が立ち去る方がいいのです。あなたの過ぎ去って行く日々がなくなる時、多分それはあなたには長いことではないと思われます。薔薇の花を摘んで来ました、あなたのためにです。私を許して下さい。それってあなたにとって多分過分な事と思われますが。》

彼女へのアリエールの返事がどんなものであったか、我々には分からない。しかしまた別の手紙の始めで想像することは出来る。《私のアリエール、こんなにも辛く、苦しい電報はもう待つことは出来ません。なぜこんな電報を寄越すのですか。ガルドーネの事務所に私が帰る事を望んでいらっしゃらないことは分かっていますのに。脅すような奴隷の尺度と考えられますのに。》
ルイーザ・バッカラルイーザ・バッカラ[右、サイトから借用]  ルイゼッラは彼女のアリエールより47年も長生きした。しかし彼の死と共にヴィットリアーレを遺された。とは言え、詩人の生存中に生きたと同じように生き、その時から奴隷の如く、そして隠遁生活を送った。何も求めず、何も得ることもなく、追憶と忘れられた存在として人生を過ごした。」

ガルドーネ近郊のヴィッラ・ヴィットリアーレについては、2013.10.26日のカジーナ・デッレ・ローゼ館で触れています・
  1. 2017/02/16(木) 00:07:33|
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ピアニスト、ルイーザ・バッカラ(2)

(続き)
「戦争中、広場にあった参謀本部が前線の兵站基地となっており、町に残る数少ないヴェネツィア人や前線から離れて避難している人々、市民病院で回復を待つ数多の戦争傷病兵の楽しみのために、ピザーニ館のベネデット・マルチェッロ音楽院のホールで定期的に幾つかのコンサートが開かれた。そうした活動に尽力する高名な芸術家達に混じって、ルイーザ・バッカラの姿もあった。中でも多分一番若くて、一番無名だった。

そんな彼女について、ジーノ・ダメリーニは次のように書いた。《ヴェネツィア生まれの大変若いピアニストは、戦争が勃発する前、ベネデット・マルチェッロ音楽院の最大の新星だった。勉強のご褒美に、ソリストとしてのキャリアーを凱旋するような、特別豪華なやり方で始めることが出来たのだった。》

それから19歳の春がやって来る。フィウーメ(現リエカ)占領の年である。ルイーザはヴェントゥリーナ事件でComandante(司令官――ダンヌンツィオのもう一つの添え名)を知っている。“ヴェントゥリーナ”とは彼が最後に獲得したオルガ・ブルンネル・レーヴィに与えた名前(実は最後から2番目)であった。しかし当時、彼は自分の書いた初期ヴェネツィアの悲劇『船』を映画に撮るためにイーダ・ルビンステインに関わっており、彼女を蔑ろにしていた。

しかしその事は“NO”である。最後から2番目ではなかった。更にまたヴェントゥリーナとの愛の“歴史”の間、満足することのない愛の渉猟者は、マリーア・ルイーザ・カザーティ・スタンパ侯爵夫人アーダ・コラントゥオーニ(ネリッサ)とも、愛の“歴史”を作ったのだった。彼女はヴェニエール・デイ・レオーニ館に住み、後に女優エーレナ・ドゥ・ヴノロスカであり、アンナ・モロズィーニ伯爵夫人であるペギー・グッゲンハイムとして住むことになる。……

その事はヴェントゥリーナとの“歴史”が長続きしたことを示している。事実それは17歳の1月(or 1917年1月)に始まり、ダンヌンツィオの中では、愛の継続は裏切りの数で計測される(多分“愛の逸脱”と称したケースであって、“裏切り”というと言葉が仰々しく、厳し過ぎるかも知れない)。

ヴェントゥリーナは自宅にルイーザ・バッカラを少し音楽をしませんか、と招いた。夕食にはガブリエーレ・ダンヌンツィオもいた。その時彼は彼女をしげしげと見た。彼女に手紙、贈物、本、花と贈るようになった。暑い夏の間、彼らは何度も会ったが、フィウーメ事件の始まる数日前の事、サン・ヴィダールのヴェントゥリーナの家でかなり形式的な出会いだったようである。
ガブリエーレ・ダンヌンツィオダンヌンツィオ(D'Annunzio)に(彼女もD'Annunzioの“D”を、“d”と小文字で書いた)《紹介されたいとは思いませんでした――更に続けて――詩人の理想というものは私にもあります。知るということ、男性というものを知るにつけ、評判というものは下がってほしくないのです。それはヴェントゥリーナが私にしたある種の裏切りのようなもので、演奏するように私を家に招待し、d'Annunzioに会わせる事をしたのです。》

後日(1919年9月9日のこと)詩人は、攻撃に出発した。即ち、愛しい少女の友は画家のグイード・マルッスィグ[1885年トリエステ生まれ]と共にルビンステイン家の正餐への招待から始まるのである。招待状はlei (貴女)で書かれていた。続いて、もう一つの招待状が届き、それは彼女の家であり、voi (あなた方)と書かれていた。我々にはもう一つ、10月1日の招待状があり、それはフィウーメからで、tu (お前)で書かれている。

中身に疑いの余地はない。《今度お前にいつ会えるのか。小さな、黒っぽい顔はどこにいる? 若い、野性的なすじを刻む、銀色に輝く髪はどこに? いつ再会出来るのか?……休戦時にお前の抱擁、僕の抱擁を考えながら打ち震えている。熱情の最後の夜のこと。お前に会えるだろうか?》 ……」 (続く)
  1. 2017/02/09(木) 00:05:44|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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