イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(17)

(続き)
「サン・カンチャーノ教会の脇を過ぎて、この広場を後にして、サン・カンチャーノ橋を渡り、右へ。“デ・ラ・カゾーン”のソットポルティコを左へ、このcasonの名称は監獄を意味し、この辺りは出獄者が住んだ地域であった(それ程重罪でなかった犯罪者達の溜まった場所だった)。

左へ行き、直ぐ右へヴァルマラーナ通りの方へ、そして更に右へ進むと狭い迷宮状となり、そこはそこで行われていた活動を思い出させる職業名の人達がいた場所で、最初、ポスタ(郵便)・フィオレンティーナ通りと呼ばれ、後、ポスタ・フィアンドラ(フランドル)通りと呼ばれた。ここは外国郵便物の事務所、正確にはフィレンツェ郵便物の宿があった場所であり、15世紀から神聖ローマ帝国の郵便業務をやっていたトゥルンとタクシス(Thurn Und Taxis)家の住居と事務所があった。

ヴェネツィアの郵便はリアルトのベッカリーエ(Beccarie)通りに事務所があり、そこは現在“アッレ・ポステ・ヴェーチェ(Alle Poste Vece―古い郵便の意)”というレストランであるが、続いてサン・モイゼのバロッズィ小広場に越した。
ポスト・ヴェーチェポスト・ヴェーチェ内部[左、ポステ・ヴェチェ、リアルト・ペスケリーアの入口、右、その内部。ポステ・ヴェーチェは現在はレストランだけでなく、上の階がホテルになっています。]

ヴェネツィアは1500年代から既にコンスタンティノープルと月一で郵便業務が組織されており、市内も外国とも郵便活動は行われていた。ラ・ポスタ・デ・フィアンドラ通りの端の方で、ヴァルマラーナ小広場(=古ヴィチーン・カ・バローン・タクシス小広場)に向いた館と繋がる大きな二つの門が塗り込められて壁面となったのが興味深い。

この二つの大門を後にして、先へ進もう。左へ曲がりフォルノ通りからバルバ・フルタリオール埋立通りへ出る。左へ曲がり、我々の右の八百屋さんの屋台の向こう右をスペツィエール通りへ曲がろう。サルトーリ橋を越え(もしお望みならば海岸通りを左へ曲がると20メートル程行った建物の壁にサルトーリ病院の大理石の美しい浮彫り(1511年)がある)、直進方向セリマーン大通りを行き、橋を越えるとジェズイーティ(イエズス会の意)広場である。

我々の左手にはゼーン館が建っている。ヴェネツィアの有名なその名前から、14世紀の有名な船乗りの名前が思い起こされる。海の隊長カルロはキオッジャ戦争の時の英雄であり、ニコロとアントーニオの2人の兄弟は自分の費用で軍艦を作り、現在カナダのニューファンドランドのラブラドールと呼ばれているドロジェーオ(Drogeo)を発見した(1390年――コロンブスのサン・サルバドル島発見は1492年)。館はフランチェスコ・ゼーンの案で建てられたが、ファサードがヤーコポ・ティントレットとアンドレーア・スキアヴォーネのフレスコ画で全面を覆われたことが思い出される。

左に見える、4本の特徴的な煙突を備えた一角には、13世紀のクロチーフェリ(慈善宗教団体)の古い病院とオラトリオ(小礼拝堂)があった。一方右の区域には修道院と教会があり、クロチーフェリの聖マリアに捧げたものであった。

Ospedalieri(マルタ騎士団の事)という当時の騎士修道会は、巡礼者を助けることを決めており、教皇庁と多くの慈善家の援助の下、全ヨーロッパに約200の病院を作った。クロチーフェリの元の教会は建て直され、1729年バロック様式で完成した。

内部はタペストリー風を見せる嵌め木細工のような大理石の素晴らしい仕上がりで、天井は一面、金箔のスタッコ細工で飾られ、色々な作品の中には、クロチーフェリの歴史に関わる、パルマ・イル・ジョーヴァネの絵画以外に、美しいがあまり知られていないティツィアーノの作品『聖ラウレンティウスの殉教』がある。

15世紀以来女性用の慈善院(現在も存続する)に変更されていた、4本の煙突のある病院の内部には、有名な物として、修道会の歴史に関わる、パルマ・イル・ジョーヴァネの絵画シリーズのあるオラトリオがある。クロチーフェリの教会内部には、皇帝(Basilio/Basileus)から贈られた聖バルバラ(ニコメディア[トルコ北西イズミット]の聖処女)の遺骸が収められている。この聖遺物のためにクロチーフェリは長い間、総督ピエーロ・オルセーオロ2世から贈られた幾つかの聖女の遺体を保有してきたトルチェッロの修道女達と争った。
[聖バルバラについては、2011.04.02日のヴェネツィア年中行事をご覧下さい。]

ボールで練習に励むサッカー場の奥に、ムラーノ島やサン・ミケーレ島を含むラグーナ北が見える。フォンダメンタ・ヌオーヴェに出よう。このフォンダメンタ(海岸通り)は1589年頃作られた。1546年の元老院の決定によれば、サンタ・ジュスティーナからサンタルヴィーゼまで行けるはずであったが、結局はサッカ・デッラ・ミゼリコルディアで止まってしまった。

反対側は、現在そこで行き止まりなのだが、サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャとを結ぶ橋(1820年壊れた)があった。先を急がないなら、海岸通りを左へ行ける所まで行くと、正面にCasino degli Spiritiが見える。 ……」 (18へ続く)

Casin degli Spiriti については20.11.12日のコンタリーニ・ダル・ザッフォ(1、2)をご覧下さい。                                                                                 
  1. 2017/04/06(木) 00:05:16|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(16)

(続き)
「二番目の軒下通りを越えると、セコンダ・デル・ミリオーン小広場があり、そこにはポーロ家の家があった。その名前はヴェネツィアの偉大なる旅行者マルコ・ポーロが書いた著名なる作品『イル・ミリオーネ(Il Milione――東方見聞録)』を我々に思い起こさせる。

ヴェーネト=ビザンティン様式のアーチ(11~12世紀)の下を潜り、マーリブラン劇場(当時映画館)の前に出る。1677年グリマーニ家の意向で建てられたが、最初はサン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ劇場と呼ばれた。装飾が豊富で、取り分け音楽用の劇場だったが、時代と共に経営と目指す目的が変わっていった。

1834年新しいパトロンが改築し、有名な歌手マリーア・フェリーチタ・ガルシーア(伊語式)・マリブランに対する感謝の印にマーリブラン劇場と呼ばれることになった。
[劇場名はマーリブラン(伊語)となりましたが、マヌエル・ガルシアの娘、パリ生まれの西国歌手マリア・フェリシア・アンナは仏人ウジェーヌ・マリブランと結婚します。1835.04.08日この劇場でヴィンチェンツォ・ベッリーニの『La Sonnambula』を歌った時、この劇場の有様を見かねて出演料を修復のために使ってほしいと辞退した事を受けて、このマーリブランを劇場名とする事になりました。その辺りの事情については2010.06.05日のサン・ジョヴァンニ・グリゾーストモをご覧下さい。]

この劇場はコルト=プラットの世代にとって、重要な役割を帯びていた。事実ここは、フェニーチェ劇場が選ばない、軽い演劇を上演していた。小作品が好まれ、それは『アルレッキーノの三百代言』のような演目であった。パルコは当時の青少年達にとって、絶好のランデヴーの場であり、同じような演目として興味はあっても、それを超越する、といった場所だった。

セコンダ・デル・ミリオーン小広場に戻り、テアートロ橋、そしてスカレッタ通りへ向かおう。その通りの右に20年前まで人々がよく通った、外国渡来の新しいダンスを教える、ロランドによる学校があった。

通り突き当りまで行き、サンタ・マリーナのアーケードを越し、クリスト通りに入り込むまで斜めに突っ切って行く。クリスト橋からの運河の眺めは大変美しい。素晴らしい館が重なり、織り成して我々を魅了する。運河通り(fondamenta)を行くと、コルト・マルテーゼが愛して止まなかった住居の一つの大門の前に出る。ヴァン・アクセル館である。
ヴァン・アクセル館最初はソランツォ館であった。その後フランドルの裕福な商人ヴァン・アクセル(Van Axel)家が所有した。1665年ヴェネツィア貴族となったのである。内部にはヴェネツィア・ゴシックの大変美しい中庭がある。
[地図帳『Calli,Campielli e Canali』は、このソランツォ=ヴァン・アクセル館について次のように紹介しています――オジーブ式建築の最も重要で興味深い物の一つである。1473~79年に装飾的要素が色濃く残るヴェーネト・ビザンティン様式の建物が建っていた跡地にソランツォ家が建てた。15世紀の木製のノッカーを備えたオジーブ式の大門はオリジナルで、ヴェネツィアでの例は唯一。]
ミラーコリ教会カステッリ通り左側は町の宝石のような建築の一つであるサンタ・マリーア・デイ・ミラーコリ教会に通じている(人々のもとで奇跡のような名声で獲得した、ここにある聖母の絵の回りに集められたコインで建てられたかのようである)。このような色とりどりの大理石のボンボン入れのような作品は、ピエートロ・ロンバルドと彼の工房の手になるものである。1481に始まり、1488年に終わり、12月31日の夜、祭壇に素晴らしい絵が齎された。教会前部に数年前からクラシック音楽の愛好家用に適した場所が設置された。
[上掲の地図帳曰く――伝承によれば、カ・アマーイ小広場に居宅のあるフランチェスコ・アマーディが、1477年既にそれが奇跡と考えられていた聖処女の絵をその広場に設置させた。その絵は崇拝され、捧げ物等が豊富だった。アマーディの高潔無私の雅量から、その奇跡の絵を収めるために、1481~89年ピエートロ・ロンバルドの設計で教会が建てられた。外部も内部も色大理石で覆われ、取り分けロンバルドの装飾技法の最良の物となった。]

この素晴らしいルネサンスの建物を曲がり、サンタ・マリーア・ノーヴァ橋を越え、左の通りへ曲がり、広場中ほどに建つ家に沿って曲がると、その建物は6044番地で、“ピッケのエース”考案者で編集者のマーリオ・ファウストネッリが住んだ。ヴェネツィア漫画の創始者である。
[この6044番地の脇道に、通行する人が何故か踏んで通り過ぎるのを避けて行く、座布団大の石板が道に埋め込まれています。その石を踏むと縁起が悪いのだそうです。]

この家の前にベンボ・ボルドゥ館が建ち、そのファサードにはヴェネツィア人を魅了する、多分外国から渡来した彫像を収めた壁龕がある。毛むくじゃらの野人の像Chronosである。その当時の貴人か“太陽の円盤”を手にするSaturno(農耕神サトゥルヌス、希語Kronos)であろう。
[クロノス像はジャンマッテーオ・ベンボ(有名なピエートロ・ベンボの孫)が設置した物で、ここに在住し、像の下に記した羅典語の文言に「この太陽板が回転するまで、Zara(クロアティアのザダル)、Cattaro(モンテネグロのコトル)、Capodistria(スロヴェニアのコーペル)、Verona、Cipro(キプロス島)、Creta(クレタ島)、Giove(ゼウス)の寝床が我が行動の証明になり得よう、と。] (17)へ続く
  1. 2017/03/30(木) 00:45:04|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(15)

今回マーリブラン劇場前のアパートを借りましたので、以前にも紹介したG.フーガ=L.ヴィアネッロ著『CORTO SCONTO』からここを通るコースを紹介してみましょう。
ヴェネツィア地図1「かの有名なヴェネツィアの喜劇作家カルロ・ゴルドーニの銅像に元気も貰える広場サン・バルトロミーオが、我々のこの旅の出発点である。ヴェネツィアの中でも中心となるこの広場は、ヴェネツィア人が出会いの場所として最も好む地点の一つであり、既にご存知のように、その奥まった所に朝から晩まで盃を傾けることの出来る飲み屋さんが色々ある。
ゴルドーニ像今やお歳を召したゴルドーニ老、あらゆる人間の機微を熟知した父親のような温かい彼の眼差しを受けながらお別れして、フォンテゴ・デイ・テデスキ(ドイツ人商館)大通りを行こう。ドイツ人商館はヴェネツィア中央郵便局である。この堂々たる建物は、建築家スパヴェントの作品で、3年前の凄い火事で完全に焼失した商館の跡に1508年再建されたものである。
ドイツ人商館屋上から[ここは最近ヴェネットーン経営の有名ブランド店になりました。以前からのヴェネットーン店はそのままリアルトにあります。郵便局はリアルト近くサン・サルヴァドール通りに越しました。屋上に上がることが出来るようになり、修復なったリアルト橋の向こうに素晴らしい眺めが展開しています。]

ここは13世紀からドイツ人のコミュニティが、ヴェネツィア元老院から住宅や旅客用、輸出入の倉庫用敷地の許可を得て、所有していた。この建物は大運河側が全面ジョルジョーネによってフレスコ画で覆われた。その残存したフレスコ画の一部がカ・ドーロ美術館で保存されている。一方道路側はティツィアーノがフレスコ画を描き、それらは正に素晴らしきルネサンス芸術である。

内部の中庭は総体に同時代の壮大なエレガンスを帯びた、3列のロッジャの規模がリズミックな魅力を醸し、丸でジョルジョ・デ・キリコのメタフィジックな広場空間に入り込んだ感がある。階段を昇り、ロッジャ周りを歩いてみよう。各アーチの基部や石の上に、ある種の引っ掻き図が見られる。そのモティーフは一種のお遊び(tria=伊語tavola a mulinoというゲーム)である。

共和国時代、ここには記憶に値する祭があった。中でも伝統的な仮面のそれは、3日間継続して続き、カーニヴァルの開始に繋がっていった。この素晴らしい中庭(現在は屋根が付けられた)を後にする前に、我々は切手を買って、郵便物を送るために、窓口に行こう。

橋を越し、レストラン“Fiaschetteria Toscana”まで行き、その直後を左へ曲がり、レメール小広場の軒下通りを抜けると、大運河に顔を向ける、13世紀終りの建築的にも目を見張る、上部に見える建物、奥に見えるのはビザンティン様式の味わいがある。
レメール広場[外階段の右は何年か前に開店したバーカロ・レメール。その他にもこの小広場に活気が見えます。]  道を引き返し、ヴェネツィア人がよく通った、“マドンナ”とともに知られるレストラン“トスカーナ”の前を通り越し、教会(サン・グリゾーストモ)の向こうを左に曲がり、最初の右の道モロズィーニを行くと、最初の小広場アマーディ小広場がある。時に鉄格子が閉まっていることがあるが、壁に美しいビザンティンの盃を見ることが出来る。

更に奥に、モロズィーニ小広場があり、かつての冒険や忘れがたい騎士、決闘や闘いといったものを想像させる兜や盾を彫り込んだ、アラブ=ロンバルディーア様式(13~14世紀)の大理石のアーチが建ち上がった入口がある。

この小広場は今でも煉瓦が敷き詰められ、井戸や外階段といった中世の面影を見せるが、ここはかつて町でも一番古くて著名な一族モロズィーニが住んだ一角である(総督4人、総督妃3人、王家嫁入り2人)。

モロズィーニ通りを後にして引き返し、右へ曲がり、軒下通りを抜けてプリーマ・デル・ミリオーン小広場に出る。ここはコルト・マルテーゼと彼の仲間達がよく訪れた一角である。 ……」 (16に続く)
ティツィアーノ展1ティツィアーノ展2ヴェネツィアから帰り、先日漸く都美術館の『ティツィアーノとヴェネツィア派展』に行ってきました。~4月2日までやっています。
  1. 2017/03/23(木) 00:14:03|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィア街案内(14)

(続き)
「大運河を背にして、ピオヴァーン通り(Cl. Piovan)を通り、左へ曲がってフェニーチェ劇場裏の運河へ向かう。水路からのアクセスを希望する観客のゴンドラ用の入場口が開いている[現在は舞台装置等の搬入口]。美しいカレゲーリ小広場(Cpl. dei Calegheri)への捩じれ橋(p. Storto)を渡り、右へ行き、カオトルタ橋(p. Caotorta)の手前を右へ曲がり、短い運河通りから魅惑に富んだ運河の辻の上に架かるクリストーフォロ橋(p. Cristoforo)を渡越し、軒下通り(Sotoportego)を潜り抜け、サン・ファンティーン広場(C. S. Fantin)に通じるラ・フェニーチェ通り(Cl. de la Fenice)を進む。
焼失したフェニーチェ劇場正面焼失したフェニーチェ劇場の、現在の裏口フェニーチェ劇場[火災により外壁のみ残る劇場正面と裏口。右、現在の正面] ここには、町でも最も著名な劇場、あの伝説的なフェニーチェ[fenice=phoenix]劇場がかつて屹立していた[焼失]が、再び聳立した。2度も焼失したが、最初は1836年12月[1年で再建・再開場を果たしました]、2度目は1996年1月[再開場2003.12.14日]。その名前に応報して不死鳥の如く、かつてのデザイン通りに灰の中から甦った。
[フェニーチェ劇場の出火については、2009.03.07日のカーニヴァルマーリブラン劇場等で触れました。]

教会の脇にはサンタ・マリーア・ジュスティーツィアとサン・ジェローラモの同信会が入っているサン・ファンティーン同信会館がある。死刑囚の救済活動に身を捧げ、死刑に付き添って精神的な慰めを与え、“安らかな死の同信会”あるいは“ピカーイ(絞首刑になった人)同信会”とも呼ばれた。現在はヴェーネト高等研究機関であるヴェネツィア文学科学アカデミーの在所である。内部の色々の作品群の中には、ティツィアーノの弟子、多作であったヤーコポ・パルマ・イル・ジョーヴァネ(1544~1628)の絵画があり、ティツィアーノ工房で共に目を見張る程の作品を量産した。

バール=リストランテ=ピッツェリーア=タバッケリーア=ジョルナーリ(タバコや新聞の販売とレストランとピッツァ屋もするバール)の“アル・テアートロ”が、アテナイオン高等研究機関の傍にある。
[フェニーチェ劇場右隣のこのバールのキャップ(capo)は以前はアンジェロさんでしたが、定年退職され、現在はファービオさんがキャップです。街歩きでトイレタイムになると、ここのトイレは最高に奇麗だったのとファービオさんが作ってくれるスプリッツは最高の味でよく立ち寄りました。白ワインとカンパリが1/3、1/3で、最後に炭酸水を器械で注ぎ、オリーブの串刺しが添えられます。ちょっとアルコール分が強く、この町で随一の味と私の評価です。摘みにカップ一杯のポテトチップスが無料サービスで付いてきます。2011.11.19日のスプリッツ・コン・ビッテルもご参考までに。]

この広場を後にして、カフェティエール通り(Cl.Cafetier)へ向かおう。軒下通りの左奥に、かつてPrattと彼の黄金時代の友人が通った“パーペロ・ダンシング”があった。右側にはヴェネツィアでも歴史的な場所“アンティーコ・マルティーニ”がある。1700年代後半には有名となったカッフェで、この通りと次の橋の名Cafetier(=伊語caffettiere喫茶店主)はこのカッフェから来ている。橋の袂には“ヴィーノ・ヴィーノ”がある。そこは隣の“マルティーニ”と繋がっているので、ワイン・リストを良く研究してほしい。乾杯だ!

橋の向こう、サルトール・ダ・ヴェステ通り(Cl.del Sartor da Veste)へ向かうと、3月22日通り(via XXII marzo)へ出る(1848年オーストリア人を追い出したこの日を思い起こそう)。通り(calle)や小路(calletto)で出来たこの町で、大通り(via)という格別の格式の通りであり、麗しの道(strada)である。沢山の銀行や株式会社があり、右の奥にはCorto Malteseに愛された古い印刷工房もある。
拡張された3月22日大通りの碑「碑文―市民の願いにより、1880年この道は拡張された。市長ダンテ・ディ・セレーゴ・アッリギエーリ」  [3月22日通り[Calle Larga XXII Marzoとも]については、2007.11.22日のブログダニエーレ・マニーンもご参照下さい。]

右へ曲がって、橋とバロックの教会サン・モイゼにぶつかると、はっきりと対照的で、大きな箱型の機能的スタイルのホテル、バウアー・グリュンヴァルトがある。しかしそれは壮麗なサルーテ教会の真向いで、大運河に面した広い庭と心地よいバールがある、全く悪くない!
サン・モイゼ教会ホテル・バウアー[左、サン・モイゼ教会と右のホテル・バウアー、その庭からサルーテ教会を望む]  右の教会を後にして、大通りを行き、右のヴァッラレッソ通り(Cl.Vallaresso)まで進む。神話的通り! ヨーロッパ初の賭場、1700年代のリドットがあった。“人間は労すること無き労働を発明した。即ち、賭場である”(フリードリヒ・ニーチェ)。道半ば左に、14世紀には既に旅籠ルーナだったホテル・ルーナがある。その先にアッシェンスィオーネ教会が隣接して、テンプラーリ修道院があった。

このぐるぐる経巡った道案内の最後のご褒美は、“ハリーズ・バー”であり、帰宅のためのヴァポレット乗り場[以前はヴァッラレッソという名だったがサン・マルコに変更]の直前、通り最奥にある。ここにはトルーマン・カポーティがそう呼んだ“銀の弾丸(Silver Bullet)”、辛口で氷を入れた、神話的な“マーティニー”、素晴らしいカクテルである“ベッリーニ”(この店のマスターの発明)で、夙に有名である。

皆が知っている“マーティニー・カクテル”は簡単で、イギリスのジンとドライ・マーティニーが三角形のグラスに調合される。マーティニーの量は好みによる。強くて辛口の好きな人は、マーティニーを更に加えたり、ワインで割ってシェイクしたり、マーティニーを止めて凍ったジンを入れたり、とか。それはヘミングウェイ方式が正しい。彼は言っている。冷やしたグラスに凍ったジンを注ぐ。数分マーティニー瓶の側に置いておいてから、飲む。これが胃袋に銀の如く突き刺さる真の"Silver Bullet"である。

ジュゼッペ・チプリアーニがここを開店し、その成功の処方箋は、贅沢と単純をいかに結び付けるかであった。『河を渡って木立の中へ』の場面設定のいくつかにここも利用したアーネスト・ヘミングウェイの友達でもあった。
[ヘミングウェイについては、2009.08.22日のヘミングウェイで触れました。]
ハリーズ・バー[ハリーズ・バール、サイトから借用] しかしここから更に甥達に書いた、短いお話を思い出したい。《優しいライオン》である。父親に会いたくてアフリカから戻ってきた翼のあるライオンの話である。父はサン・マルコ広場の円柱の上に居るのである。そして向かったのはハリーズ・バーのチプリアーニに会うためだった。」 (この章、終り)
  1. 2016/12/15(木) 00:02:27|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィア街案内(13)

(続き)
「橋を渡って直ぐ左にアルバニア同信会館があり、ファサードに同信会の守護聖人の浅浮彫がある。聖マウリティウス、聖処女、聖ガッルスである。更にアルバニアのシュコデル(Scutari)の城を見詰めるマホメットがある。アルバニア人達は以前はスキアヴォーニ海岸通り(Riva degli Schiavoni―Cl.degli Albanesi)近くのサンティ・フィリッポ・エ・ジャーコモ(SS.Filippo e Giacomo)地区に住んだ。そしてサン・セヴェーロ教会に参集するようになったが、セレニッスィマの承認の下、1400年代末頃、この同信会館を造ることが出来た。
アルバニア人同信会館サン・マウリーツィオ教会[左、元アルバニア同信会館。右、サン・マウリーツィオ教会(現在無料の楽器博物館)。左直前にベッラヴィーテ館が見えている] この建物の直前はベッラヴィーテ館で、広場に向いたファサードはヴェロネーゼがフレスコ画を描いたが、長い間に今やその痕跡も残っていない。この建物にジョルジョ・バッフォが住んだ。」
[2009.07.04日のブログカザノーヴァ(1)も参考までにご覧下さい.。この広場で定期的に骨董市が開かれます。]

ここで、このガイドにあるジョルジョ・バッフォについての紹介を訳してみます。
《――特異の好色詩人ジョルジョ・バッフォ(1694~1768)は、ヴェネツィア語で沢山の詩を書いた。その詩は彼の死後に友人達により収集出版された(『ヴェネツィア貴族ジョルジョ・バッフォの詩』(1771)).。事実よく知られていて、カフェで人々に朗誦された。それを読む事は、1700年代の絵画やその他の作品と違って、ヴェネツィアのデカダンスの尺度というものを示すのである。

正にそうした理由でカザノーヴァは熱い愛情で自分の回想録の中で、繰り返し『父の親友であり、偉大な才能の持ち主で、スキャンダルに富んだ詩人であったが、同様にその手の人物の中では独特であり、私をパードヴァの下宿屋に送る事を決めた。だから私の人生は、彼の決定に負っているのである。』

バッフォはヴェネツィア上級裁判所法廷である四十人法廷の一員であり、“処女の如く話し、サテュロスの如く書く”人物として記憶されている。以前の版によれば、ペンブローク卿(Lord Pembroke)の編集により、コンスタンティノープルで印刷出版された第2版がより詳細なものであったという。

伊国では未だよく知られていないが、この再発見は1911年仏訳し、詩の収集を出版した、詩人であり評論家のギヨーム・アポリネールに負うているのである。『バッフォの全作品は、生きる事、彼の特異の世紀に生きる事、水陸両棲の町で、ヨーロッパの中でも湿った女陰のような町であるヴェネツィアで生きる事の喜びを表している。』

バッフォは自分の先祖の中でも、チェチーリア・ヴェニエールを賞賛した。ヴィオランテ・バッフォの娘である。彼女は父母とコルフ島への旅の途中、トルコ人に誘拐された。奴隷としてコンスタンティノープルに連れて来られ、美貌故にフマカドゥナの名前でスルタン・アムラート3世のお気に入りとなった。皇帝の子を14人産み、一人が彼の後継者マホメット3世となり、彼女を大スルタンの母位に押し上げた。

ハーレムに住む母親達の陰謀でアムラートとの関係で厄介事に巻き込まれた時、ヘブライの占い師の助言も得ながら秘薬や魔術を用いて(あらゆる手を尽くして)、一番のお気に入り(Gran Favorita)の位置を再度構築したのだった、と。 …――》

「サン・マウリーツィオ広場を過ぎザーグリ通り(Cl.Zaguri)を通って橋を越えると、フェルトリーナ小広場(Campiello della Feltrina)に至る。ここには古い店(Piazzesi)があって手動印刷機刷りの美しいカードを売っている。この古い店主は亡くなり、取り分け数年前から町中に同じような店が開店し、日本の古い技術マーブル刷りのカードを作る工房がある。

次の橋を越すと、サンタ・マリーア・デル・ジーリョ・オ・ゾベニーゴ広場(Campo S. Maria del Giglio o Zobenigo)に至る。ここに建築家ジュゼッペ・サルディに設計されたゴシックの教会がある。11世紀の先行建築に代わって、それは1678~83年の間に作られた。
サンタ・マリーア・デル・ジーリョ実際この建物はバルバロ家によって建てられ、この家族の海上と政治家としての栄光を称えるが、暗い不吉な大モニュメントを持つファサードとして現されている。色々の人物の中には大門上の中央に、“海の将軍”アントーニオ・バルバロの像が際立つ。

更に船、ガレー船、甲冑一式、基礎部には町や要塞の地図の浮彫がある。ザダル(Zara―クロアティア)、イラクリオン(Candia―クレタ島)、パードヴァ、ローマ、コルフ(Corfu`―ギリシアのケルキラ島)、スプリト(Spalato―クロアティア)の地図である。内部には聖具室に美術品としてペーテル・パウル・ルーベンスの『聖母子と幼児聖ヨハネ』[ヴェネツィアにある唯一のルーベンス]がある。

広場奥にはゴンドラのトラゲット乗り場脇に現在ホテルのグリッティ館がある。ヴェツラー男爵の屋敷となったことがあり、『ヴェニスの石』の著者J.ラスキンが1851~52年招かれ滞在した。 ……」 (続く)
  1. 2016/12/08(木) 00:12:20|
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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