イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(31): リアルトからザッテレ海岸通りまで

(続き)
「ゴッボを後にすると、1300年代から海上保険の本拠地があったセクルタの通りがある[セクルタ=ヴェ語Securtà/Segurtà=伊語Sicurtà、現在のAssicurazione(保険)].
サン・ポーロ区とドルソドゥーロ区この魅力的な広場の左にはリアルトのアーケード、オレージ通り(Oresi=伊語Orefici(金銀細工師))に沿ってアーチ下の、古い雰囲気を残すパラゴーン(伊語Paragone)通りが走っている。事実、工房の倉庫や市場の露台の収納倉庫になっている。その通りのある角に、小さなバーカロ“Sacro e Profano”があり、飲みたくて仕方のない連中が立ち飲みに足を止める。

アーケード終り近く目を上げると、フレスコ画(1500年代半ばの作品)の描かれた丸天井の、修復で輝きを取り戻した結果を目にするだろう。今やこの辺りは、市場と共に朝5時には人々の活動は始まり、それぞれがこの地域特有の顔を持った元気印で、最高の集中力を示している。

この地域のバーカロに行けば、君達にこの町の真実の局面を発見させられるだろうし、あらゆるものが芳香馥郁たる表情で、この祝祭エリアの虜にしてしまうだろうことは確かだが、糅(か)てて加えて、色々な濃度の美味しいアルコール飲料が世の中全てを薔薇色に見せ、この街歩きを続行する気を萎えさせてしまう。
Antico Doloヴェッキア・サン・ジョヴァンニ通りに出たら、幾つか思い出して頂きたい場所がある。一度は訪れたい“Antico Dolo(アンティーコ・ドーロ)”、更にメルカンティ(商人)同信会館のシンボルを描いた16~17世紀の盃が見付かれば、皆に愛されたバーカロ(Osteria)“Do Mori”[Do=伊語Due]は近い。
Do Moriの鍋[ド・モーリ(二人のムーア人)には、天井に胴製の鍋のコレクション。チケッティ(ヴェ語cicheti)にはmusetto caldo、coppa di toro、fagioli in umido piccanti con l'acciuga等。私はリアルト近辺に宿を取ることが多く、ヴェネツィア街歩きは先ずド・モーリでプロセッコを1杯引っ掛けてから始まりました。ここのプロセッコ、最高! カーニヴァルの時、朝簡単な仮装して行くと、小父さんがカウンターから出てきて「お前の髪は乱れている」と仮装に被っていた白色のナイロンの鬘の髪を鋏で整髪して呉れました。2011.12.31日のバーカリで、ド・モーリを紹介しました。]

ヴェッキア・サン・ジョヴァンニ通りを行き、大運河のヴィン(Vin)通り方向にヴェネツィア人に愛されたレストラン、“アッラ・マドンナ”がある。
[マドンナには何度も行きましたが、ヴェネツィア人が子供の誕生日を祝う風景を見たのはここが初めてでした。♪Tanti auguri a te…♪ 傍にいた日本人にもドルチェのお裾分けがありました。Grazie !]
野菜市場ペスカリーア野菜市場の屋台を経巡った後は、大運河脇のペスカリーア(魚市場)傍まで行くと、その日の旬の食材等の最新情報を顧客達に声高に呼び掛ける声を通して、ベカリーエ広場の色々の色や芳香に陶然としたかのように、ヴェネツィア人にとっては海の港であるかのようなオステリーア“Pinto”が我々の入港を待ち受ける。特に土曜日は、買い物袋をはち切れそうにしてプロセッコのグラスを傾けながらお喋りに余念がない人々が一杯である。
[知り合ったヴェネツィア生まれのファビアーナのお宅に何度か招かれました。友達の魚屋のジャンニの店で買い物をする彼女にばったり出会い、ジャンニと友達という事に驚いていましたが、魚の値段を知らず所持金が少なく、直ぐ近くに事務所を構える夫にお金を持ってきてくれと電話していました。彼女のお宅で魚料理は見掛けません。また語学校で知り合った日本人は、生食をするホンビノス貝の料理方法を家の女主人に尋ねると煮るように言われたと言っていました。何しろ生食用ですから高価な貝です。火を通したら本当の味が分かりません。魚の事をあまり知らないヴェネツィア人も結構いるようです。魚屋のジャンニについては、2010.04.17日のアッカデーミア橋で触れました。]
Posto Vecieと魚市場ペスカリーア脇の小さな木の橋の向こうに、セレニッスィマ時代の郵便事業の在所であったその場所にレストラン“A le Poste Vecie(古い郵便局)”がある。かつてフルヴィオの経営になり、フーゴ・プラットも記憶すべき宴を催した特筆すべき場所である。
[私も初めてヴェネツィアに来た時、ここで夕食を摂り、最近はここがホテルもやっていることを知り宿泊しています。写真はホテル窓からレストラン入口の飾られた木の橋を見下ろしたところ。向かいは魚市場の建物。]

もし本当にこうしたオステリーア(バーカロ)に興味が湧いてきて、君達に提案するこの迷路のような路地を辿る冒険心が素直に湧くかどうかは分からないのだが。ベカリーエ(肉屋)橋を渡りカペレール(帽子屋)通りを通り、ボテーリ(桶屋)通りへ行こう。                                                                                       
この道の裏、隠れたように、平行に走る通りと繋がって、(今はなき古劇場)テアートロ・ヴェッキオ小広場の鉄格子の上に、13~14世紀のギリシアの大理石で作られた非常に興味深い浮彫りがある。それは背中に犬を乗せたヒトコブラクダで、我々にも興味を抱かせるお話があるということである。……」 (32に続く)

サン・カッスィアーノ教会(ヴェ語San Cassan)裏のテアートロ・ヴェッキオ小広場のTeatro di San Cassiano Vecchioについて――1580年ミキエール家によって建てられた木造建築劇場。パルコ式の観客席で、劇場内部は卵型。スキャンダルに満ちた悪辣な行為が頻繁だったらしく、全てのパルコ席は後背部にドアはなく、オープンで誰でも中へ入れたし、内部を見ることが出来たということです。
1500年代末のカーニヴァルの時まで、喜劇の上演で劇場は続きました。
Teatro di San Cassiano Nuovoについては、2008.06.20日の世界初オペラ劇場で触れました。
  1. 2018/03/22(木) 16:50:08|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(30): リアルトからザッテレ海岸通りまで

以前、Guido Fuga-Lele Vianello著『Corto Sconto』(LIZARD edizioni、1997.11.)というヴェネツィア・ガイドからアルセナーレ近辺の街案内をしましたが、今度はリアルトからザッテレ海岸まで歩きます。出発は左岸(de citra)のカルボーン運河通りです[右岸はde ultra]。
Corto Sconto「ヴァポレット1番線または82番線[かつては国鉄サンタ・ルチーア駅前から82番線という急行便がありました。国鉄もトレニターリア鉄道となりました。]で、リアルト橋で下船――

このコースは魚市場休日の日、日曜日あるいは月曜日は計画から外すのが良い。
[以前は月曜日も休日だったのでしょうか。現在近くのバーカロ、ルーガ・リアルトに日曜日食事に行くと、大好きなネーロ(イカ墨パスタ)は市場休みで材料なしのため断られたりします。]

土産物等の店に囲まれたリアルト橋を上り、橋の高みから大運河を見物しよう。我々が出発したカルボーン大運河通りを左手に見れば右手はヴィーン河岸通りである。向こう岸から右岸に向かい、背後にドイツ人商館(Fontego dei Tedeschi)を目にしながら階段を下る。階段下で、リアルト橋を石で作るという可能性をかつて人々が疑っていたという古いお話についての興味深い各種柱頭が嵌め込まれたカメルレンギ館のファサード(ロンバルド作)を見よう。

1588~1591年と橋の建造に3年を要した事、土台作りに1万本の杭柱を埋め立てた事、工事に必要な資金(25万ドゥカーテイ)集めるのに、宝くじが始められた事を思い起こそう。

橋を後にすると、セレニッスィマ共和国の経済の心臓部、リーヴォ・アルト島に入る。ここにはかつて、両替屋やあらゆる国の商人がいて、信じがたい量の商品を相互に商っていた。フランドルの布地からショールや衣類、絹のカーテン、オリエントの香水・香油、麝香、サンダルやあらゆる香料まで、また高価な物には胡椒(中世には黒い金と考えられ、貨幣代わりに使われたこともある)からナツメグ、丁子、生姜、肉桂、樟脳、サフラン、カイロのアヘン、アヘンチンキ、赤い根のアカネ属の染料、またセラックと明礬は布類の染めを定着させるための物質。

アーケードの下の通りには、貴金属商や宝石屋があって、ペルシャのトルコ石、インドのエメラルド、アフガンの水晶や青金石、ルビー、サファイア、紅玉髄、黄玉、ダイヤモンド、そして人は所持すればするほど、出来るだけ身に付けたがるものであり、石に魔術的、治療的効力がある事を忘れはしないのだ。

こうした利点に加えて、野菜や果物、魚、鳥籠に入れた鳥を付け加えよう。即ちこの今、歩き回るのはどんな意味があるのか? 色んな意味でパーティーやお祭りがある。かつて知られていなかった色や芳香があっちこっちから到来するのである。

現在でもここは、ヴェネツィア人の最愛の市場として活気に包まれ、屋台の全域に渡って住民達が押し合いへし合いしている。観光客も興味津々で溢れ返っている。自分の行く手をこれぞという方角には決めにくいもので、先ほどの館の右へ行くと、ヴェネツィアで最古と思われる聖ヤコブス(Giacomo)に捧げた教会、サン・ジャーコモ教会の前に出る。最初に人々が居を定めた5世紀頃(リーヴォ・アルトに)、その時代、初の建設になるという。
アル・メルカ[野菜市場のバール――何年か前、ここアル・メルカの前に位置していた野菜市場の前にあった裁判所がテロで爆破され、以来野菜市場は更に奥のペスケリーアの脇に移りました。写真で見るように店内にはお客は3人はぎりぎり立てます。しかし夕方暗くなると立ち飲み客が何十人とこの店前の広場で飲むことになります(夕食前なのでアペリティーヴォ時間とかスプリッツ・タイムなんて言ってました)。知り合ったバーテンのフランチェスコはてんてこ舞いで、グラスを割っていました。勘定をどう処理するのか凄く興味がありました。ローマ等と異なり、勘定は後でというヴェネツィア流作法が今でも生きているのだとか。]

現在の建物は11~12世紀に遡り、続く年に何度か修復の手が入ったが、初めの建物の姿の変更はなかった。ファサードには大きな時計(1410年作)が、あの時代古い教会ではよくそうであったようにゴシックのポルティコの上を飾っている。教会前には布告用の柱があって、リアルトのゴッボ(佝僂(せむし)―Gobbo di Rialto)と呼ばれる階段を支える彫刻がある。……」 (31に続く)
gobo de Rialto[写真、サイトから借用] 『  リアルトのゴッボとは?
1291年コゼンツァ(Acri)からヴェネツィアに持ち帰られた低い斑岩の“柱”である。頂上の低い小さな階段であり、罪の宣告文や追放刑に処された市民の一覧表を告知したりする報道伝達官の役を持つ、弓なりになった彫像の階段で、普段見掛けない姿のため、ヴェネツィア人は Gobbo(ヴェネツィア語でゴーボ、el gobo de Rialto)と呼んだ。

中世には、盗人は罰せられて、鞭打つ人々の間を素裸でサン・マルコ広場からここリアルトまで歩かされた。ゴッボの柱は最終目的地で、柱に到着すると犯罪者達はお互いに抱き合い、彫像に接吻するという苦しみの最後を締め括る場所だった。 

1500年代半ば、柱に聖職者や国の品行の堕落等を批判する辛辣な詩や中傷文書がぶら下げられた。マドンナ・デッロルト教会傍のモーリ広場の“Sior Rioba”と共に、ゴッボはヴェネツィア人の“Pasquino(パスクイーノ)”となった。』 
[“Pasquino”はローマの、現在パスクイーノと呼ばれる広場に立つ古代ローマ時代の1501年に発掘された彫像で、この像に落首の形で批判文書がよく貼られたそうです。]                                                                                                                            
  1. 2018/03/18(日) 23:50:10|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(29): アルセナーレ近辺

(続き)
「葡萄畑の聖フランキスクス(教会―S. Francesco della vigna)――こうした事からこの町がワインとずっと深い関係を持っていたと考えると、興味深い事である。既にティート・リーヴィオが古い人民Heneti あるいはEneti(即ちワインの人々)が名前をVeneti に変えたのだ、そして我々がこの飲み物と繋がっている関係について長々と語っている。通常はエーゲ海諸島やギリシアから輸入したワインが、我々の手になるワインより当時は好まれたということは興味深い。

街には名前に“マルヴァジーア酒”をうたった店の通りが沢山あったが、そこではこの酒を“grechetto”とも言い、甘口マルヴァジーア(ミサの儀式ではヴィン・サント(vin Santo)が使用される前に使われていた)とか、garba酒(辛口)とか分類された。こうした舶来のワインはカンディア(イラクリオン)やキプロスから到来したが、香味を添えるため、色々のスパイスや砂糖で味を調えた。ヴェネツィアの伝統文化の著名な研究者モルメンティによると、ヴェネツィアではこのワインは、salubri(体に良い)、stomacati(むかつくような)、cordiali(和やかな)、matricali(カモミッラ風の)、gagliardi(アルコール度が高い)、mezzani(アルコール度が並みの)、deboli(アルコール度が低い)と分類される、と。

本土側での共和国の力が拡大され、ヴェネツィア貴族の資金力の増加で、彼らの土地に好みが広がり、外国勢力の侵入が終わった後、ベネディクト修道僧達が既に活性化させていた生産をより洗練されたものとした。それ故最良のワインの生産が始まった。valpolicella(ヴァルポリチェッラ)、picolit(ピコリット)、vernaccia(ヴェルナッチャ)その他があり、ドイツやポーランドに輸出された。

ヴェネツィアでは相当量のワインが取引され(Riva del vin―ワイン河岸)、色々の組合が発生し、それには容器を移し替える人の組合、ワイン原酒販売業者組合、ワイン輸送販売者組合、ワイン小売業者組合等、結局1609年には一つの組合に歩み寄り、サン・スィルヴェーストロ広場のヴィン運河通りに近い所に本拠地を置いた。

我らがコースに戻って、再度橋を越し、サン・フランチェスコ大通りを行こう。直ぐ右にボンバルディエーリ軒下通りがある。中へ潜ると太い管の上に立つ聖バルバラを表す美しい盃が我々の前に現れる。サン・ジュスティーナ大通りに繋がる狭い通りへ行き、周りを見回すと、他にも状態の良い盃が二つ見付かる。
聖バルバラ[聖バルバラ、サイトから借用] ここには1500年代ボンバルディエーリ(砲手)信者会に所属していた人達が、自分達の住宅を建てたのだった。サンタ・マリーア・フォルモーザ教会にはパルマ・イル・ヴェッキオの祭壇画に描かれた彼らの守護聖女バルバラに捧げた祭壇が作られた。共和国末期頃は町の警備隊の役を独占的に請け負っていた。

サン・フランチェスコ大通りに戻り、そのどん詰まりまで行き、左へ曲がり、更に左へ曲がってオージョ通りへ向かう。ここでsottoportico(アーチ下を通過する空間)の上の高みに目をやると、左手に大理石の古い浮彫りがある。イストラ半島出身のヴェネツィア総督フランチェスコ・エーリッツォ(1631~46)を輩出したエーリッツォ家の紋章である。

特に1470年、エヴォイア(Negroponte)の大使であり、かのBailo(オスマン帝国への大使)であったパーオロ・エーリッツォである。彼はトルコ軍から島を勇猛果敢に守った英雄である。一度はマホメット2世の軍を破ったこともあるが、2枚の木の板の間に結び付けられ、生きたまま鋸で切断された。

これらの像に感銘を受けた心と、今や終りに近付いた長い散歩で疲れた足とにもう一度活力を取り戻すために、少し前まで居酒屋Alle do Marie(アッレ・ド・マリーエ) があって、sarde al peperoncino(唐辛子の利いた鰯料理)が我々を元気付けてくれたものだが、経営者と店の様子が変わってしまった。しかしパン粥は美味しい。

左のオージョ通りの方へ行き、非常に狭い通りを左のバッフォ通りと呼ばれる道の交差点まで抜けて行く(このバッフォ通りはヴェネツィア語で風変わりな、エロティック詩を書いたジョルジョ・バッフォの一家に由来する)。狭い通りの終り近くで目線を上げて欲しい。目前の館の角に普通の窓のように窓が見え、硬い壁がそれを支えている風である。しかしその裏側には何もない。本物だという印象、現状のイリュージョン、どんな町にもある館、そして多分全ては絵空事、我々が今見つつある夢、だという事を我々に与えるだけの、正にそこに置かれた絵、舞台袖の垂れ幕を思わせる。
バッフォ小広場[左、バッフォ通りの奥まった所にあるバッフォ小広場。ジョルジョ・バッフォについては2012.09.01日のピエートロ・ブラッティや2016.12.08日のヴェネツィア街案内(13)等で触れてきました。]

ヴェネツィアとは非存在なるもの! ヴェネツィアとは素晴らしい舞台の袖から成立する、偏に劇場的なるもの。ヴェネツィア人とは非存在なるもの。ともすれば、かつて存在したやも知れず。今や真に美しき夢、夢そのもの。
今やあなた達は秘密の知識に近付いている。今やあなた達は隠された庭を、そして厳然たる現実を飛越して行くべき門を見付け出すことが出来る。あなた達は最早、旅人の巧まれた餌食ではない。あなた達は自らの感覚だけを信じて行動出来る。単に見るのではなく凝視すべきなのだ。

サン・テルニータ広場に入り、スッフラージョ橋、またの名をクリスト橋を渡ると道はアーチへと続く。この単独アーチもまた、明らかに無に開かれている。よく見ると、あなた方の目は外観を見透かすべく鍛えられた。そのアーチの向こうには海があり、多分そのアーチは壮麗で軽快なラグーナの水彩画に向かって開かれていると言ってもいいかも知れない。過ぎていく時間の、季節の色彩のように移ろい易い。

そこはヴァポレットの停船駅であり、その持てる名前以上の名前はないであろう、即ちチェレスティーア。急行の52番線と23番線の船は右へ行き、それには素晴らしい美点がある。それはアルセナーレの中を通過する事、そこで周辺に目を凝らし、空想を自由に羽ばたかせる。夢見る思いが終わる頃にはヴァポレットはサン・ザッカリーアに着岸する。 」 (終り)
[現在はこのアルセナーレ内を通過する路線は海軍敷地内ということでなのか、無くなりました。私が初めてヴェネツィアに行った1994年には、ムラーノ島に向かうヴァポレットがここを通過したので、船上から内部を見学出来ました。]

2018年が明けました。良い年でありますように願っています。長い間、ご高覧有難う御座いました。
  1. 2018/01/04(木) 00:04:07|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(28): アルセナーレ近辺

(続き)
「スキアヴォーニ同信会館を後にして、ピエタ運河近くのフルラーニ運河通りへ向かって行こう。右手のサンタントニーン橋を渡るとグレーチ大通りに近付く。そこには“トラットリーア・ダ・レミージョ”がある。更に橋に向かって進み、橋は渡らず、直前を左へ曲がるとヴェネツィア的でも未だ手垢に塗れない一つの区域で、浮かんだような運河通りを見ることとなる。コルト・マルテーゼが隠れ家とした所である。

ここには聖ゲオルギウス(S. Giorgio)に捧げたギリシア人コミュニティがある。西欧でも最古のもので、トルコ占領時代、ヴェネツィアは四散したギリシア人の最も重要なセンターとなったことを我々に思い起こさせる。こうして最初からギリシア人の流入があったのに、ビザンティン帝国の崩壊という、その時(1453年)から、インテリ、編集者、芸術家、筆耕者らが集まってきた。結局ヴェネツィア人以外では、ギリシア人コミュニティが最も著名なものとなった。
[ギリシア人画家テオトコプーロスはヴェネツィアでも活躍しましたが、スペインに渡り、大変有名となり、“エル・グレコ(El Greco―ギリシア人)”と呼ばれることになりました。]

寛容なヴェネツィアにあっても、ギリシア正教の祭式を認めることは教会分裂という事態になるので、それを営むことの出来る土地を確保することには問題が発生した。長い争いがあり、サン・ビアージョ教区でギリシア人にミサの挙行が許されるという過渡期を経て、最終的にある信者会に纏まってよしとする認可を得て、サンタントニーン教区に土地を購入し、1539年教皇庁の承認の下、殉教者聖ゲオルギウス(S. Giorgio Martire)に捧げる教会建設に着手した。工事は1573年完了した。建築家サンテ・ロンバルドと副建築士アントーニオ・キオーナに委ねられた。一方に傾いた鐘楼は建築当初からこうであり、ベルナルディーノ・オンガリーンの建造である。
サン・ジョルジョ・デイグレーチ[サイトから借用]  信者会に対してセレニッスィマは好意を示したが、ギリシア人傭兵隊は戦闘行為や勇気において際立つ男達で構成された非常に威力のある軽騎兵隊であり、戦争時その助力を提供してくれるので、好都合であったに違いないのである。

15世紀から16世紀初頭にかけて、ヴェネツィアはヨーロッパの中でもギリシア文化センターとして、唯一最も名高い場所になっていた。アルド・マヌーツィオはプラトンやアリストテレスのようなギリシア古典を、ギリシアの研究者やインテリ達の協力を得ながら、出版し始めていた。その中には教皇レオ10世やロッテルダムのエラスムスの協力者として知られていたマルコス・ムスロス(Markos Mousouros―伊式Marco Musuro)のような人がいた。
[アルド・マヌーツィオについては、2011.06.11日~ のアルド・マヌーツィオ(2~4)とか、2017.07.27日の書物の夢、印刷の旅等で触れました。]

1662年教会傍に、フランギニアーノ(Franghiniano)と呼ばれた高等学問研究所が設立された。莫大な量の遺産をこの信者会に残した希人弁護士Thomas Flanginis(伊式Tommaso Flangini)が設立し、彼の名を取ったものである。同時期にバルダッサーレ・ロンゲーナに病院を建てさせたが、それはこの博物館となっている。

今日この建物群の総体を見に訪れてみると、我々を時空を超えた世界に導く。博物館内部には興味豊かなイコンやミニチュアを描いた写本が蒐集されており、巨大な卵形の階段は美しい広間、コンフラテルニタ同信会館の参事会集会所へと続く。現実にはギリシア研究所の後援会議場で、時には現代ギリシア芸術家の展示場となる。教会背後、後陣の下は古い小さな墓場である。

沢山の杯や聖ゲオルギウスと龍を描いた浅浮彫りの間では、美しい静寂に満ちたオアシスが、瞑想と崇高の時を与えてくれるだろう。そして香の薫香がこの美しい教会内部へと引き寄せる、そこはビザンティンのイコンのように黄金で飾られ、両側は木製の聖歌隊席が置かれている。

内陣と身廊の界壁(聖障)のテーブルの上の絵画は、多くがクレタ島の画家ミケーレ・ダマスキノース(16世紀)の作品である。この建物内部では、ビザンティンと後期ビザンティンを研究するギリシア研究所が活動している。それはギリシア国外では唯一のものであり、貴重で豊富な資料を研究者達は自由に利用出来るのである。

ギリシア教会を後にして、橋を渡り、右の運河通りをサン・ロレンツォ橋まで行く。右へ橋を越え、サン・ロレンツォ通りを運河まで行くと対岸にマルタ騎士団の旧修道院が見える。道を左へ取り、コルテ・ノーヴァ橋を渡ると居酒屋“ダ・ダンテ“がある。未だ旅行客の手に塗れていない場所である。

このノーヴァ小広場を過ぎり、左の軒下通りへ入ると、聖母の祀られた小さな祭壇があり、是非見ておきたい。伝説によれば、この小広場の住民をペストや他の伝染病からいつも守ってくれたのだという。この通りから抜け出す前に左を見ると、鉄格子の扉(2862番地)があり、その奥にはマルテーゼあるいはボーカ・ドラーダの小さな庭(フーゴ・プラットによる)がある。

我らが散歩を更に続行し、サンタ・ジュスティーナ大通りの方へ右に曲がろう。扶壁の付いた家の隣、ベーネト・ビザンティン様式の大理石の美しい開廊の前に出る。その背後に魅力的な広場が隠れているのである。取り分けそこ、マッラーニ通りはフーゴ・プラットが場面設定に利用したのである。

交差路にやって来て左へ曲がると、橋を越えて、サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ広場に出る。フランチェスコ修道院と教皇大使の宿泊所を繋ぐ、渡廊下となった中空の通路を支える列柱の中を潜り抜け、この教会(ヤーコポ・サンソヴィーノの1534年の作品)の前に出る。ファサードは後にパッラーディオの手による。教会の中庭と庭は本当に美しい。勿論の事、入ってみたい。

教会は僧フランチェスコ・ゾルズィの理論に従って建てられた。彼は建築的、秘教的考え方の持ち主で、宇宙の均衡と調和の研究に没頭し、色々の尺度計算を“3”とその倍数に厳しく繋げて考えたに違いない。内部では現にある色々の作品の中でも、サン・マルコ鐘楼下の同名のロッジェッタのために、同時代サンソヴィーノと協力し合ったピエートゥロ・ロンバルドの一連の預言者の作品は興味深いものである。

この教会が建つ場所には、聖マルコに捧げた別の教会が存在したらしい。伝説によれば、アクイレーイアからの帰路、聖人は嵐があったためこの場所に一時避難したという。そしてここで天使の姿を見たのだという。天使は彼に向かって次にように言った。『Pax Tibi Marce, Evangelista Meus.(マルコよ、お前に平和を、我が福音書記者よ)』。セレニッスィマのモットーとして採用された文言である。
[聖マルコについては、2008.11.02~2008.11.22日の聖マルコ伝説(1~3)をご覧下さい。]
サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会[サイトから借用]  町のこの地区には、ズィアーニ家所有の広い葡萄畑があった。それが1253年シトー派の僧に遺言で譲られた。彼らはそこに修道院を建てた。そのため、San Francesco della Vigna(葡萄畑の聖フランキスクス)教会と呼ばれることになった。 ……」 (29に続く) 

長い間、ご高覧有難うございました。来年が良き年でありますよう、祈念いたします。
  1. 2017/12/31(日) 00:11:49|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(27): アルセナーレ近辺

(続き)
「取り敢えず、こうしたレストランは後にして、ピオヴァーン小広場に足を止めてみると面白いかも知れない。ここには井桁が3基ある。更にヴェネツィアで稀な事に、ここには店屋、バール、職人工房等全く無いのである。在るのは静寂のみ。この町の中でも、魔法のように隠された静穏が、賞味されるべき静穏なのである。平静に周辺を見渡し、良く見て、些細なまでの詳細、石の、屋根瓦の、窓枠の桟の色を玩味し、遠来の音を、鐘楼の時鐘を、口笛の唄を聴く。偏に静寂である。

前方のマルヴァジーア・ヴェッキアの小路を行き、右に曲がるとバンディエーラ・エ・モーロ・オ・デ・ラ・ブラーゴラ(Bragora)広場に出る(古くはBragolaで――メルカート広場――あるいはオリエントから聖洗礼者ヨハネの聖遺物が到来し、教会は彼に献堂された)。この教会でヴィヴァルディは洗礼を受け、1247年エジプトのアレクサンドリアから齎された聖ジョヴァンニ・エレモズィナーリオの聖遺物が保管されている。
ブラーゴラ教会と3805~09番地[ブラーゴラ広場] この広場に関しては、1819年2月のカーニヴァルの期間中、町に呼ばれたサーカス団の象が暴れ出し、自分の調教師を殺して、リーヴァ(海岸通り)・デッリ・スキアヴォーニを逃げ、幾つかの門、外階段と井桁を壊し、正にここブラーゴラ広場まで来た。教会内へ入り込んだそうで、そこから出たくなかったのか出れなかったのか、言わばはちゃめちゃ状態になり、結局海軍近衛隊が介入せざるを得ず、臼砲を持ち出し、軍隊式の陣立てで可哀そうに動物を射殺した。
[2012.09.15日のピエートロ・ブラッティでは象の逃げ込んだ教会はもっと奥にあるサンタントニーン教会としています。]

教会左からコルセーラ通りを行き、ペストゥリーン通りからサン・マルティーン通りへ戻る。左のペニーニ橋を渡り、運河側のゴルネ運河通りを行く。右側はアルセナーレの城壁である。その道終点まで行くと道が左へ折れて、フーゴ・プラットのファンタジーである、カッティーヴィ・ペンスィエーリ軒下通りである。
ド・ポッツィ広場[ド・ポッツィ広場] 更に左へ進み[右はマーニョ通りです]、ド・ポッツィ(二つの井戸)広場を行くと、角に居酒屋がある。ここの肉団子(polpetta)は大変美味しい。ちょっと一服した後、ここの門前の道を行くと左数歩の所、ロッタ(Rotaとも)小広場の前に、Corto Malteseの地名にある、《アラーボ・ドーロ小広場》がある。
[上記マーニョ通りに語学校のマッスィモ先生の家があり、そこをアパートに借りました。2007.10.28日のド・ポッツィ広場でそれらについて触れています。この広場の居酒屋が写真に一部見えているアイ・フォルネーリと思われます。]

引き返し、最初の左を曲がり、直ぐに右へ曲がる。スクーディ通りと同名の橋を渡る。ここから更に左へ、ガーテ広場からフルラーニ通り、コメンダ橋の手前を右へ曲がるとマルタ騎士団の教会とその在所がある。

マルタ騎士団の教会は騎士団の団長宅の傍に建てられ、俗にサン・ジョヴァンニ・デイ・フルラーニ教会と呼ばれたが、正式にはサン・ジョヴァンニ・デル・テンピオ教会で、11世紀末に遡り、12世紀に始まる。テンプラーリ騎士団の解散(1312年)後、ロードス島で発展したエルサレム・ヨハネ騎士団、即ちマルタ騎士団となった。

かつて教会は華美に装飾されていたが、1800年代初頭ナポレオンにより全ての調度備品や絵画は完全に汚されてしまった。今や教会は土曜日の17.30分のミサの時だけ開かれ、訪問出来るのはその時だけである。内部には色々な騎士団のあらゆる紋章で囲まれた魅惑的な中庭(chiostro)が我々に今でも白昼夢を見させ、鎧で飾った騎馬のギャロップの轟き、甲冑を着け新月刀での一突き、色取り取りの軍旗はためく姿を想像させる。
サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ同信会館[サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ同信会館] マルタ騎士団教会の傍には、サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ同信会館がある。アドリア海対岸の住民との繫がりは相当古い時代に遡り、15世紀初頭のセレニッスィマの支配下に入ったダルマティアの併合によって、1451年この同信会館は三聖人、即ち騎士ゲオルギウス(Giorgio)、少年トリフォン(Trifone)、賢者ヒエロニムス(Girolamo)の保護の下に同業組合として集まったものである。

最初マルタ騎士団教会(サン・ジョヴァンニ・デル・テンピオ教会)、次いで1500年代初期、エルサレム・ヨハネ騎士団の修道院の土地に建築家ジョヴァンニ・デ・ザーンによって建てられたファサードを持つ現同信会が建てられた。内部は三人の守護聖人に捧げられ、1502~07年にヴィットーレ・(スカルパッツァ・)カルパッチョによって描かれた一連の絵画作品で飾られた。その絵は最初二階に置かれていたが、1551年頃一階に移され、現在はそこで鑑賞出来る。
[カルパッチョについては2011.07.26~2012.11.10日までヴィットーレ・カルパッチョ(1~6)として触れました。カルパッチョ、いいですね。]

この内部はルネサンス芸術の最も貴重な例証の一つであり、事実手付かずに保存され、1797年ヴェネツィア共和国が崩壊した時、殆ど全ての同信会館が閉鎖され、その財産は国家の手に渡るか失われてしまった。こうした事態はサン・ジョルジョ同信会館では発生せず、特別の通達のお蔭でその財産を保持し、活動を続行出来る特権を得た。

この絵画とは9点の画布である。『書斎の聖アウグスティヌス(Agostino)』『僧院の聖ヒエロニムスと獅子』『聖ヒエロニムスの葬礼』『聖ゲオルギウス、龍を退治する』『聖ゲオルギウスの勝利』『聖ゲオルギウス、異邦人(Selenito月世界の人)を洗礼』『聖トリフォン、皇帝ゴルディアヌスの娘の悪霊を払う』それに『聖マタイの召命』『菜園ゲッセマネの祈り』が加わった。これらの画布はその一つ一つが細部まで豊かに表現されたその魅力で、思わず方向感覚を失って我を忘れさせるような、画家の素晴らしいスタイルが現れている。
『竜を退治する聖ゲオルギウス』十字架の奇蹟[左、『聖ゲオルギウス、龍を退治する』、右、『リアルト橋における十字架の聖遺物の奇跡』]   カルパッチョがこの町を決して動こうとしなかったことを考えると、彼が何度も描いたその風景が理解され、その構成は彼を取り巻く現実の中で幾度となく驚異的に修正を施したものであったろう。この驚異の画家の作品に魅了された者は、アッカデーミア美術館で《聖ウルスラ(Orsola)伝シリーズ》を見逃す訳にはいかない。更に『リアルト橋における十字架の聖遺物の奇跡』である、その挿話は、ロジェッタ上の左の画布に描かれた、ヴェネツィアで群がり集まる人々の様子を描いたものであるが、その一方でゴンドラは古い木製のリアルト橋の下を静かに流れる大運河に浮かんでいるのである。 ……」 (28に続く)
  1. 2017/12/25(月) 00:08:06|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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