イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの街案内(24): アルセナーレ近辺

(続き)
「鉄の橋(P. S. Piero)を渡り、ラルガ通り(C. Larga de Castelo)を行き、左折しルーガ広場へ行く。この広場は町でも最も特異な地域の一つである。綺麗に選択し、乾かすのに広げた布の匂いとその痛快さの只中で呼吸出来る。窓や広場での女達のお喋りと呼び合い、子供達の叫び声やゲームの歓声、老人達はテーブルを出してカード勝負。
ソットポルテゴ[語学学校で案内された、この広場の脇道はこの街で最低の高さの軒下のズルリーン通りで、人が立って歩けない低さでした。]
地図左地図右
地図ア地図ル地図セ地図ナー
                 地図レ地図のリエッロ(Rielo)の通りとそのフォンダメンタ(運河通り)、サン・ジョアッキーノ(S. Gioachin)通りとその運河通りを過ぎると、ここからガリバルディ大通り、非常に活気あるヴェネツィア人の空間である。このヴェネツィア一の広い通りを通過する前に、右のロレダーナ通りへ曲がってみよう。

ターナ運河通りの狭く低いアーケードの下、前面に、道一杯に麻と塩の独特の匂いが立ち込め、乾燥させるために広げられた網が掛けられた、縄製造所の古い壁がある。直ぐ左に、壁面に碑版が貼り込まれている(リアルトの魚市場とサンタ・マルゲリータ広場の中に建つvaroter[毛皮職人]達の同信会館壁面の碑板と同じ物)。

その内容は、売ってよい魚の最小の大きさが決められ、その決まりを破ると罰を受けることが明記されている。それはセレニッスィマ時代、市民の共有財産を悪化させないように、守り育てるべきものとしてラグーナの魚資源を守護することに意を尽くしていたことを示している。

ターナ運河通りをガリバルディ大通りと結び付ける幾つかの通りで、前回登場したセッコ・マリーナ通りで見たように、現在でも最後の"Impiraperle"(真珠を挿した女達)を目にすることが出来る(前回を参照して下さい)。

ガリバルディ大通りに通じるこれらの狭い通りに戻り、この生活環境にたっぷりと浸っていると、道から道へと元気回復のバーカロやバール、簡易食堂が現れる。コルト・マルテーゼの時代、ガリバルディのモニュメントの前に、スーパー・マーケット、それから倉庫に変わる前、フーゴ・プラットのお気に入りの溜まり場の一つがあった。

彼の友人達によれば、"Cavallerizza"(馬場)と言い、生演奏を聴かせるポストで、少女達や船乗り、滞在中の兵士達のデートの場所となっていた。決して如何わしい場所ではない。

この件に関して、町の中でのこの地域とここに根を下ろす住民達の人柄、特にかつての雰囲気をちょっと付言しておかなければならない。連合軍が占領していた戦争末期、ここは町でも最も活気を呈していた地域の一つであった。

この通りの背後ではありとあらゆる類いの物資が暗躍し、見付けることが可能だった。概ね合法的で、あらゆる活動が蠢いていたが、初めてジュークボックスが現れ、更にはにわかづくりの突飛な楽団が組織され、アメリカ製の新しい音楽が四六時中演奏された。

興味深い出来事は、当時奇妙な密輸品が流行したが、それはあらゆる病に万能の、当時の新製品で奇跡的な薬、ペニシリンであった。

その取引方法は、概ね次のようなやり方であった。即ち、商談は軍隊の病院船の上で決まった。荷渡しで支払い時、包みを受け取るや、ヴェネツィアの詐欺師は船の舷側から、文字通りラグーナに飛び込み、少し離れた所で待っていた仲間が直ぐに彼を拾いに漕ぎ寄せ、かの有名な、効果的な“船の青”に塗られた甲板は、夜間はくすんだ青でよく見えないのだった。騙され怒り狂った船員達は、連中に大打撃を与えようと船の上から煮え滾った熱湯をホースで振り掛けたが、殆ど何時も遅過ぎた。

50~60年代、そうした行為は目的が単純に変化した。密輸はペニシリンから煙草に変わった。超スピードの船底平坦船が海とラグーナを何時でもどんな状況でも矢のように走り、ヴェネツィアの浅い運河でも航行出来た。そこでは財務警察の重い船では彼らの追跡は難しかった。

当時こうしたペテン師は、概ね、正にこの地区で生まれた。ますます組織的で大っぴらになった、彼らのその行動から、正真正銘のアドリア海の海賊と考えられるようになるまで、血生臭いエピソードをあれこれ作り出すようになる。 ……」 (25に続く)
  1. 2017/12/07(木) 00:04:11|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(23): アルセナーレ近辺

以前コルト・マルテーゼ(Corto Maltese)が案内するガイド、Guido Fuga-Lele Vianello著『Corto Sconto―itinerari fantastici e nascosti di Corto Maltese a Venezia』(LIZARD edizioni、1997)で、ヴェネツィア街歩きをしました。今回3度目となりますが、この地域は私がヴェネツィア語学校通学時、学校のマッシモ先生のお宅をアパートにお借りし、この近辺をあちこち歩き回り、本当に懐かしい地帯です。本を片手に一緒に歩いてみましょう。
Corto Scontoアルセナーレ1アルセナーレ2「このガイドはナポレオン庭園、即ち2年ごとに開かれる現代美術の催し物が開催される、かの有名なビエンナーレの庭園から始めよう。この国際的な展覧会は、詩人リッカルド・セルヴァーティコと評論家アントーニオ・フラデレットのアイデアとイニシアチブで、1895年に始まった。最初展覧会のアカデミック性ゆえに、芸術家達のアヴァンギャルドな運動は拒否され、初めて印象派絵画が認められるのは、1924年を待たねばならなかったし、それは正に1948年のピカソであった。

各国が自由に使えるパビリオンを持ち、より異質な現代建築には、譬え矮小化されても空間の中にヴェネツィア的感性が表れている。それはヴェネズエラ館のカルロ・スカルパから、オーストリア館のJ.ホーフマンや日本館の吉阪隆正、更にイスラエル館のリヒターから、カナダ館のベルジョイオーソ、ペレッスーティ、ロジャースらまで、そして更にはフィンランドのA.アールトに至るまでが、貴重で象徴的な表現を残している。

運河沿いの岸辺を楽しく歩き、馥郁たる公園の中を、カステッロ区のサンティゼーポ教会[S.Isepo/Iseppo=S.Giuseppe(伊語)]へ向かうと、現在では崩れてしまったサンタントーニオ・アバーテ教会の最後の遺物、素晴らしいサンミケーリのアーチ(16世紀)の傍を通る。

こうしてサンティゼーポ広場に至り、16世紀に再建された上述の教会を見る。それは最初の聖アウグスチノ修道会士[聖アウグスティヌスの作った会則に基づき、修道生活を送っていた人達が13世紀半ばに合同して組織した修道会]の教会であり、更にサレジオ会士[1845年聖フランソワ・ド・サルを守護聖人として聖ボスコがトリーノに創設した修道会]のものとなった。

内部は絵画的には天井全体を覆うフレスコ画が、非凡であると言わないまでも、ジョヴァンニ・アントーニオ・トッリーリア(17世紀)に帰属し、列柱が縦方向に一元化した遠近法擬きで、垂直感と方向性を混乱させる。

テイントレット工房に帰属する絵画作品は別にしても、内陣のパーオロ・ヴェロネーゼの牧者の礼拝や総督マリーノ・グリマーニとモロズィーナ・モロズィーニ夫人に捧げた荘厳な葬儀のモニュメントは左の祭壇にあり、興味深いものである。

レーパントの戦いに捧げられた、この基礎部分は我々がここを訪れる第一の理由である。というのは、この歴史的な船の合戦でのイスラムの影響が明確に表れた、美しい例の一つだからである。祭壇は海軍大将ジョヴァンニ・ヴラーナが注文したもので、彼はその足下に葬られた。

この教会を後にして橋[サンティゼーポ橋]を渡り、[そのまま進み、次を]右に曲がるとセッコ・マリーナ(ヴェ語Seco Marina)通りの突き当りになる手前に小さな祭壇が置かれた古い小広場がある。季節が良いと今でも“真珠を挿した”女達を見ることが出来る。それは首飾り用の小さな真珠の付いた、非常に細い歯で出来た特別誂えの櫛を挿した女達である。
[“真珠を挿した(impiraperle)”とは、imperare(ヴェ語)=infilare(伊語―挿す)で出来た言葉]

来た道を戻り、セッコ・マリーナ通りの反対側まで行き。右へ曲がり、フルラーネ通りへ。そこにはフリウーリの特徴的な建物と全く同じ、1600年代の貧相な建物があるが、彼らはヴェネツィアに仕事を求めてやって来て、定住した。当時のフリウーリの人達は、酒場や洗濯屋、乳母やレストランの給仕等をやり、フリウーリの農民舞踊(furlana)をヴェネツィアに導入し、カステッロ区に大変な支持者を得て、広めた。

続いてサンタンナ運河通りへ行こう。右折し、サン・ピエートゥロ・ディ・カステッロ島と結ぶクィンタヴァッレ橋まで。この長い木製の橋から本当に魅力ある景観を楽しむことが出来る。この辺りは全く観光客の気配がない。長い河岸に舫った沢山の船と古い造船工房、ヴェネツィアの旧司教座聖堂サン・ピエートゥロ寺院の傾いた鐘楼(1482~88年マルコ・コドゥッチによる)、更に左、遠方にはアルセナーレの城壁と塔が見える。カテドゥラーレ寺院脇の建物は、1807年まで総大司教の在所であった。現在では放置されて、中庭(キオーストロ)のみが視認出来る。

左へ行き、1600年代のこの教会前に来ると、パッラーディオ様式建築のオリジナルから色々に改築を重ねていった様子が見て取れる。既に7世紀には、Santi Sergio e Bacco に捧げた教会が存在したと思われる。
[Sergio=教皇セルギウス1世(687~701)は聖人。Bacco=バッコスあるいはディオニューソス]

第一次世界大戦中、大穹窿は焼夷弾を何度か被爆し、越し屋根(ランターン)を破壊された。強調しておきたいのは、優に54m高もある穹窿の偉容で、同名の穹窿、ローマの有名なミケランジェロの大穹窿より、僅か4m少ないということである。

内部を叙述すると、右側に所謂ペトロの説教壇があり、石の玉座はアンティオキアの聖人が使用したと言われている。背板はアラブ・イスラム様式の石の墓碑柱であり、13世紀には多分椅子として使われた。 ……」 (24に続く)
  1. 2017/11/30(木) 00:17:29|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(22): サン・マルコ広場

今までヴェネツィアの中心サン・マルコ広場について、余り触れてきませんでした。ヴェネツィアの古本屋で買ったLeone Dogo編集『Questa strana Venizia(不思議の町ヴェネツィア)』(Novara、1971)というガイドブックに、サンマルコについて簡単な紹介があるので訳してみます。
Veneziaサン・マルコ広場 1500年前、ヴェネツィアは存在していなかった。少なくとも“この”ヴェネツィアは存在していなかった。しかし繰り返される蛮族の侵入から逃れるため、ラグーナ(潟)の中に逃げ場を求めた、多くの政治的難民としてのヴェネツィア人の古い先祖達は存在していた。ある種の同盟で結ばれた小さなセンターが、ラグーナの島に幾つも発生した。人々は特に漁業の収益と塩の販売で生活した。

今やヴェネツィアを起ち上げた、これらの島のグループはこうしたセンターの一つを形成した(Rivo Alto[羅典語Rivus altus―深い川、運河]と呼ばれた島)。門の前に舫った舟があり、木と籐や葦で出来た垣のボロ屋が点在し、運河に架けた木の小さな橋、野生動物が通過出来るような小さな階段さえまだなく、耕された畑に囲まれて貧弱な礼拝堂や小さな教会があり、平らな地では雌羊や乳牛が飼育されていた。

塩田として囲われた区域は仕事に活気があった。運河岸のここかしこには、潮流のゆっくりした流れで動く粉挽きの水車の姿が見られた。これは紀元655年にヴェネツィアに到来して見渡せば、凡そそこに現出している風景であった、はたまた755年にさえまだ…。

修道女の果樹園――サン・マルコ広場なのか? 現在、当然サン・マルコ広場にはそうしたものはない。このエリアには運河と水溜りが走り、近くのサン・ザッカリーア修道院の修道女の所有になる樹木の生い茂る brolo[ブローロ―果樹園]が広がっていたのだ。[下図、サン・ザッカリーア教会]
サン・ザッカリーア教会[総督宮殿の辺りは brolo、brogio (ヴェ語、果樹園)と呼ばれ、サン・ザッカリーアの修道女の所有でした。12世紀、総督宮殿が増築して建てられることになった時、彼女達はその地を総督に譲ったので、総督が年に一度復活祭の日曜日、サン・ザッカリーア教会に表敬訪問をする仕来りが生まれたそうです。
総督宮殿下のアーケードは broglio(伊語)とも呼ばれ、大評議会で採決する前、票集めの買収のためにあのアーケード空間を行き来してひそかに票の売買が行われるのが毎度のことだったようです。そのため imbroglio(伊語、ペテン)という言葉が生まれました。オペラ等でごたごたや陰謀の場をインブローリオと言ったりします。]

809年カール大帝[シャルルマーニュ](伊語Carlo Magno)の息子ピピン(Pipino)が大軍を率いてリード島を平定した(当時そこにヴェネツィア政庁があった)。しかし彼の軍がザッテレまで来るとラグーナの水が退潮し[船が座礁し]、泥濘が罠となって足を取られ、二進も三進も行かなくなった。“水の穴”に足が嵌まり、文字通り全てが沈んだ。

ピピン軍は面目丸潰れで、何の成果もなしに退却したのである。ピピン軍の成果皆無の敗退で、ヴェネツィア人は自分達の中心地を、リードからより安全と思われるリアルトに移すことに決めた。それ故サン・ザッカリーア修道院のバデッサ座下の同意を得て、総督達は、現在総督宮殿が建っている場所に彼らの住居を建てた。
[サン・ザッカリーア教会には洗礼者ヨハネの父、聖ザカリアの遺体が祀られています。この遺体はビザンティン皇帝レオ5世(813~820)が友情の印として、ヴェネツィアに贈与したものだそうです。ヴェネツィアには福音史家聖マルコやシラクーザの聖女ルキアの遺体が現存します。]

その代りバデッサ座下は権力の象徴としての角の形をした総督帽(コルノ帽‐corno dogale、acidarioとも)を、総督が年に一度修道院に表敬訪問する時、彼にそれを手渡し、着飾って貰うという特権を得た。

木の教会――20年ほど後(828年)、2人の冒険好きのヴェネツィアの商人[ブオーノ・トリブーノ・ダ・マラモッコとルースティコ・ダ・トルチェッロの2人]が、エジプトのアレクサンドリアの教会から福音史家聖マルコの遺体を盗んでヴェネツィアに持ち帰った。その時まではラグーナの人々の守護聖人は、ドラゴンを制圧した聖テオドールスであり、その何年も前の事、ビザンティンの将軍ナルセス(Narsete―ベルサリオス将軍の後任)の兵士達が、修道女の有名な《果樹園(brolo)》にお堂を建立したのだった。勿論の事、ヴェネツィア人は守護聖人の役を聖テオドールスから聖マルコに変更する事を決めた。

新しい守護聖人の栄えある教会が、数年後総督の《城》[当時はまだPalazzoになっていなかったようです]の直ぐ傍に建造された。それは当時ヴェネツィアの全ての建造物がそうであったように木の教会で、976年僭主化していた総督に抗議した人民が、総督の館に近い教会に火を放ち、焼失したのだった(この総督ピエートロ・カンディアーノ4世は逃げ出そうとしていたところを、教会玄関で腕に抱えた幼い息子もろ共虐殺されてしまった)。

新総督ピエートロ・オルセーオロ1世はより美しい、未だかつて見た事もない物を再建した。彼は国家財産に全てを注いだ聖なる男だった。だから自費で建てようとし、直ぐ傍に貧しい巡礼者のための施設(救貧院)さえ建てたので、聖地を目指す全ヨーロッパからの夥しい人間がヴェネツィアに詰め掛けた。
[エルサレムへの巡礼行はヴェネツィア或いはマルセーユから船で行く便が有名でした。ヴェネツィアでは船の出航までの期間、巡礼者達の扱いに色々策を練ったようです。言わば、当時からヴェネツィアには観光業が存在したという事。例えばザビエル(最近はバスク人だったこともあり、シャビエルと表記するようになったようです)が日本に到来する前、イグナティウス・デ・ロヨラがエルサレムへの巡礼行のため、インクラービレ養育院で奉仕活動をしながら船待ちをしていたそうです、それは実現しなかったようですが。]

現実のサン・マルコ寺院は1063年に完成した。

広場の生成――セバスティアーニ・ズィアーニはサン・マルコ広場にその景観を与えた総督である。彼の在任中(1172~78)、《バドエール運河》を完全に埋立て、広場を広げた。この運河は古い“brolo”の真ん中を流れており、プロクラティーエ・ヴェッキエ(旧収入役館)と呼ばれた建物が左に建てられた。総督ズィアーニは“総督城”も新しく、もっと美しいものにしようと考えた。
サン・マルコ広場サン・ジェミニアーノ教会[カナレット画、左、サン・ジェミニアーノ教会側から見たサン・マルコ広場、右、サン・マルコ寺院側から見た旧サン・ジェミニアーノ教会]  1500~1600年の間に広場と小広場は決定的なその姿を形作る事になった。時計の塔が建ち上がり、サンソヴィーノ図書館(総督宮殿前)、プロクラティーエ・ヌオーヴェが姿を見せた。1902年崩れ落ち、“come'era e dov'era(元の姿で同じ所に)”と再建された鐘楼を別にして、新しい建造物はフランス軍占領下に作られた、いわゆるナポレオン翼である。それは1500年代建築のサン・ジェミニアーノ教会を壊した跡に建てられた。」
  1. 2017/10/19(木) 00:53:37|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(21)

(続き)
「この広場ではサン・ポーロ広場やサント・ステーファノ広場でのように、古くは闘牛の祭が行われていた(実際、とりわけ牛伝説があったのである)。周りには素晴らしい館が建っているが、それはプリウーリ館であり、ドナ館であり、ヴィットゥーリ館であり、かのマリピエーロ・トレヴィザーン館である。1800~1900年代に公妃ハッツフェルトの所有で、国際色豊かな、人気の文学サロンを主宰した。

この住居の傍に、ルーガ・ジュッファ(Ruga Giuffa)橋があり、記憶によれば、Julfa(or Culfa(アルメニア―アゼルバイジャン)から来たアルメニア商人の事であるが、古い資料ではGagiuffaという名前は、gajufusから、そしてダルマティアのgejupkaから来ており、ジプシーを意味している。ここからgaglioffo(悪党)という言葉は来ているだろう。これらgajuffosというのは、あたかも助けを必要としている善男善女、の振りをしている連中である。病院や修道院、同信会館等を回って、寄付を乞うのである。
カナレット『サンタ・マリーア・フォルモーザ広場』パルマ・イル・ヴェッキオ画『聖バルバラ』(部分)[左、カナレット画『サンタ・マリーア・フォルモーザ広場』、奥にフォルモーザ教会が見える。右、パルマ・イル・ヴェッキオ画『聖バルバラ』(部分)]  この教会の内部は7世紀に作られたが、M.コドゥッチによって再建(1492年)され、聖バルバラに捧げられたヤーコポ・パルマ・イル・ヴェッキオの多翼祭壇画のあるボンバルディエーリ(砲手)同信会館の教会である。

教会背後はクェリーニ小広場に、クェリーニ・スタンパーリア財団があって、蔵書豊富な図書館、絵画の注目すべきコレクションがある。ここの収集品について触れるのは止めて、唯一ヴェネツィアの生活を描いた、ガブリエーレ・ベッラの興味深い69点の作品(1700年代半ば)があることに触れておこう。

サンタ・マリーア・フォルモーザ広場に戻り、カッフェで一服し、周りの景観にうっとり等したくないなら、鐘楼を後にして、プレーティ運河通りへ出て、直ぐ最初の橋を横切り、次の橋の上に建つゴシック式の素晴らしいアーチを眺めよう。そしてパラディーゾ通りへ入る。これは扶壁を備えた建物の二つの翼に挟まれた中世の面影を残す通りであり、通り終りにもゴシックのアーチがある。
[一階軒下の梁を支える桁が露出した様子が興味深い通りです。日本の組物の一手先(ひとてさき)のような雰囲気です。これが中世の面影でしょうか。]

この通りにヴェネツィアとその伝統文化について専門に書かれた本の編集出版のフィリッピ書店がある(フィリッピ氏はウーゴ・プラットをよく知っていた)。この魅力的な通りを後にして、サン・リーオ大通りを右へ行こう。その右手には、13世紀の小館がペアーで建っている。サン・リーオ広場にはビヤホール“オランデーゼ・ヴォランテ”がある。
パラディーゾ通り Poeta LibertinoPietro Buratti『Elefanteide』ジュゼッペ・タッスィーニ『ヴェネツィア興味津々』[左、サイトから借用。右3点、フィリッピ書店出版の本、ここでジュゼッペ・ボエーリオの『ヴェネツィア語辞典』等買いました]  広場は右にそのまま置いて真っ直ぐ行き、サンタントーニオ橋を越え、ビッサ通りをサン・バルトロメーオ広場に出るまで進む。今や足を休め元気回復する時である。選択肢は様々で刺激的だ。即ちゴルドーニの銅像を背にして右の通りを選べば、テントール小広場に出、バーカロ“アイ・ルーステギ”がある。
[バーカロについては、2011.12.24日のバーカロ(1~3)で触れました。]

これには選択が色々、右へ行けば、エキゾティックな料理が好みの向きには中華飯店“アル・テンピオ・デル・パラディーゾ”、そしてヴェネツィアの新しい世代の夜のランデヴー用に典型的なバーカロ“アッラ・ボッテ”がある。

もしこうしたカオスがお好みでない方は、近くのビッサ通りの歴史的総菜屋、永遠の鰯入りのモッツァレッラ・イン・カッロッツァ[モッツァレッラ・チーズのはさみ揚げパン]のある歴史的総菜屋(月曜休み)に逃げ出そう。

この近辺で、狭いボンバゼーリ通りの一角の背後に、町でも歴史的なレストランがある。ウーゴ・プラットのお気に入りのレストランであった“アル・グラスポ・デ・ウーア”である。現在では経営が変わって終ったが、かつてはグイード・モーラの伝説的レストランであり、氏は特別の機会には店を閉め、友人達のために夜の7時前には決して終わる事のなかった素晴らしい午餐を用意した。芳香馥郁たる料理からはあらゆる種類の美味なるものが立ち上り、高揚感とシャンペンに満たされて最高気分になり、陶然として軽やかに幸せな心地で“グラスポ”から外へ出ると、それはもう“ウーゴ・プラット王”の時代であった。

この店で“パヴィーア”とかいう人がカメリエーレとして働いていた。彼はマエーストロに昇るまで、コルト・マルテーゼに彼の一面を描いてくれるよう、紙とマーカーを差し出した。プラットは細緻な絵を描いたが、それは女性の美しいお尻であった。事は何年も続き、ある年、コルトの自画像を描いてもらえないという、パヴィーアの不平不満にマエーストロは、彼に次のような事を思い出させて納得させようとした。彼が彼の英雄の像を手にしていないのは本当だが、その代わり今や世界でも第一のプラットのお尻のコレクターであり、いつの日かこの特異のコレクションで思い出されるに違いないことは確実である、と。 ……」 (終り)
  1. 2017/05/04(木) 00:05:23|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(20)

(続き)
「教会の大門を後にして、マドンナ小広場へ行き、最奥を左へ曲がり、フェルツィ河岸通りを鉄の橋まで行く。橋は登ってみるだけで越さない。更に左へ行き、ボテーラ[Botera=Bottaio(伊語、樽職人)]小広場を見付けよう。しかしヴェネツィアの公式名でなく、ここを訪れ思い出す方が楽しい。ウーゴ・プラットのファンタジーと有名な所謂“スコンタ・デッタ・アルカーナ小広場”にその時居るということで、そこから、ツァー(ロシア皇帝)の失われた驚くべき宝物や革新的モンゴル、素晴らしき王妃達、残酷無残の好戦的支配者達についてのマルコ・ポーロのお話、コルト・マルテーゼ風の中国とシベリアの素晴らしい冒険旅行を始めるのである。
[Corte Sconta detta Arcanaとは、Hugo Pratt著のマンガ・シリーズ”Corto Maltese”の中の『ヴェネツィア物語』(Favola di Venezia)中で名付けた《神秘と呼ばれる隠されたコルテ》のこと。]

ここには魅惑的な調和で12世紀以来の建築的要素が入り混じっている。コルトがその時代を知ろうとした時、目前の壁面に日時計(長時間)を見たのだった。隠れた小さなオアシスが我々を魅了し、町の何と美しい一角であるか思い出させ、今や目にする事が可能だったはずのことは閉ざされている。……

この不思議な一角を後にして、河岸通りに戻り、最初の通りを左へ行こう(ヴェニエーラ小広場)。そして再度広場へ戻り、右へ曲がり、ザニポーロ大通りを行く。この通りには居酒屋アル・バローンがある。老いたカード師達の屯する所である。左手には先ほど述べた教会の後陣が見える。古い資料によれば、ここには弓や石弓の練習用の的が以前からあって、少年コルト・マルテーゼにとって普通に親しんだ地域だったことを付け加えておきたい。
オスペダレット教会[オスペダレット教会、サイトから借用]  右には仏語書の書店がウーゴ・プラットに向けて小さなショーウインドーを向けていた。左にはバルダッサーレ・ロンゲーナのオスペダレット教会の、巨人と怪人の彫像のバロック様式のファサードが迫ってくる。“バルバリーア・デ・レ・トーレ”通りへ向かう。この名前はここに材木倉庫があったことを思い出させる。トーレ(tole)とはtavole(板)のこと。
ヴェネツィア地図[サン・ザニポーロ大通りに続くバルバリーア・デ・レ・トーレ通り左の6673番地の4階と屋根裏部屋に、カザノーヴァが恋人フランチェスカ・ブスキーニと、ヴェネツィアに帰郷した後年1782年9月まで住みました。これが彼のヴェネツィア最後の滞在です。]
この名前全体は、多分この板がベルベル人向けの物であったという事実に基づくか、あるいはここで板の毛羽が削られた、即ち鉋で削られたということかも知れない。1000年頃の史料が存在する。ギリシアの皇帝が、ヴェネツィアの材木とサラセンの鉄の交易に対して文句を付けているのである。

ここ左手に食堂“バンディエレッテ”がある。仮面に興味があるなら、この遂先の左に随一のものがある。そして最も熱心な工房であり、20年ほど前、古い型を見付け出し、古典的でファンタスティックなタイプの仮面を作り始めた。そして町に影響を与え、急速に支持者を集めて、大中小、各種の仮面には巨大な物まで作る店まで現れて、そんな仮面屋のない通りはヴェネツィアにはないというほどまでになった。この店の右の古い浮彫に気付いて欲しい。これはライオン穴に投げ込まれたダニエーレ(5世紀の浮彫)を表している。
[旧約聖書のダニエル書にある、ライオンの穴に投げ込まれたダニエルの話から。essere nella fossa dei leoni(虎穴に入る)。ダニエルは無事に救い出されます。]

もし仮面に興味が湧かないなら、その代り通りが狭くなるが右へ曲がり、ムアッゾ通りからムアッゾ小広場まで行こう。そこにはゲットの建物同様に町でも最も高い建物があり、その一家の建物(17世紀)は一種の摩天楼のように聳えている。11世紀のビザンティン式の美しい柱頭が見られる。

軒下通りを抜け、橋を越え、カッペッロ家の1500年代の美しい館側を行く。この館は現在時にコンサートに使われる。右の狭いサン・ジョヴァンニ・ラテラーノ河岸通りへ曲がり、狭い通りを進んで、更に先の折れ曲がった同名の河岸通り名が終わる所で、左のテッタ通りへ曲がり、同名の橋を越す。左手に格安の宿泊所となっているヴァルデージ館がある。

右へ曲がると、ロンガ・サンタ・マリーア・フォルモーザ通りである。この通りに双子のような場所、“アル・マスカロン”と“ラ・マスケレータ”がある。時には“マスカロン”で一休みして、料理を待つのもいい。流行りの店の一つなので、前もって予約をした方がベターである。

食事を楽しみ、美味しいワインで気分一新して、ヴェネツィアでも大広場の一つである広場まで通りを進もう。サンタ・マリーア・フォルモーザ教会があり、素晴らしい鐘楼は丸でお菓子職人の細工のようである。」 (21に続く)
[サンタ・マリーア・フォルモーザ広場については、2010.09.18日のヴェローニカ・フランコに図版資料があります。]
  1. 2017/04/27(木) 00:04:28|
  2. ヴェネツィアの街
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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