イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの劇場: サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ劇場

サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会(ヴェネツィア語ではサン・ザニポーロ教会とも――Giovanni=Zani、Paolo=Polo)正面前のカヴァッロ(Cavallo)橋を渡り、直ぐの狭い十字路を右に折れると、メンディカンティ(Mendicanti)運河に並行して、ヌオーヴェ海岸通り(Fondamenta Nove)まで長いテースタ(Testa)通りが続いています。

この通りの中程のパルード小広場(Corte del Paludo)に語学学校通学のためにアパートを借りたことがありました。テースタ通りドン詰まりにあるヌオーヴェ海岸通り直前に、現在は無人の廃墟と化したラルガ・ベルレンディス(Larga Berlendis)通りが左右に広がっていますが、かつてこの場所にサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ劇場があったのだそうです。

Aldo Bova の『Venezia――I luoghi della Musica』はその歴史を次のように述べています。

「サンタ・マリーア・フォルモーザのグリマーニ家が、1635年頃建造し、39年にちょっと離れた場所に建て直した。開場公演はパーオロ・サクラーティの『デーリア祭(La Delia)』[Delia はデロス(Delo)島で5年ごとに催されたアポロン祭のこと]で始まった。

[劇場経営者としての貴族のグリマーニ家の名はしばしば登場しますが、そのグリマーニ館は、サンタ・マリーア・フォルモーザ(Campo S.Maria Formosa)広場に直接面してはいません。ジュッファ通り橋(P.de Ruga Giuffa)を渡り、直ぐの横町を左へ、グリマーニ通り(Rm.Grimani)のドン詰まり、サンタ・マリーア・フォルモーザ運河(Rio de S.M.Formosa)とサン・セヴェーロ(S.Severo)運河の交差した角地に位置します。1984年から25年程の修復の時を経て、ヴェネツィアには非常に珍しい貴族の建物内部の例として、現在電話等で予約すれば見学が可能です。一見に値する壮麗な物です。]
グリマーニ館天井を飾る天井画邸館内部のパースペクティヴ壁面装飾(1)室内の建築的佇まい天井装飾(1){正面玄関。天井を飾る絵画。部屋を結ぶパースペクティヴな流れ。壁面の装飾。部屋を結ぶ建築的佇まい。天井画。}

グリマーニ家はクラウディオ・モンテヴェルディ(M)、フランチェスコ・カヴァッリ(C)、アントーニオ・サルドーリオやジョヴァンニ・レグレンツィ等の協力を得た。(M)の作品は1639年と41年に、『アドーネ(Adone)』[アプロディーテーに愛された美青年アドーニス]と『エネーアとラヴィーニアの婚礼(Le Nozze d'Enea con Lavinia)』[アイネイアースにラティーヌス王は娘ラウィーニアを与える](これらの曲の楽譜は何も残っていない)、更に42年に『ポッペーアの戴冠(L'incoronazione di Popea)』[ネロ皇帝の妃となったポッペア](自筆譜がマルチャーナ図書館に保存されている)が上演された。

(M)の弟子だった(C)の作品としては1642~56年の間に12のオペラ作品が上演された。1654年にはヴェットール・グリマーニ師が無頼の仲間達とともに劇場を占拠したかどで告訴されている。

1658年1月11日フランチェスコ・ルーチョの『メドーロ(Medoro)』[ルドヴィーコ・アリオストの『狂乱のオルランド』の登場人物]が板に乗った。彼は頭に一撃を受けて、30歳の若さで同年の9月1日に死亡。

1663年町で最上の劇場と評価された。≪サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ劇場ではカーニヴァル時に素晴らしい場面転換、威厳に満ちた目もあやな主人公達の登場、機械仕掛けの目も眩む飛行などを備えた音楽劇が演じられた≫。

≪通常光り輝く空、神聖なるもの、海、王宮、邸館、鬱蒼とした立木、森林、その他雅で楽しげなる外観を備えたものが観覧された。音楽はいつも洗練されており、町でも最上の声の持ち主が選ばれたし、ローマやドイツ、その他の地方から招かれて、衣装が豪華で愛らしい声の美人の歌唱は驚きと称賛をもたらすので、役になりきれる演技の出来る女性達が呼ばれた。≫

1665年にクラヴィチェンバロ奏者として雇われた一女性の記録がある(ヴェネツィアの劇場で演奏した女性音楽家についての情報は実に微々たるものである)。

1665年ピエートロ・アントーニオ・チェスティの『オロンテーア(L'Orontea)』[エジプトの女王オロンテーアは画家アリドーロを愛して結婚する]が上演される。

{他の資料では、ヴェネツィアで人気の高かったチェスティのヴェネツィアでの作品に、1649年『オロンテーア』、51年『恋するエルコレ(Ercole amante)』[エルコレはヘラクレスのこと]、66年『ティート(Tito)』[ローマ皇帝ティトゥス]、69年『ジェンセーリコ(Genserico)』[ヴァンダル王ガイセリック]等があったとあります。

一方、やはりモンテヴェルディに師事したと思われるフランチェスコ・カヴァッリも、他の資料では、1639年からサン・カッスィアーノ劇場を中心にオペラを発表し、この劇場では53年から上演していたとされます。

1655年『セルセ(Serse)』[BC.480年のペルシア王クセルクセス1世(ダレイオス1世の息子)]、56年『スタティーラ(Statira)』[ペルシア王ダリウス(ダレイオスとも呼称)の娘スタティーラ]、57年『アルテミージア(Artemisia)』[アルテミシアはアケメネス朝ペルシア支配下にあったカリア(古アナトリア地方)の太守だったマウソロス(Maussollos=伊語Mausolo―マーウゾロ or マウゾーロ)の妹であり妻でしたが、夫没後首都ハリカルナッソスに壮麗な廟(マウソレウム)を建てます。それが古代七不思議の一つになったと言われています]。その後はまたサン・カッスィアーノ劇場に戻ったそうです。}

1678年ジョヴァンニ・フランチェスコ・グロッシはカヴァッリの『シピオーネ・ラフリカーノ(Scipione l'Africano)』[アフリカでハンニバルを破り、勲功があったため大スキピオはアフリカヌスの尊称を得る]のシファーチェ役を歌い、成功を得た(97年エレオノーラ・フォルニ伯夫人の兄弟達に、嫉妬と復讐のために殺された)。

1699年劇場は活動を停止した(1714年短期間再開)。48年屋根が崩れ落ち、誰も修復しようとはせず、1800年代半ば、その壁面だけは見ることが出来た。」
  ――Aldo Bova 著『Venezia――I luoghi della Musica』(1995)より
  1. 2010/03/20(土) 00:01:26|
  2. ヴェネツィアの劇場
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ヴェネツィアの劇場のこと

ヴェネツィアにおける公開オペラ劇場の嚆矢は、新サン・カッスィアーノ劇場で、1637年2月フランチェスコ・マネッリの『アンドローメダ』が、ヴェネツィア初の興行師となったベネデット・フェッラーリ・デッラ・ティオルバの手で、世界初の有料公開オペラとして上演された話は以前にも書きましたが、歌手達は全てサン・マルコ寺院の礼拝堂聖歌隊員で、その中には大聖堂楽長のクラウディオ・モンテヴェルディの息子のフランチェスコも含まれていたそうです。
新カッスィアーノ劇場前元新カッシアーノ劇場劇所への地図左、新サン・カッスィアーノ劇場前小広場。中央、サン・ポーロ地区のサン・ボルド(S.Boldo)運河に架かるフォルネール橋(Forner)から見える、中央に見える劇場通り(cl.del Teatro)最奥にその劇場小広場(Ct.del Teatro)があります。写真に見える運河前の門はゴンドラでアクセスする貴族達用の入場口だったかも知れません。劇場跡は現在、サン・カッスィアーノ(S.Cassan)運河を挟んで隣のアルブリッツィ館(Pal.Albrizzi)の庭園になっています。
[2011.02.22日地図追加――右の地図の中、右上隅近く緑の地帯左の1932番地の直ぐ下に、x印右にCt.de Ca' Bollani(ボッラーニ館小広場)があり、ここを中心にかつて遊郭がありました。すぐ前の運河に架かる橋P.de le Tette(乳房橋)を渡り、前方左上方に向かうCl.de l'Agnella(現在は伊語風にアニェッロ通りとも)を直進、直ぐ左折するCl.de la Comedia(コンメーディア通り)の突き当たりが世界初の公開オペラ劇場《新サン・カッスィアーノ劇場》(緑の2302番地)があった所です。] 

その当時の劇場の事情を、Aldo Bova 著『Venezia――I luoghi della musica』(1995)は概略以下のように述べています。

「セレニッシマは、演劇的出し物に何度となく反対表明をした(1508.12.29のラテン語による文言)。1581年には≪公共の場でコンメーディアを演ずる≫者へ度々出された禁令の一つに、違反者には≪鉄の足枷を嵌め、10ヶ月間ガレー船を漕がせる≫という罰則が定められた。

オペラ誕生以前にも、演劇的出し物には唄や楽器演奏、バレー等が挟まれたもので、時にはその上演が延々と演じられたこともあった。≪コンメーディアが8時間続いた≫(1555.02.20)。

オペラ・シーズンは三つあった。《カルネヴァーレ(謝肉祭)》は12月26日に始まり、カーニヴァル最終日(martedi` grasso)まで。《アッシェンスィオーネ(ヴェネツィア語Sensa――キリスト昇天祭)》は祭日当日から15日間(2週間)。《アウトゥンノ(秋)》は9~11月の間。これらの期間以外の日は公演の設営は固く禁じられていた。

1500年代末~1600年代半ばは、10軒ほどの劇場が開場していたが、1600年代末には20軒弱に増えていた。入場券は劇場外の《Malagon(ヴェネツィア語で大工・建具師の意)》で販売された。オーケストラは今日のように深く掘られたオーケストラ・ピットではなく、平土間席と同じレベルに置かれ、観客は楽器で舞台を見るのを妨げられ、文句が絶えなかった。≪オーケストラのティオルボ(大型リュート)群の棹がいつも場面を遮っている≫。

1600年代、オーケストラは通常5挺の弦楽器、2本のティオルボ、2台のクラヴィチェンバロから成っていた。1683年パリの新聞『Le Mercure galant』の特派員は書き送っている。オーケストラは≪幾つかのクラヴィチェンバロやスピネッタ、ティオルバ、ヴァイオリンから成り、完璧に調和したピッチで歌の伴奏をした≫と。

上演中と言えども、桟敷席は夕食やお楽しみのために使用された(結婚披露宴や大切な客のためには、1階席に大きなテーブルが用意された)。桟敷席の裏では賭場が開帳されていた。

上演中は舞台よりは格段に暗かったが、劇場内はずっと照明が施されていた(桟敷は蝋燭、舞台は灯油ランプ)。そして何者かが桟敷内部の親密さを悪用しないように、桟敷席の所有者にドアは開け放っておくように言ってあった。

娼婦は≪慎みのある上品な装い≫と仮面を外さないことが強制された。ゴンドリエーレは1階席の出入りは自由だった。総督は劇場に行くことは厳しく禁じられた。貴族はタバッロ(ヴェネツィア語tabaro――厚手の男用マント)とバウッタ(ヴェネツィア語bauta――黒マント付き仮面)の仮面装束での入場義務があった。この事はあらゆる誤解やいかがわしい事の原因になったに違いない。

1678年サン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ劇場で2人の貴族が、互いのことは何も知らずに喧嘩を始めた。1691年にはトッリズモンド・デッラ・トッレ伯爵は守衛に知られていなかったので、サン・ルーカ劇場への入場を厳しく阻止された。1785年、N.H.ゼーンとかいう人は、サン・モイゼ劇場の桟敷にタバッロとバウッタを外して入り、告訴された、ということもあった。

時には今日我々が慣れている完全な静寂が訪れることもあった。1667年サン・モイゼ劇場でズアーネ・カルドーンとかいう人が国家査問官に告発された。その理由は≪fue veduo con altri in quantita` gitare su la scena e contro li palchi le careghe et la robba che se vende al boteghin.(仲間と舞台に色々な物を投げたり、桟敷に椅子や売店で売っているような物を投げ付けるのを見られた)≫からであった。

1680年あるフランスの旅行者が、若い貴族の習慣に驚いて書いている。桟敷席から1階席の観客に唾を吐いたり、蝋燭の燃え止しを投げたりして面白がっている、と。また他の人は桟敷席裏側の廊下は≪蝋燭の燃え止しと小便の悪臭が非常に鼻に付いたと伝えている。

17~19世紀は歌手達芸術家に支払わない倒産した興行師と、桟敷席の代金を何年も払わないと告訴された貴族、劇場経営はしたいが破産した一家の間で、裁判所での係争がひっきりなしに生じている。≪オペラは楽しみであるというより、単なる商売道具と化していた≫(1650)。

1756年裁判所は、謝礼や給料を請求しても払って貰えない原作者、歌手、演奏家、バレリーナや使用人達が激しく非難し、涙ながらに嘆きを上げる、その多さに悲鳴を上げている。」
  ――アルド・ボーヴァ『ヴェネツィア――音楽の町』(1995)より
  1. 2010/03/13(土) 00:02:45|
  2. ヴェネツィアの劇場
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サン・ルーカ(あるいはサン・サルヴァトーレ)劇場(2)

[ヴェンドラミーン家によって建てられたこの劇場は、当初ヴェンドラミーン劇場またはサン・サルヴァドール(伊語S.Salvatore)劇場と呼ばれ、18世紀後半にはサン・ルーカ劇場と称された、とする資料もありました。現在はゴルドーニ劇場。]

18世紀半ばには、劇場支配人はこの劇場を特に演劇用の劇場に専門化して、1753~62年にはカルロ・ゴルドーニの傑作喜劇のいくつかを上演しました。その中には『Il Campiello(小広場)』『I Rusteghi(田舎者達――Rusteghi(ルーステギ)=伊語Rustici)』『Le Baruffe chiozotte(キオッジャのいざこざ――chiozotto=伊語chioggiotto)』『Sior Todaro Brontolon(テオドーロ・ブロントローン氏――Todaro=伊語Teodoro)』『Una delle ultime sere di Carnovale(謝肉祭の最後の一夜)』等があります。

1760年にはバルダッサーレ・ガルッピのオペラ『シリアのハドリアヌス帝』が大成功を収めました。ガルッピと協働の多かったゴルドーニは次のように書いているそうです。「そのシンフォニーアを聴くだけで心が雀躍するのを覚える。生活の中で音楽を楽しめば、感謝と勇気に満たされる」と。

1761年には劇場は全面的に建て替えられ、現在のゴルドーニ劇場と同じ位置に玄関が変えられました。現在の劇場前の、劇場あるいは喜劇通り(Calle del Teatro o de la Comedia)はその当時は大変狭かったので、入口は劇場小広場(Corte del Teatro)に向いていたのだそうです。

1818年11月14日ガエターノ・ドニゼッティは『ブルゴーニュのアンリ』と『狂気』でヴェネツィアに初登場します。
1826年ヴェネツィアの劇場では初めて、劇場にガス灯が採用になりました。
1833年にアポッロ劇場と名称を変えます。

1834年、19世紀の偉大な女性歌手の一人ジュディッタ・パースタがヴィンチェンツォ・ヴェッリーニのオペラ『ノルマ』で記録的な大当たりを取りました(初演したノルマ役は彼女の喉には難しく、《清らかな女神よ》を1音下げてヘ長調にするよう求め、以来そのままになっているのだそうです)。

1837年2月18日ドニゼッティの『Pia de' Tolomei(ピーア・デ・トロメーイ)』(『神曲』煉獄篇第五歌の中でダンテによって歌われた彼女について、その「後註」は述べています。「シエーナの貴族トロメーイ家出身の彼女は、最初バルド・デ・トロメーイに嫁したが、夫の死後ネッロ・デ・パンノッキエスキと再婚した。新夫はアルドブランデスキ伯爵の未亡人マルゲリータと結婚するため、彼女を屠ったとも、彼女自身マレンマ城上から身を投じた、とも言われている」そうです)が初演されました。

1840年著名なバレリーナ、ファンニ・チェッリートが登場します。

1847年のジュゼッペ・ヴェルディの『アルズィーラ(ヴォルテール作『Alzire』による)』(1846年ナーポリ初演)が完全な失敗の下に幕を閉じます(彼のオペラの中で最も不評だったものと言われているようです)。

1853年劇場はフェッラーリ・ブラーヴォの手で新ゴシック様式で修復されました(1979年現在のゴルドーニ劇場として再建された時、その装飾等は正確に再現されたと言われています)。

1875年劇場名が変わり、現在の呼称となりました。音楽劇としてのオペラは数が減り、オペレッタやヴォードヴィルの上演が増えたそうです。

1902年エレオノーラ・ドゥーゼが恋人ガブリエーレ・ダンヌンツィオの『フランチェスカ・ダ・リーミニ』(1901)を演じました。
アーゾロ博物館のエレオノーラ・ドゥーゼの部屋エレオノーラ・ドゥーゼの肖像左、アーゾロ博物館のエレオノーラ・ドゥーゼの部屋。右、フランツ・フォン・レンバハ画『エレオノーラ・ドゥーゼの肖像』
1909年ファサードが付け足され、その様式が雑然として曖昧だったため、鉄道駅舎だと陰口を叩かれます。
1922年エレオノーラ・ドゥーゼが『海の夫人(La donna del mare)』(ヘンリック・イプセン作)を演じました。

1932年9月6日アルフレード・カゼッラがアンジェロ・ポリツィアーノ(1454~94)の『オルフェウス物語』を元に作曲した同名のオペラを初演しました。

1937年ダリウス・ミヨーの管絃楽曲『プロヴァンス組曲』とイーゴリ・ストラヴィーンスキーのバレエ曲『カルタ遊び』の初演が行われました。

1947年劇場は使用不能として閉鎖されましたが、1979年ヴィットーリオ・モルプルゴによって徹底した修復の後、カルロ・ゴルドーニの『旅館の女主人』で再開場を果たしました。初建設の地に現存する劇場としてはヴェネツィア最古の劇場だそうです。
ゴルドーニ像リアルト橋をサン・マルコ側に降りてくると、直ぐにサン・バルトロメーオ広場(Cp.S.Bartolomeo)に出ます。広場中央にはアントーニオ・ダル・ゾット作のカルロ・ゴルドーニの銅像があります。彼の視線を追って行くと、真っ直ぐにいくつかの通りを経て、彼の名を冠したこの劇場に辿り着きます(写真=イタリアのサイトから借用)。
  1. 2009/01/17(土) 00:01:21|
  2. ヴェネツィアの劇場
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サン・ルーカ(あるいはサン・サルヴァトーレ)劇場(1)

リアルト市場に向かって更に前進します。ロッスィーニ映画館前の橋(P.del Teatro)を渡り、サン・ルーカ教会前でキエーザ運河通り(Fdm.de la Chiesa)を左へ行くと、直ぐにグリマーニ家の建物(Pal.Grimani)に突き当ります。現在ここは控訴院になっています。

右に折れ、直ぐ左折し、再び直ぐを右に折れてヴォルト通り(Cl.del Volto)を行くと、市庁舎脇の広いカヴァッリ(Cavalli)通りに出、左折すると、もうカルボーン運河通り(Riva del Carbon)で、右前方にリアルト橋が望めます。

この運河通りで3本目の横町カルボーン小路(Rm.del Carbon)へ右折し、劇場小広場(Corte del Teatro)を通り過ぎると、劇場または喜劇通り(Calle del Teatro o de la Comedia)に出ますが、直ぐ左の角が現在の演劇の専門館ゴルドーニ劇場です。
ゴルドーニ劇場[サイトから借用] この劇場の前身は、近くの教会名からサン・サルヴァトーレ(あるいはサン・ルーカ)劇場と呼ばれ、貴族のヴェンドラミーン家によって1622年建造されました。'52年には焼失、'61年にオペラに適した舞台と観客席を備えた劇場として再建され、ダニエーレ・カストロヴィッラーリの『Pasife(パジーフェ=パーシパエーは魔女キルケーの姉妹で、牛頭人身の怪物ミーノータウロスを産んだ)』を杮落しとして選びましたが、観客が台本を燃したりして騒ぎ、上演を妨害したため不成功に終わりました。

その後、アントーニオ・チェスティの『Dori(ドーリス、大洋神オーケアノスの娘)』(1663)とジョヴァンニ・レグレンツィの『世界の分割』(1675)は大成功でした。このチェスティのオペラは、フィレンツェで1661年に初演され、評判になったもののようです[アレッツォ生まれ(1623.8.5)の彼は、洗礼名ピエートロ、フランシスコ修道士としてアントーニオ、誤ってマルカントーニオ等様々に表記されるので混乱します]。

ウィーンで上演した、大変有名な『Il pomo d'oro(金の林檎―トマト?)』(1668)を書いた彼は、初期の『Orontea(エジプトの女王オロンテーア)』(1649)、『恋するカエサル』(1651)、『克己の人アレッサンドロ(アレクサンダー大王?)』(1654)とヴェネツィアで上演し、フランチェスコ・カヴァッリと並び、ヴェネツィア・オペラの双璧と見做されているそうです。その他、『Tito(ティトゥス帝)』(1666)、『Genserico(ジェンセリーコ=ヴァンダル王ガイセリック)』(1669)等がヴェネツィアで上演されたようです。

他方フランチェスコ・カヴァッリ(1602.2.14クレーマ生)は、サン・マルコ寺院楽長クラウディオ・モンテヴェルディの弟子となり、後年'68年には彼もそこの楽長に任命されました。そこに至るまでの間、『テティスとペーレウスの結婚』(1638)を皮切りに、40曲以上のオペラを作曲したと言われ、最も有名なオペラは『Giasone(ジャゾーネ=イアーソーン)』(1649)と言われています。

ヴェネツィアでは、サン・カッスィアーノ劇場で9作、この劇場が閉鎖されるとサンタポッリナーレ劇場、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ劇場などにオペラを提供し、サン・カッスィアーノ劇場が再開場されるとそこに戻りました。それ以外にも『恋するヘラクレス』(1660)をパリで上演するなどヴェネツィア以外のためにも作曲したようです。

フェルディナンド・ビビエーナの舞台装置が大変な評判になります。

1684年には何頭かの馬を舞台に登場させるために、木の階段が舞台に設けられるという噂が流れます。

1708年、音楽家のマルチェッロ兄弟(ベネデット、アレッサンドロ、3番目のジローラモ)が借りたボックス席の支払いのことで喧嘩になり、お互いに告訴をし合い、僅かの賃料のことで裁判官の前に召喚される事態となったそうです。

1742年歌手のロザンナ・スカルフィが、オペラ『アルタセルセ(ペルシャ帝国アケメネス朝の王アルタクセルクセス)』の中で初めてにして最後のヴェネツィア・デビューを果たしました。彼女はベネデット・マルチェッロが秘密にしていた妻で、彼の死(1739.7.24ブレッシャ)まで、ヴェネツィア・デビューは禁じられていたそうです。
  1. 2009/01/10(土) 01:01:23|
  2. ヴェネツィアの劇場
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サン・ベネデット劇場

更にアルベロ小広場を通り抜け、アルベロ橋を渡って直進し、ミキエール(Michier)橋を越すと、ペーザロ(Pesaro)通りからサン・ベネデット(ヴェ語S.Beneto)広場へ出ます。

広場の前のペーザロ館は、フォルトゥーニ美術館(スペイン画家マリアノ・フォルトゥニ・イ・マルサルの息子の画家・ファッション・デザイナー、マリアノ・フォルトゥニ・イ・マドラソのMuseo)となっており、以前は素晴らしい中庭から外階段を上って2階の入口に到達しました。リアルト市場へ行く時は、この美しい中庭を覗くのが楽しみでした。現在は入口が変更され、中庭側のドアは閉ざされてしまったようです。
フォルトゥーニ美術館[フォルトゥーニ美術館パンフレット] 広場からロッスィーニ映画館裏の、劇場大通り(Salizada del Teatro)を直ぐに左折してサンタンドレーア(S.Andrea)通りを道なりに進むと、劇場橋(P.del Teatro)前に、ロッスィーニ映画館の入口が開けています。現在ヴェネツィアで稼働している映画館は、サンティ・アポーストリ教会脇を北上した所にあるジョルジョーネ映画館だけと思われ、一方この劇場近辺は人通りも稀で、今や廃墟の様相を呈しています(2007年11月17日のCampo S.Lucaもご参照のほどを)。

この劇場はかつてサン・ベネデット(ヴェネツィア語、サン・ベネート)劇場と呼ばれ、1755年有力貴族の一家グリマーニ家により建設されました(この一家は他にも豪華なサン・ジョヴァンニ・グリゾーストモ、サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ、サン・サムエーレ等の劇場も建造しています)。これまで建設された劇場の中では、舞台も最大で、設備も最上と言われ、ヨーロッパの中でも幕を持った最初の劇場だったそうですが、直ぐに経営がある団体《Societa`》に譲られてしまいます。

以前に触れた書『イタリアのモーツァルト』によれば、モーツァルト父子は1771年2月11日の朝ヴェネツィアに到着し、その日このヴェネツィアで最良のサン・ベネデット劇場に、メタスタージオ台本、ジョヴァン・バッティスタ・ボルギのオペラ『シロエ』を見に行った、とあります。

1774年12月26日には火事で焼け落ちてしまいますが、再建され、パスクァーレ・アンフォッシの『オリンピーアデ』で再開場しました。

1776年バレエ『コリオラーノ』は、当時国家査問官のスパイをしていたジャーコモ・カザノーヴァの告発で、革命的思想を刺激するものとして、上演が禁止されます。'78年にはバレリーナ、マリーア・カンチャーニが記録的な大当たりを取ります。

1786年には、土地の所有者ヴェニエール家が劇場の経営者の団体《Societa`》を排除・追放し、排除された人達はそこから離れた場所に新しく劇場の建設をすることになりました。それが現在のフェニーチェ劇場となっていきます。

18世紀末には観客達は、サン・サムエーレ劇場派とサン・ベネデット劇場派に分かれ、熱い議論を闘わしました。

1810年ジョヴァンニ・ガッロが劇場を購入し、呼称をガッロ劇場と改名します。
1813年5月22日ジョアッキーノ・ロッスィーニの『アルジェのイタリア女』の初演が大成功を収めました。
1845年バレリーナ、マリーア・タッリォーニが『シルフィード』でデビューし、大喝采を受けます。

1854年5月6日ジュゼッペ・ヴェルディの『椿姫(ラ・トラヴィアータ)』の再演が成功裏に終わりました。彼は次のような手紙を書いているそうです。「ところで、ご存じのように、今サン・ベネデット劇場で上演している『トラヴィアータ』は、昨年フェニーチェ劇場で上演したものと全く変わりないものです。いずれにしても、音楽も歌詞も何一つ変更も追加も削除もありませんし、音楽的構想も変えていません。フェニーチェ劇場のために用意した全てが、ここサン・ベネデット劇場にそのまま全てあります。あの時は失敗でしたが、今度は大成功です」。

しかし劇場側の対応には変更があったようで、フェニーチェ劇場の時の小さな宣伝ポスターに比べて、サン・ベネデットの時の宣伝ポスターは格段に大きな物だったそうです。

1868年ロッスィーニの死亡ニュースを受けて、劇場経営者は彼のオペラで大成功を与えてくれた作曲家の名前を劇場名にすることにしました。

20世紀には映画館となりましたが、映画衰退とともに映画館でもなくなり、現在は廃墟寸前のようです。有効利用の道はないのでしょうか。次回は更にリアルト方向へ、サン・ルーカ劇場です。

追記=2012.11.17日のジョゼフ・ターナーで、ロッスィーニ映画館の再利用について触れました。
  1. 2009/01/03(土) 00:01:15|
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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