イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: ペーザロ館(1)

ドナ館を更に右へ進むと、レ・ド・トッレ運河を挟んでペーザロ館があります。バルダッサッレ・ロンゲーナの傑作建築物だそうです。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように紹介しています。
カ・ペーザロ「ヴェネツィア・バロック期の最も壮大な建築物の一つである。そこは以前、サン・マルコ財務官(procuratore)レオナルド・モチェニーゴが3軒の建物を建てていた場所であり、当時の大建築家バルダッサッレ・ロンゲーナの案に委ねられた。  

建築は1652年に始まったが、ロンゲーナが1682年に死去したため、3階の着工のところで中断され、1710年アントーニオ・ガースパリの手で完成した。彼は運河に面した大変質素なファサードの提案もしている。

館はライオンの頭部で細かく飾られた腰羽目装飾とダイヤモンド先端の模様で、高く持ち上がった基礎部で威風堂々としている。その中央部には、1階の天井は生地仕上げの柱で支えられ、華麗なアンドローネ(玄関と階段の間の大広間)に通じる大門が二つ開けている。建物ぐるりに連続して続くバルコニーで目を引く2、3階は、窓のアーチから大きな開口部を持つ双柱の列の中に、マルチャーナ図書館の案を取り込んでいると思われる。

深い開口部と夥しい彫刻群は、基礎部の装飾案と相俟って、バロックに典型的な際立った明暗効果を上げている。オリジナルな装飾としてニコロ・バンビーニの『ペーザロ家の栄光』(1682)のキャンバス画が2階に残されている。

ペーザロ家は富裕で勢力ある一家であり、最初の出身地と同名のパルミエーリと呼称されており、1297年の大評議会の《セッラータ》でヴェネツィア貴族とされた程古くからヴェネツィアに移り住んでいた。

“海の”総大将、外交官、文学者そして総督ジョヴァンニ(1658~59)を輩出した。芸術や稀覯本の収集に情熱を傾けた元老院議員フランチェスコ(1740~99)は、カ(館)・ペーザロで生涯を過ごした。彼は共和国滅亡前、ナポレオンに談判しようとしたが、多分柔軟性と能力の使い分けを間違えた。それが為、古きヴェネツィア人は名を成しているのである。

その後、館はグラデニーゴの手に渡り、暫時アルメニア神父達に貸与された。結局は、総督夫人フェリーチタ・ベヴィラックァ・マーザの所有となり、1889年芸術使用を条件にコムーネ(市)に贈られた。
Elsa e Wanda Eleodori『大運河』(1993)こうして彼女の若き芸術家を支援するという名目で、建物が立ち上がっている。館内は今や、近現代美術館であり、ナルディ公に由来する東洋美術の素晴らしい収集がある。」
  1. 2016/10/06(木) 00:03:42|
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ヴェネツィアの建物: コッレッジョ館とドナ館

コルネール・デッラ・レジーナ館から更に右へ進むと、隣はコッレッジョ館です。E.&W. エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のような事を教えてくれます。
Elsa e Wanda Eleodori『大運河』(1993)「18世紀の倹しい建物で、1階は浮き出し装飾のある切り石積みであり、簡素な四角い窓は中央部が楣(まぐさ)式の三連窓で、三連窓の中央は三角形の小さな破風を被っている。

ベルガモ出身の商人であるコッレッジョ家は、カンディア(クレタ島のイラクリオン港)での熾烈を極めた、恐ろしい戦いの時、10万ドゥカートの寄附で貴族の位階を得、1700年この建物を手に入れ、再建した。1738年6月25日、最後の相続人ザンドナが亡くなり、建物は一族のある分家に遺贈された。」
カテリーナ・コルネールの生まれた邸宅「コルネール・デッラ・レジーナ館」更に右隣はドナ・サンジャントッフェッティ館です。『大運河』(1993)の説明を聞きます。
「古い構造物の上に築かれた18世紀の小さくて、質朴な建物である。両脇の、お互い隣り合う一面窓に比べて、中央の背丈の少し低い二連窓が、ファサードの発想の調和を狂わせてしまっている。

ヴィチェンツァから到来したサンジャントッフェッティ家は本土側の貴族である。そして“お金”で貴族に参入した。一家はヴェネツィアにカンディア戦争維持の費用としてかなりの額を拠出した。」

永井三明著『ヴェネツィアの歴史――共和国の残照』(刀水書房、2004年5月26日)は、ヴェネツィア貴族のこうした増加について次のように述べています。
ヴェネツィアの歴史「貴族人口の減少によってひきおこされた人材払底の打開策が政府によって講じられた。一六三〇年代、ヴェネツィアの貴族人口減少を埋めるために、本土の貴族(封建領主)がヴェネツィアに移住することが認められ、一六四五年にはクレタ戦争の戦費の捻出のため、それぞれ六万ドゥカーティで五家を貴族に加えることが提案された。

これはいったん大議会において否決されたが(賛成三六六、白票一四〇、反対五二八)、皮肉にも、これ以後大議会はつづく七〇年ほどの間に一二七家を貴族として受け入れている。しかもその条件は六万ドゥカーティではなく一〇万ドゥカーティとなっていた。この額は新貴族の年収を上まわる額で旧来からの貴族の最も裕福な者の年収(四万ドゥカーティ)の倍以上である。

クレタ戦争が終る1669年に新加入の許可が打ち切られるまで約八〇家が新貴族に加えられた。そして約四〇家が1684年から1704年にいたる間に貴族に加わったが、それはトルコに対するモレア戦争の戦費を補うためだった。」
このあとの文章で、色々の一家が貴族となった例、家族名が多数列挙されています。
  1. 2016/09/29(木) 00:04:27|
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コルネール・デッラ・レジーナ館(2)

(続き)
「その交換として、カテリーナにアーゾロの領地が与えられた。洗練され、エレガントな小さな宮廷は芸術家や文学者らで活気付き、20年アーゾロを統治した。サロンと上流階級のパーティの女王は、イザベッラ・デーステやベアトリーチェ・スフォルツァの友人であった。カテリ-ナ・コルネールは作家やロマン主義的詩人を鼓舞した。
ティツィアーノ・ヴィチェッリオ『カテリーナ・コルネールの肖像』アーゾロ案内 ベンボ像アーゾロの談論長い間、アーゾロ宮廷にピエートロ・ベンボが通った。彼は、女王と女王の宮廷を対話集『アーゾロの談論』の中で神話化した。[『アーゾロの談論(Gli Asolo di Messer Pietro Bembo)』(仲谷満壽美訳、ありな書房、2013年3月15日)]

カテリーナはしばしばヴェネツィアに戻り、大運河に建つ建物で豪華な歓迎会に招かれた。そこでは数々の結婚式が祝われた。その中には従妹のクェリーニ・グラデニーゴと、弟にパンドルフォがあり、リーミニ領の奪われた権力の相続人カルロ・マラテスタとの結婚があった。

女王は1510年、大運河の彼女の館で亡くなった。そして館は兄弟ジョルジョの手に渡った。

1700年代コルネール兄弟は、流行りのスタイルで自分達の住処を作り直すことに決めた。その案はドメーニコ・ロッシに委託され、建築は1724~28年続いた。内部もその時代の趣味で装飾され、前からあったフレスコ画は外され、代わりにジャンバッティスタ・ティエーポロにも任されたに違いない。

館は1800年までコルネール家の手にあった。最後の子孫カテリーノはその建物を教皇庁に譲ったが、ピウス(Pio)7世はアントナンジェロ(アントンアンジェロ)とマルカントーニオ・カヴァーニスの二人の司祭に贈り、二人は裕福でない階層の若者教育に邁進する信心会を設立した。

ヴェネツィア市は彼らからそれを贈られ、そこを公営質屋とした。1971年にはこの機関はメーストレに移され、館の所有はヴェネツィア信用金庫に移った。

実際にはヴェネツィア・ビエンナーレの管理下にあり、修復の期間を経て、ここに現代芸術歴史資料館が設置された。資料館には資料豊富な図書室と定期刊行物資料室以外に写真資料室もあり、そこには写真の複製品が保存され、1895年[第1回ビエンナーレの年]以来、全ての作品はビエンナーレで展示紹介されてきた。 」
カテリーナ・コルネールの生まれた邸宅「コルネール・デッラ・レジーナ館」カテリーナ・コルナーロについては、2013.03.23~2013.04.06日にカテリーナ・コルナーロ(1、2、3)で触れました。
  1. 2016/08/18(木) 00:05:00|
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ヴェネツィアの建物: コルネール・デッラ・レジーナ館(1)

ブラガディーン・ファヴレット館を右へ進むと、右隣にコルネール・デッラ・レジーナ館があります。R. ルッソ著『ヴェネツィアの建物』は次のような話を書いています。
Corner_regina[サイトから借用] 「1454年、この館で有名なキプロスの女王カテリーナ・コルナーロ(ヴェ語Corner)が誕生した。リュジニャン家のジャック2世(GiacomoⅡ di Lusignano、フランス系王家)の妃であった。ジャック2世は王ジャン2世(GiovanniⅡ)の庶出の息子で、正当な相続人で、サヴォイア家のルイージの妻シャルロット(Carlotta)を蔑ろにして、キプロスの王冠を横取りしていた。権力を奪い返されることとトルコの攻撃を恐れていたので、セレニッスィマとの友好関係を強固にしたいと、ヴェネツィアで妻を探すことにした。

マルコ・コルネールには13歳の娘がいた。ルネサンス期の法規では、結婚可能年齢だった。直ぐに少女カテリーナの肖像画が送られた。言い伝えは言っている、王は肖像画を見るや、彼女にぞっこんとなったと。

こうして1468年7月31日、ヴェネツィアで代理の結婚式が盛大に祝われた。カテリーナは、彼女以前にどんな女にも与えられたことのない名誉である、セレニッスィマの娘として養子縁組され、国家は金貨100万ドゥカートの持参金作りに参加した。

4年後、王妃は壮麗な船列を従え、王国に向かった。ファマグスタ(Famagosta)大聖堂で、キプロス、エルサレム、アルメニアの王妃として戴冠した。しかし結婚は長続きしなかった。ザーコ王(リュジニャン[Lusignano]はフランス系なので、ジャック(Jacques)としてのザーコ[Zaco])は、1473年7月亡くなり、全てはカテリーナに遺され、彼女は息子を妊娠中だった。死の床の王は、リュジニャンの全遺産を彼女に託し、王国を統治するのは摂政団に助けられた彼女だった。

しかしその少し後、カテリーナはザーコ王の庶出の息子達に全権を譲るように要求する謀反人の手に落ちた。ヴェネツィアは時宜よく行動を起こしており、セレニッスィマの船団がキプロスに上陸し、謀反人達は逃亡した。

小さなジャック3世はその年、熱病で亡くなった。施政官と2人のヴェネツィア貴族に付き添われ、女王は今や、完全に象徴的な存在であり、1487年元老院はヴェネツィア領にキプロスを併合することを決め、カテリーナを退位させた。」 (2へ続く)
  1. 2016/08/11(木) 00:01:45|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの建物: ブラガディーン・ファヴレット館他(2)

(続き)
「前記(1)で見たように、この一家(イパート/ブラガディーン)は他の家族と同じように、他のヨーロッパの一家が誇りに足ると思い得る、それ以上の古さを記憶に留めている。この一家から、管理の専門家、外交官、特筆すべき司令官が輩出、中でも1400年代キプロス島(Cipro)を征服したアンドレーア、とりわけ有名なのは不運だったマルカントーニオである。
Elsa e Wanda Eleodori『大運河』(1993)彼は重要な任務の数々を引き受けた後、50歳足らずで、町の最も悲劇的な瞬間に、ファマグスタ(Famagosta)の為政者だった。トルコ軍はニコシアを攻め落とし、2万の住民を虐殺した後、町を攻囲した。1年に渡る激しい攻撃と砲撃で、トルコ軍は10万以上の死者、守るヴェネツィア人は7千の命を失い、700の人々が衰弱し、飢えに苦しんでいたが、死守は責務だった。

この時点でララ・ムスタファは名誉ある降伏を提案した。女・子供達の要望に応えて(さもないと、ニコシアの人々のように皆殺しに遭うかも知れなかった)、総大将マルカントーニオは提案を受け入れた。しかしその前に、彼は親しい人達への手紙や総督に最後の報告を書いた。それは夜の内に攻囲軍の向こうへ、そしてヴェネツィアへ、早船で届けることが出来た。そして10日後、運命の1571年7月31日の朝、彼は部下と共に捕らえられた。

しかしトルコ軍は、イスラム教徒兵士の夥しい損失から凶悪になり、約束を反故にした。キリスト教徒全員惨殺され、当然ヴェネツィア指揮官も同様である。ムスタファは個人的にマルカントーニオの耳を削いだ。それから15日間、過酷で残酷な体刑で責め続け、ヴェネツィア人に慈悲を乞わせ、共和国の軍事機密の吐露を要求した。

このまだ息のある英雄が譲る事はないと分かった時、ムスタファは生きたまま彼の皮を剥がさせた。残酷な責め苦は、ゆっくりと全身の皮膚全てが剥ぎ取られるまで続いた。マルカントーニオは呻き声も上げず、死刑執行人達の顔を凝視しながら、命が尽き、事切れた。

復讐の貫徹のために、皮は鞣され、中に麦藁を詰めて膨らまし、トルコ軍の旗艦の旗竿に吊り下げられてコンスタンティノープルに持って行かれた。数年後、ヴェネツィアの〝指揮艦船″がそれを盗み、ヴェネツィアに持ち帰った。今ではサンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会のマルカントーニオ・ブラガディーンの埋葬建造物を飾る棺に納められている。

この皮膚をくすね取ってきたジローラモ・ポリドーロが1587年2月13日元老院に書いた長い手紙の文章を数行引用する価値はある、即ち司令官の恐ろしい最期から7年後、《私、ヴェローナ出身のヒエロニムス・ポリドーロはセレニッスィマの仕事で奴隷となり……そして奴隷時代の私の献身は忘れられないが、どんな危険な目に遭うこともなく、あの幸運の殉教者だった。当時コンスタンティノープルの外交官(Bailo)だった高名なるティエーポロの願いで、あのブラガディーンの皮膚を造船所の箱から取り出し、布に包み隠し、著名なる Bailo の元へ無傷で無事に届けた。価値ある、勇気あるこの行動は確実に死を意味するが、あなた方の総督に限りない献身の思いを捧げるものです。

聞くも悍ましい事がわが身に起こったが……この正当なる盗みの事をトルコのお偉方に許しを乞うものである、私は幾度となくその事で苦しんだ……誇り高い苦悩、それが故に何日も何日も、腹や背中を殴打され、踝から上は縄で苦しめられた……私の身体の自然は打ちのめされ、私は去勢男になってしまった。

こうした苦しみの後、全てが壊れ、破壊され、乞食の身に堕ちた……私は最終的にあなた方の総督の足下にひれ伏します。閣下を希求致します……》。ポリドーロは月に5ドゥカートの年金を得た。」
  1. 2016/06/23(木) 00:04:08|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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