イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

サン・スターエ教会

コッチーナ・フォスカリーニ館を右に進むと、サン・スターエ教会となります。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のような事を教えてくれます。
サン・スターエ「古い建築で、10世紀に遡り、ジュストとアドルドのトローン一家の手によって、ファサードが大運河に向くように最初の向きを90度変更するというやり方で、ジョヴァンニ・グラッスィによって、1600年代後半に完全な形で再建された。

最後の所は、総督アルヴィーゼ・モチェニーゴの遺産のお蔭で、建築家ドメーニコ・ロッスィによって1709~1710年に仕上げられた。

教会はバロック様式の建物である。両脇に礼拝堂のある一身廊の形式で、パッラーディオの影響が色濃く感じられる建造物である。コンポジット式の半柱で三分されたファサードは、破風と短い建物袖部を支え、当時の多くの彫刻家の装飾物で飾られている。

入口の大門は、特にファンタスティックに区切られたティンパヌムが浮き立って、彫刻による装飾的動きでその成果が際立つ。内部は興味深い画家達の作品に満ちて、ピアッツェッタやティエーポロの作品で素晴らしい。

大運河に面して教会左隣に、1700年代の素晴らしい建物がある。ティラオーロ・エ・バティオーロ同信会の建物である。

1636年教会の前では、激しい暴風雨が吹き荒れていたが、アンドレーア・ドナと妻のチェチーリア・ポラーニがペーザロ館での仮面パーティー後、帰宅する時、ゴンドラが転覆して、二人の夫婦とゴンドリエーレ達が溺れ死んだ、ということがあった。」

ドナ家は、フランチェスコ(1545~1553)、レオナルド(1606~1612)、ニコロ(1618)と総督を輩出した家系です。

尚、サン・スターエ教会に寄り添うように左に建つティラオーロ(Tiraoro)・エ・バティオーロ(Batioro)小同信会館は、1420年創立で、最初サンティ・フィリッポ・エ・ジャーコモ教会にありましたが、後サン・リーオ教会に移り、更に1720年サン・スターエ教会隣に移動しました。

後期バロック様式のこの建物は、建築家ジャーコモ・ガースパリに帰属しますが、彼はサン・スターエ教会ファサードのコンペでは、参加しただけに終わりました。tiraoro は織物用の金糸を造る職人、batioro は工芸品用の金箔を造る職人の意のヴェネツィア語。
  1. 2017/01/19(木) 00:04:26|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの建物: コッチーナ・フォスカリーニ(Coccina Foscarini)館(2)

(続き)
「密告者の友人達は更なる名誉棄損の告発を企んでいた。国家機密の漏洩という中傷である。そしてアントーニオは彼に委ねられていた書類の流出という、その疑惑を証明をすることが出来ず、国家の裏切り者として死を宣告された。
Elsa e Wanda Eleodori『大運河』(1993)その機会に縺れた複雑な話として、イギリスの元帥、ウォードゥール伯トーマス・ディ・アランデルの妻、大夫人アンナ・シュルーズベリの名前が囁かれた。モチェニーゴ館のそのサロンには外交官やヴェネツィアの芸術家、外国人が通っていた。

死の宣告が発せられたその日、貴婦人はパードヴァのヴィッラに向かう途中だった。その時イギリス使節の伝令ウォットンが、事件のニュースと国境の向こうに避難するようにという助言を伝えに来た。夫人は逆に、馬を回してヴェネツィアに戻るように御者に命じた。ヴェネツィアで尋ね回り、総督から公判の模様を聞いたが、尋問官の言には言われるがままになるしかなかった。

そして彼の置かれた状態が明確になり、彼女はフォスカリーニは一人の友達であり、スパイではないと証言した。セレニッスィマはその証言を有効と認め、ロンドンのヴェネツィア大使に、政庁はアランデル夫人は事件と全く無関係であると認めると王宮に報告するよう命じた。

しかしながら残念な事に、資料は発見されず、フォスカリーニにはその判決は執行されることが分かった。貴族としての特権を使いたいと思い、公衆の面前でなく、牢獄で絞首刑になることを求めた。しかし習慣に従い、体はサン・マルコ小広場の聖マルコと聖テオドールス(or 聖 トーダロ)の円柱の間に建てられた絞首台に、足から吊るされた。

こうした事件があってそんな年月を経ないで、アントーニオがそんな失敗を冒す筈はないという人々の噂話があり、尋問官が事件を再度見直した。再度検証し、フォスカリーニの3人の部下の逮捕を命じ、彼らが主人に対する証言を捏造していたという確証を得た。その時失われていた資料が彼らの一人の家で見付かった。三人は処刑され、フォスカリーニの思い出だけが甦った。

大評議会は公に誤りだったと宣言した。当時としては特別な事例であり、フォスカリーニの二人の子孫に名誉回復の通達のオリジナルのコピーを渡した。そしてその通達が万遍なく行き渡るようにし、ヨーロッパの全ての宮廷に送付した。

フォスカリーニの遺体は名誉を込めて厳かにサンタ・マリーア・グロリオーザ・デイ・フラーリ教会に移葬された。そして事件を記憶に留めるべく、サン・スターエ教会の一家の葬送記念物の上の壁面に張り込められた。それは国家反逆により貴族位を剥奪されたという文言の記念碑である。その時以来、一家の声望と権威は揺るぐことはなかった。

マルコ(1762~1763)はヴェネツィアの最後から4番目(117代)総督である。彼も長い間ヨーロッパ各地の宮廷の大使であり、著名で優れた文学者であった。総督に選ばれ1年後に亡くなったが、これほど短期ではありながら、政治力を大いに発揮した。

フォスカリーニ家の一人は、著名な年代記作家のマリーン・サヌードの孫と結婚した。1525年彼女は耳飾りのモードを始めた最初の女性だった。その事が年代記作家には気に入らず、その事に関して一文を残している。結婚式のパーティに参加した女性達の間で、《フィリッポの娘……彼女はムーア人の装束をしている。耳に穴を開けさせて、細い金の輪を付け、帯に大きな真珠を着け……私は好きでない》。彼の嫌悪にも拘わらず、耳輪の使用は流行し、定着した。」 
  ――E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)より 

アントーニオ・フォスカリーニについては、フォスカリーニで、その人生について触れました。
  1. 2017/01/12(木) 00:04:00|
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コッチーナ・フォスカリーニ(Coccina Foscarini)館(1)

ペーザロ館の右隣はコッチーナ・フォスカリーニ館です。E.W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のような事を書いています。
コッチーナ・フォスカリーニ館「リオーダ運河との合流点に位置するこの館は、16世紀半ば頃まで遡ることが出来、左に増築部が追加されて、非対称のファサードが大運河に開けているが、玄関口大門とその両脇に一面窓を置いた、上にあるセルリアーナ式窓で設計された中央部が濃密な開口部となる、際立った仕上がりとなっている。

コリント式の長い軒持送りは窓前部の窓台を支え、更に2階の窓やその他の四角形の窓も突き出したアーチのキアーヴェが支えている。

コッチーナ家に建造されたが、その後他の一家の手に渡り、結局フィレンツェ出身のトマーゾ・ジュンタの手に移り、彼はニコロとレニエール・フォスカリーニ兄弟に二人の娘を嫁がせ、この館を含めた全財産をこの一家に残した。素晴らしい中庭の壁面はジャン・バッティスタ・ゼロッティによって描かれた。1760年年代記作家が言っている、窓に座ってリュートを弾く美しい姿も見られる、と。

色大理石を豊富に使用した、洗練された建築の価値とその使用量の大きな事から、館は幾度も、その中にはデンマーク国王フレゼリク・クリスチャン(Federico Cristiano)4世もあったが、著名な共和国への訪問者を招いた。その名誉で、1709年サン・マルコ財務官セバスティアーノ・フォスカリーニはその豪華さで歴史に残る、特別の舞踏会を催した。この世紀においても、一家はいかなる声望と威信を得たことかを証明している。1755年、館はジョヴァネッリによって貸し出された。

年代記作者はフォスカリーニ家は867年、ヴェネツィアに定住したと語っている。レヴァントから巨大な利益を得た。その一家のメンバーには有能な政治家、戦士、文学者を数える。その有名な図書館は、19世紀一家の消滅と共に消えてしまった。

輝かしい外交官アントーニオ(1570~1622)の運命は、悲しい事ではあったが、有名な事件であった。彼は長い間、フランスとイギリスの外交官であった。その地で、高い能力故、この二つの国の貴族としてのシンボルを自分の紋章に付け加えることを許されていた。しかしそれは政治的緊張感が高まった期間のことであった。

スペインは、殆どが外国に隷従するイタリアにあって、用心深く、慎重で、誇り高く独立を謳歌し、あらゆる手段で自由を守るこの小さな共和国に目を付けていた。1618年共和国は、偶然にもスペインのオスーナ公によって仕組まれた陰謀をやっと押さえこんだところで、総督宮殿で関係者を大評議会の名によって絞首刑にさせるつもりだった。そのためフォスカリーニの一人の部下が、ある知られた館での外国人の会合に主人がこっそり赴いたと告発した時、勿論のこと彼の逮捕が命じられた。

しかし厳しく素早い尋問の後、彼は無実を証明された。フォスカリーニは出獄し、告発者は国外追放になった。しかし事件はそれで終わった訳ではなかった。……」 (続く) 
  1. 2017/01/05(木) 00:04:45|
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ヴェネツィアの喫茶店: メネガッツォ(Menegazzo)

G. Nissati著『ヴェネツィア歴史奇聞』(Filippi Editore Venezia、1897)から以前にも火事や氷結、飢饉等の面白話を紹介しましたが、今回は喫茶店話です。以前2009.10.10日のゴルドーニ(3)でも紹介した、カッフェ・メネガッツォについてです。
『ヴェネツィア奇聞』「かなり太った男で、メーニコとかいう名の男に経営されていたので、こんな風に呼ばれていたカッフェ。そしてバレッテーリ橋に向かって右側、メルチェリーア・ディ・サン・ジュリアーノ(サン・ズリアーン教会の事)通りの始まる場所に開店しており、ピオヴァーン小広場、現在のサン・ジュリアーノ(サン・ズリアーン)小広場に向かって裏の出入り口があった。

そこには何人かの文学者達、元老院議員ダニエーレ・ファルセッティ、辛辣なバレッティ、ビアージョ・スキアーヴォ・ダ・エステ司祭、レオナルド・マルチェッロット司祭らには利用し甲斐のある場所だった。しかしここの大評判は、その喫茶店にグラネッレスキ・アカデミーが置かれたからであった。次に記すようなことがあった。

1747年サン・ドメーニコ・ディ・カステッロ修道院で、ダニエーレ・ファルセッティとその友人達は、かなり頭のおかしい司祭ジュゼッペ・サッケッラーリの語る聖ヴィンチェンツォ・フェッレーリについての馬鹿馬鹿しい説教を聞き、この人物の持つ“知識”と冗談半分に契約を結びたいと考え、《新しい文学アカデミーを設立したいと思っているのだが、もしご希望ならば、我々のいつもの溜まり場のカッフェ・メネガッツォまでご足労願えないか》と彼に伝えた。

司祭はそこに赴き、喜び勇んでもう一つの馬鹿な話を語った。そしてアカデミーが設立されると、それは片脚を上げると、2ヶの睾丸か小さな2個の玉の梟が看板に描かれているため、グラネッレスキ(granelleschi)と通称された。そこで早速サッケッラーリは“アルチグラネッローネ(Arcigranellone)”の肩書でそのアカデミーの会長に選出された。冗談半分で生まれたこのアカデミーは、ガースパレ・ゴッズィ等の作品を発表したり、強化発展活動に素早く動いた。そして特にイタリア語を破壊しようとするものに立ちはだかり、イタリア語を守り続けた。1761年にはアカデミーは終わった。

カッフェ・メネガッツォの他の評判には、バレッティと司祭ビアージョ・スキアーヴォ・ダ・エステ間の文学的口論等の話に満ち溢れている。数年前、バレッティはあるかなり平凡な修道女に一篇のソネットを書いた。その詩がスキアーヴォの手に落ち、彼はそれを下手な、それも少々無礼なソネット一篇を添付して、無署名の手紙で送付した。

バレッティには色々の状況証拠からその著者が誰か分かり、メネガッツォでスキアーヴォを見付けると、居合わせた人々の笑い者に貶めて、喫茶店から追い払った。

メネガッツォ喫茶店は、トロヴァトーレの看板でこの時代に再開したが、その寿命は短かった。1860年9月7日~8日の夜、火事が発生し、近くの商人は恐怖に駆られ、商品を近くのサン・ジュリアーノ教会(S. Zurianのこと)に避難させたが、教会は何日も聖務を行うことが出来なかった。」

喫茶店メネガッツォについては2009.10.10日のゴルドーニでも触れました。またイタリアのサイト“Altra Venezia”ではカッフェ・メネガッツォについて次のような事を書いています。
地図-1地図下部に④のSan Zurian教会と教会前広場。Merceria通りを通って、リアルト橋方面に。
地図-2「メルチェリーア通りの始まるサン・ズリアーン教会傍の角の建物には、かつてカッフェ・メネガッツォがあった。その建物は持ち主のメーニコがずんぐりと肥満した体躯でこう呼ばれたが、愛想が良く、客対応のいい人柄だった。

この人々の溜まり場はヴェネツィア在住の有名人: ダニエーレ・ファルセッティ、カルロ・ゴルドーニ、ジャーコモ・カザノーヴァ、キアーリ師等が通ったので、特に有名だった。この喫茶店の一室でグラネッレスキ・アカデミーが誕生した。アカデミーの起源である。

ダニエーレ・ファルセッティと友人達は、サン・ドメーニコ修道院で聖ヴィンチェンツォ・フェッレーリについて馬鹿げた説教を聞いた。それは彼らがあまり利口でも知的でもないと思っているジュゼッペ・サッケラーリ司祭が語ったものだった。友人達はふざけて、彼らが設立しようとしているアカデミーに司祭を参加してくれるよう招き、彼にArcigranellone(極大玉玉ちゃん)の肩書で、最高代表者に就任してくれるよう提案した。

可哀想な司祭について、ファルセッティと友人達は冗談で、問題のアカデミーを設立することを決めていた。それはサッケッラーリの偽りの肩書を記憶に留めるべく、グラネッレスキという言い方だったのだった。その結果、看板としても片脚を上げ、玉玉を持ち上げている梟が選ばれた。

アカデミーにはカルロとガースパロのゴッズィ兄弟も参加した。モルメンティは語っている、《アッカデーミアは冗談の下に芸術や思考を損なう美辞麗句の誇張を修正し、増大する言語の不純化に対抗する高貴な意向を持っていたが、古いトスカーナの作家の気障な真似事ではあるかも知れないが、それを達成するには余りにも経立ち過ぎているかも知れない》と。

メネガッツォの店は1800年代まで続いたが、文学的カッフェの役割は今や終わった。1861年7月21日のチコーニャの日記が我々に思い出させるように、結局名前も“トラヴァトーレ”と変わった。」

2012.05.26日のブログダンドロ・ファルセッティ館で、アカデミーについて触れています。
  1. 2016/10/20(木) 00:03:08|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの建物: ペーザロ館(2)

一方、R.ルッソ著『ヴェネツィアの館』(1998)は、カ・ペーザロについて次のような事を記しています。
ヴェネツィアの館「ヴェネツィア・バロックの傑作であるこの館は、今日近代美術館と東洋美術館が入館しており、東洋館の最初の中核はブルボン家のバルディ公エンリーコがアジア旅行中収集したコレクションで成り立っていた。

建築物は1558~1628年にペーザロが獲得した、隣接した中世の三つの館を統合した物で、1628年建築が始まった。設計はジョヴァンニとフランチェスコ・ペーザロがバルダッサッレ・ロンゲーナに依頼したが、彼は自分の設計案の完成を見ることはなかった。建築は1710年まで掛かり、完成時、建築家も発注者も数年前に亡くなっていた。

ペーザロ家はマルケ州の姓名と同名の町から13世紀頃、ヴェネツィアにやって来た。その地ではパルミエーリの姓で有名だった。ヴェネツィアではペーザロ・デル・カッロとして知られた。カッロ(carro)はブレンタ川からフジーナ近くのラグーナ(潟)までの彼ら所有の水運用船の意である。

一家の最も著名な人物の一人はヤーコポ・ペーザロで、1519年フラーリ教会に一家の大祭壇画を描いてくれるようにティツィアーノに依頼したことである。ヤーコポはキプロス島のパフォス(Paffo/Pafo a Cipro)の司教だったが、次いで教皇代理使節と教皇庁軍の将軍、更には対トルコとの戦に関わるヴェネツィア軍の総大将に任命された。

ジョヴァンニ・ペーザロもまた大運河の館の注文主であり、1643年のヴェネツィア軍の将軍だった(しかしこの時は、教皇庁軍に対抗するもの)。その時、個人の家からの略奪、絵画や芸術品の盗みを奨励したと言われている。彼を裁判に掛けるのが相当だとする声が高かった。

1658年、総督に選出された。コンクラーヴェの時その選出が決まり、ヴェネツィアでは一つの戯れ唄が町中で歌われた。《Viva el Pesaro dal caro/ Che xe sta in preson per laro/ E per ultima pazzia/ G'ha sposa' dona Maria.(ペーザロ・ダル・カーロさんよ、万歳だ/ あんたは盗っ人で獄門入りだった/ 最後の気違い沙汰は/ マリーアという女を嫁っ子にしたことだ)》

事実人々は、陰口を叩いていた。ルチーア・バルバリーゴの鰥夫(やもお)となり、一家の家政婦マリーア・サンタソフィーアとかいう女とお休みになっていた、とか。

しかしながらジョヴァンニの人生の浮沈は、彼の兄弟の荒々しく、流血を好む乱暴者のレオナルドに比べれば、左程驚くほどの事ではない。1601年2月28日、ミノット館での結婚披露宴で高級娼婦のルクレーツィア・バッリョーニの知られた恋人だったポーロ・リオーン閣下を殺害した。事件一ヶ月後、十人委員会はレオナルドの貴族身分と財産を没収し、永久追放に処した。15年間流罪にあり、1616年、100人の兵士を6ヶ月間召集し、武装させ、その維持費用を出すことを条件に帰国が許された。

一家の子孫の一人、フランチェスコ・ペーザロは、ナポレオンが使嗾したフランスとの協定を拒絶した人物として、歴史に名が残った。フランス側からヴェネツィアとの戦争を宣言し、結果共和国の滅亡に繋がった。

サン・スタエの分家の最後の一員であったピエートロはロンドンに移住し(一家のコレクションであった200点以上の絵画を売り払った)、1830年の彼の死後、カ・ペーザロは最初グラデニーゴの手に渡り、次いでヴェローナのベヴィラックァ公に、最終的には将軍ラ・マーザ公へ渡った。彼の妻は、ヴェネツィアの若き芸術家の展覧会を企画するために、ヴェネツィア市に財産を譲った。」
  1. 2016/10/13(木) 00:04:14|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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