イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――グスタフ・ヘルリンク=グルディンスキ

「グスタフ・ヘルリンク=グルディンスキ(Gustaw Herling-Grudzin’ski、1919.05.20キェルツェ~2000.07.04ナーポリ)は、ポーランド生まれの作家。1930年代末の学生時代、鋭い文芸評論でデビューした。戦争中、ソ連で投獄され、2年間 Kargopol の強制労働場で生き延びた。投獄体験から『また別の世界(Inny Ewiat、1951)』が生まれた。《ソ連のラーゲリについて詳細に書かれた、最も衝撃的本》とBernal Rossel が結論付けた。
『Venezia』ベネデット・クローチェの娘と結婚し、1955年からナーポリで生活した。彼の本は長い間、ポーランドでは禁書だったが、ヨーロッパの主要な言語に訳され、成功を収めた。

《ラ・スタンパ》紙や《イル・マッティーノ》紙と協力した。イタリア語で出版されたものは『Pale d'Altare』(1967)、『Due racconti』(1990)、『Dario scritto di notte』(1991)、『Gli spettri della rivoluzione e altri saggi』(1994)、『L'isola 』(1994)、『Un mondo a parte』(1994)、『Controluce』(1995)、『Le perle di Vermeer』(1995) 」と、Zeppelin, citta' raccontate da scrittori "Venezia"(I libri di diario)は書いています。

ところで本文は
「恍惚境を表現しようとして、平凡に言葉を繰り返してしまうという安直な手法を避けるのは難しいことだ。しかし同じような事が、愛の告白や嘆願でも起きてしまう。平凡である事を自動的にキャンセルしてしまうある種の装置が存在するのである。注意をそこから逸らしてしまう。何故なら、言い古されて手垢の付いた言葉が、新しい光を帯びて輝き始め、その言葉自体が現行の言葉の意味を凌駕して行き渡る。

ヴェネツィアに対する私の愛の始まりは、こうであった。かつてのあのある町以上に、日々魅了されていった。その街は夢の形から作られたと詩人は言う。私は特別な絆を覚え称賛した。睡眠と徹夜の間に、調和を設定したいのである。目覚めの瞬間、消えゆく夢が更に持続し、朝の光で消滅する。これが《私の》ヴェネツィアが創られたその礎である。

更に現実的なものになり得るか。はたまた今や非現実なものと化したのか? 運河に架かる非日常的と言える橋の上で、暗い水の中に一つの鏡を見付けたいものだとばかり、暫く立ち止まっていた。その鏡とは過ぎ去った事を確実に内在しているはずである。小路や広場では足音(時を反映する流れ)を聞き、その瞬間、遠ざかるのか、近付くのか、判別しようとしていた。

私は渡し舟(バポレット)の助けは借りない。何処にでも歩いて行く。私にとってゴンドラとは幻影である。かつてゴンドラの事はよく知っていた。譬え長年の間ここに住んだか、あるいはしばしば足を運んだとしても、他の町でそうであったようにヴェネツィアでも中心に辿り着きたかったのだ。

何故なのか? ヴェネツィアには中核、あるいは核心といったものがない。あまりにも流動的で不安定、捉まえようとすると逃げてしまう。

私はサン・マルコ広場や尊大な寺院が好きではなかった。総督宮殿が好きではなかった。固まった土地の一角に建つあまりにも具体的な街が好きではなかった。敷居の上で平衡状態を保つヴェネツィアが好きだった。何故なら、夢の現実の証だったから。

大運河沿いにさえ根を下ろした、前兆のようにもろい建物のあの蛇(蛇行――旅人の多くはこう定義した)は、神は何ものかはご存じだが、ヴェネツィアはしかるべきものであり、しかるべきものではなかった。ヨーロッパの同じ考えが眠っていた、そして同時に消え去るように脅迫され、消滅に向かっていた。 

夜明けから深夜まで、出来る限りあらゆるルートを進み、ヴェネツィアの中で熱狂的且つ恍惚として熱愛したのは正しくこれであった。真実でもある。しかし私にとって沈黙は正当ではない。最初の瞬間、我がヴェネツィアは私が住み着いた〝女″であり、正しく一人の女[伊語文法でヴェネツィアは女性]であった。」 ……
  1. 2016/02/04(木) 00:02:19|
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文学に表れたヴェネツィア――和辻哲郎

『世界紀行文學全集5 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)の最後に、和辻哲郎の『イタリア古寺巡礼』(要書房、昭和二五年四月)が納められています。その中から、ヴェネツィアに関わるものを次に拾い出してみます。
世界紀行文学全集「ホテルはサン・マルコの広場に近いボンヴェキアティという家であった。運河沿いに二町ほど歩いて、賑やかな通りを一寸抜けると、すぐサン・マルコの広場の西の端に出る。広場は石で敷きつめてあるが、その上へ鳩が下りて来て、餌をくれる子供たちのまわりに集まっている。

その広場の向こうの端に、恐ろしく賑やかな姿をしたサン・マルコのお堂が、広場におっかぶさるように聳えているのである。その印象はいかにもヴェネチア独特で、同じイタリアの国内ではあるが、やっぱりヴェネチアという独立の国へ来たような気持を起させる。

そのすぐ南側にはパラッツォ・ドゥカーレ(ドージの館)があるが、この建物がやはりヴェネチアの町の歴史を一挙にして思い起させるような、ヴェネチア独特のものである。その中を見物するだけでも一日ではすまなかった。

最初二三日はそういうところを愉快に見物して廻ったのであるが、多分四月の二日か三日の頃に、昼食にホテルへ帰って食卓に向うと、まるで食欲の起らないのに気づいた。

ホテルへ帰る途中では、今日もまたヴェネチア名物の魚のフライを食おうと、幾分楽しみにさえしていたのであるし、食卓についてからもそういう気分でいたのであるが、最初スープを飲み始めると、何となく胸がつかえるようで、あとを口に入れる気がしない。やがてフライが出ても、頭ではうまい筈だと思うのであるが、どうしても、手をつける気持が起って来ない。

結局、皿と睨らめっくらをした末に、残念ながらそのまま下げて貰う。どうも変だ、そんな筈はないが、と思って、室に帰って念のために熱を量って見ると、七度五、六分ほど熱が出ている。どうも風邪をひいたらしい。今のうちに癒して了おう、というわけで、その日はアスピリンを飲んで寝てしまった。夕食も抜いたように思う。

翌朝眼を醒ましてみると、気持はさっぱりしている。熱もない。朝食はうまかった。もうこれで風邪は防げたらしいと安心して、午前中はまた見物に廻った。ところが、昼の食卓について見ると、昨日と同じ現象がまた起って来たのである。

昨日は昼と夜とを抜いたのであるから、今日は少し栄養を取って置かなくては、と考えるのであるが、何としても食物を口に入れる気がしない。ただ僅かに水が喉を通るだけである。さては、朝熱がなかったのは、アスピリンのせいであった。風邪はまだ退散しないのだ、と思って、この日もまた午後は床についた。 ……」
  1. 2015/11/19(木) 00:05:44|
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文学に表れたヴェネツィア――板垣鷹穂

『世界紀行文學全集 イタリア』第5巻(修道社、昭和四十六年九月三十日)の中に、芸術学者板垣鷹穂の『イタリアの寺』(芸文書院、大正一五年一一月)の中の《小寺小品》に“ヴェネチア”があります。以下引用をしてみます。
世界紀行文学全集「――サンタ・マリア・デイ・ミラコリ――
緑青色をした水を豊かにただよわすカナル・グランデがサンタ・マリア・デル・サルーテの青白い壮麗な影につきて、カナレ・デイ・サン・マルコの広々とした彼方には、サン・ジオルジオ・マジオーレの端正な姿が穏かな水面に浮んでいる。人の世の宮殿とも思えぬ程に空想的なパラッツォ・ドゥカレに沿うて狭いカナルに漕ぎ入るゴンドラは、《歎きの橋》をくぐって静かに進む。

それからは、路地のように狭く、曲折の非常に込み入ったカナルがしばらく続く。舟人達の交わす物憂げな合図の声が、カナルの辻を通るごとに幾度か繰り返されて、両側の家の古びた壁に微かに反響を残して行く。

そのカナルが益々狭くなり、両側の家も益々みすぼらしくなったところにサンタ・マリア・デイ・ミラコリがある。細やかな石橋の側に、淀んだ緑色の水に其の小さく美しい影を漂わせて立つ寺である。大きく考えて聖体を納める棺、小さく考えれば宝石を入れる小箱――と云ったような形である。

半円形の屋根の形が、蝶番(ちょうつがい)で横に開く箱の蓋のようにみえる。黒っぽいくすんだ色の半角柱とアーチとの框に囲まれた明るい色の地肌には、ヴェネチアの建物によくみる幾何学模様めいた単純な図形が、青みがかった大理石とうすい赤の大理石とで半透明に象嵌されている。

それが寺全体の輪郭になお更小箱らしく可愛らしい感じを与える。くすんだ色の聖母像を浮出させたアーチの下の低い扉を展いて堂内に入ると、中は、半円アーチの天井に掩われた単純な長方形の堂で、奥のコーロは、欄をまわし何階かの段上に物見台の如く高まっている。

この小ぢんまりした堂の内は、床も壁も一面に美しい色大理石に装われている。色は鮮やかだが、調子が半透明にシットリしているから、別段わざとらしくきらびやかな感じを起さない。 ……」
  1. 2015/10/08(木) 00:01:47|
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文学に表れたヴェネツィア――牧野英一

『世界紀行文學全集 イタリア』(修道社、昭和四十六年九月三十日)の中に、法学者牧野英一の『海を渡りて野をわたりて』(日本評論社、昭和二年一一月)からの《マルコの広場》という一篇が取り上げられています。そこからの引用を掲げます。
世界紀行文学全集「二月二十四日 ヴェニスにて
広いバルカンの野をよぎってイタリヤに入る。トリエステにては霧ふかくしてアドリヤチック見えず。例の長い橋をわたって、朝ヴェニスに着くと、うすもやのなかの寺々のさまに、まさしく見おぼえがある。とおい鐘の音、ちかい鐘の音、曾て聞いたおぼえのある鐘の音が、曾て見たことのおぼえある寺々からひびいている。
……
ヴェニスに来ての兎も角もの仕事は、まず、サン・マルコの御寺へまいるということでなければならぬ。信仰あつきヴェニスの人々が、サン・マルコを念じつつ、地中海をわが海として東に西に漕ぎまわってから、はや千年ちかく経ている。その東から西からあまたの珍宝をもたらして、ヴェニスの人々は、マルコの御寺をかざったモザイックの金色(こんじき)のきらめき、大理石のかがやきのめでたさ。マルコの御寺は斯ようにしてできたのである。
……
斯くして、サン・マルコの御寺にとなりして、ドージュの御殿ができた。マルコの御寺をおがんだのち、わたくしはドージュの御殿をひとまわりした。
 
マルコの御寺は、はじめ九世紀頃にできたのが、追々に拡大され修築されて今日のものとなった。ヴェニスの人々は、海外の到るところから、貴いもの珍らしいものを舶載してマルコの御寺をかざった。

ビザンチン式の屋根とゴシック式のかざりとが、いろいろに取り合わされている。門の上に在る大きな馬はビザンスのヒッポドロームから持って来たものであるとか、ひとつひとつの柱、ひとつひとつの彫像にも深いいわれがあるのである。

ドージュの御殿もおなじく九世紀頃からはじまった。そこにも各地から集められたいろいろの材料が用いられて、追々に拡大され修築された。十世紀頃には城壁を以て囲んだものであったとかいうのであるが、修築を重ねるうちに、いつのまにか、ただの御殿になった。

フローレンスでも、シエナでも、昔の政庁は城塞の形にできている。しかし、ここでは、全く平和を象徴して御殿ができたというのが、ヴェニスの特色であるとされている。 ……」
  1. 2015/09/10(木) 00:02:12|
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文学に表れたヴェネツィア――イータロ・カルヴィーノ

イータロ・カルヴィーノ(1923.10.15キューバ、ハバナ近郊~1985.09.19シエーナ)の、白水社の瀟洒な装丁のシリーズ《新しい世界の文学》の一冊『木のぼり男爵』(米川良夫訳、1964年8月20日)を読んだのは、もう何れ程前の事になるでしょうか。イタリア語が多少読めるようになり、イタリア書房で "Marcovaldo ovvero Le stagioni in citta`" を買ってきて、独り読みながらイタリア語の勉強、というより内容が大変面白かったことを思い出します。

カルヴィーノの『イタリア民話集』(1956)からは色々な民話集に翻訳されているようですが、《イタリア民話選》として『みどりの小鳥』(河島英昭訳、岩波書店、一九七八年四月二七日)でイタリア各地の民話が出版されています。文中に《少し悲しい話》『ポーモとスコルツォ』(ヴェネーツィア)と題したヴェネツィア民話が掲載されています。そのお話を冒頭からどうぞ。
みどりの小鳥「むかし大金持の夫婦者がいた。かねてから子どもを欲しいと思っていたが、子宝に恵まれなかった。ある日のこと、その大金持の紳士が道ばたでひとりの魔法使いに出会った。「魔法使いさん、すこしお願いがあるのです」と、切りだした。「どうすれば子宝に恵まれるのでしょうか?」

魔法使いは大金持の紳士にりんごをあたえて言った。「これを奥さんに食べさせてごらん、かわいい子どもが生まれるから」
夫はりんごをもって帰り妻にあたえた。「これを食べればかわいい子どもが生まれてくる。魔法使いにもらったのだよ」

妻は大変よろこんで召使いの女をよび、皮をむくように言いつけた。召使の女はりんごの皮をむいたが、捨てずにとっておいた。そしてあとでこっそり食べてしまった。

やがて、女主人に男の子が生まれ、同じ日に召使いの女も男の子を生んだ。召使の女の子どもはりんごの皮みたいに赤と白の肌をしていたので、スコルツォ(皮)と名づけられた。そして女主人の子どもはりんごの実みたいに真白な肌をしていたので、ポーモ(実)と名づけられた。大金持の主人はふたりの子を自分の子どものように育てて、いっしょに学校へ通わせた。 ……」

お話はこんな風に始まり、最後までヴェネツィアの地名一つ登場しませんから、どこの町の民話としても差支えのない内容です。C'era una volta una strega furba.(昔々ある所に、賢い魔女がいました)という昔話の定型を思い出します。

話は少し変わりますが、furbo/a(形容詞)という単語はイタリアでは+(肯定的)の意味を持つ言葉で、伊語中辞典にある《抜け目のない、ずる賢い》といった日本では否定的な使い方をする語ではないそうです。この辞典では《「ずるさ」「悪賢さ」の意味合いの強さはscaltro、astuto、furboの順で弱くなる。ときに「抜け目ない」「賢い」「目先がきく」の意で肯定的によく使われる》とあるのですが。文化の違いで日本語には、伊語のように其々の単語に-意の語、+意の語といった発想はないので、どうしても《狡賢い》といった訳語を当てるので、誤解されてしまうのでしょうか。

この8月は敗戦70周年で、TVで戦争特集が沢山ありました。硬直した直情径行・猪突猛進の日本陸軍は、死ぬことは潔いのだと本土決戦などという本当にアホな作戦を立て、日本民族の殲滅を強行しようとしました。furbo に日本の来し方行く末を模索するなどということの対極(diametralmente opposto)にある、単に了見が狭いだけの、一人よがりの"カッコ良さ"を求めたのでしょう。こういう人達の子孫である我々はやはり furbo の訳語に《狡賢い》を当てるのでしょうか。

私が思い出す映画にガブリエーレ・サルヴァトーレス監督の『エーゲ海の天使』があります。日本の悲壮感迫る兵隊ものと違い全編笑いに包まれた兵士ものでした。最終場面で、一人の兵士が帰国に当たって、島で共に生きてきた山羊数頭を英軍の艦船に乗り込ませようとしますが、規則で載せられないと断られます。しかし結局実現させるのです。

日本人は規則だと断られれば、交渉もせず引き下がるでしょう。潔いのです、交渉事は下手ですし。伊人は最後の最後まで furbo に希望の実現に努力を惜しまないのでしょう。カッコ良さの問題ではないのです。人がすること、一度決めた法律でも、それは永遠のものではなく、例外も多いことです。日本でも戦国時代、権謀術数は生き残るために必須だったのですが。日本的美学は無視して furbo に来し方行く末の人生、世の中の事を考えられればと思います。

ヴェネツィア共和国を繁栄させた"ヴェニスの商人"は正に"furbo"でした[シェイクスピアのアントニオーはヴェニスの商人と言えません、商人として愚か過ぎます。シェイクスピアの限界が見えます]。第4次十字軍に参軍して、信仰等見向きもせず利益優先、信仰に燃えた仏人十字軍兵士らををコンスタンティノープル陥落に協力させたエンリーコ・ダンドロの故事を知れば、合点がいきます。
  1. 2015/08/27(木) 00:01:54|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手知ったヴェネツィアを先ずは訪れて、各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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