イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

クシシトフ・ポミアン著: ヴェネツィアの『コレクション』(3)

(続き)
「ヴェネツィアの主要な博物館がそれぞれ歴史上の異なる時代に由来することを確認するためには、設立の年代を付けたその一覧を作成するだけで十分である。サン・マルコ大聖堂の宝物庫は大部分が13世紀に形成されている。十人委員会武器室(サーレ・ダルミ・ディ・コンシリオ・デイ・ディエチ)の起源は14世紀、考古学博物館の起源は16世紀である。

1807年2月12日に創設されたアカデミア美術館は、マンフレディニアーナ絵画館やコレル博物館と同様、18世紀が生みだした成果である。ただしコレル博物館はアカデミア美術館よりあとに作られており、その内容自体に共和国の崩壊が深く刻印されている。1866年以降、この博物館はリソルジメント博物館によって捕捉されることになる。

1868年にはクエリーニ=スタンパリア絵画館が、1897年には近代美術館が、それぞれ開設される。1920年代になると東洋博物館(1923)、カ・ドーロのフランケッティ美術館(1927)が作られ、また1924年にはコレル博物館から自然科学博物館が独立する。のちにやはりコレル博物館から独立するのは、ガラス工芸博物館(1932)とレッツォーニコ宮の十八世紀ヴェネツィア博物館(1935)である。そして1951年には、ヴェニエール・デイ・レオーニ宮にペギー・グッゲンハイムのコレクションが最終的に収められることになった。
アッカデーミアマンフレディアーナコッレールリソルジメントスタンパーリアカ・ペーザロミアーニ・コレッティ・ジュスティ館ガラス工芸博物館カ・レッツォーニコ館ヴェニエール・デイ・レオーニ館[写真はサイトから借用――私の表記法で記します。アッカデーミア美術館(Galleria di Accademia)、マンフレディニアーナ絵画館(Pinacoteca manfrediniana)[この絵画館が入館しているSeminario Patriarcaleの中庭に天正四少年遣歐使節の碑(1585)が移設されています]、コッレール美術館(Museo Correr)、イタリア維新と十九世紀博物館(Museo del Risorgimento e dell'Ottocento veneziano)、クェリーニ・スタンパーリア財団絵画室(Fondazione Querini Stampalia)、近代美術館(Galleria d'Arte moderna)、東洋博物館(Museo d'Arte Orientale)[近代美術館の上階に東洋博物館が入館]、ジョルジョ・フランケッティ美術館(Galleria Giorgio Franchetti)[左隣のミアーニ・コレッティ・ジュスティ館も使用しています]、ガラス博物館(Museo del Vetro―1861年創設)、カ・レッツォーニコ、ヴェネツィア十八世紀博物館(Ca' Rezzonico, Museo del '700 veneziano)、ペギー・グッゲンハイム・コレクション(Collezione Peggy Guggenheim)]
……
公共博物館の形成――第一のものは、伝統的タイプと名付けることができる。それは通常の機能を果たす一方で、公衆に向けて公開されたコレクションを生み出すようなあらゆる制度によって代表される。公開といっても、すべての人々に対する場合もあれば、ある限定された範疇の人々に対する場合もあり、また、前もって定められた時間帯の場合もあれば、特別なハレの状況の場合もある。

13世紀に創設されてからヴェネツィア共和国が崩壊するまでのサン・マルコ大聖堂の宝物庫の場合が、まさしくそれである。年に5回、大聖堂の中央祭壇の上に展示されたその宝物は、外国の重要人物に対しては例外的に公開された。たとえばジョン・イーヴリンは、1645年にフランス大使の随行の一員としてそれを見学することができたし、モンフォーコンも1698年にその特典を受けた。

したがってサン・マルコ大聖堂の宝物庫は1832年に公式に博物館となるまで、長いあいだ事実上博物館の役目を果たしてきたのである。しかしそれがそのように機能したしたのは、ときたまのことでしかなく、大部分の時間は公衆に対して閉ざされたままであった。

博物館としての役割は副次的なものであり、聖域や宝物庫や品物の保管所としての主要な役割に従属するものであった。そこに収められた品物は、聖遺物であれ権力の象徴であれ、それらの威厳にふさわしい宗教的・政治的儀式――そこでは聖人マルコと祖国とが同時に讃えられる――の枠内で展示されるべきものであった。

同様に、絵画や記念物や芸術作品が、何世紀にもわたって集積されてきたような教会は、何か大きな被害を受けていないかぎり、公衆に公開されるコレクションとなっていた。ガイドブックや町の描写や旅行記などは、まさしくこの宗教施設の歴史的・芸術的側面を強調している。数多くの例のなかから、マルティネッリの小冊子(1705)のタイトルを挙げておこう。

『二部構成からなるヴェネツィアの肖像画あるいはもっとも著名な事物。第一部においては、この町にあるすべての教会が、そのもっとも著名な記念すべき事物、石棺、墓碑銘、碑文、並びにもっとも著名な彫刻・絵画とそれらの説明および作者名とともに、略述されている[……]』。

教会が文字どおり博物館と同一視されることことさえも起こる。たとえばA・M・ザネッティ(小)は1771年、サンタ・マリア・マッジョーレ教会は《完全なヴェネツィア絵画の陳列室[……]と呼ぶことができる》と書いている。

しかし公衆に公開されたコレクションは、ただ教会だけに自然発生的に集積されたわけではない。それらはまた、珍しく美しいものに取り巻かれ、それらを大量に集め、また誇示することを自らに課した貴族や王の宮殿にもしばしば見出される。社会的階級制において彼らが占める地位や彼らが演じるべき役割によって要請されたこの義務のために、個人的には何の関心も持たない場合でさえも、彼らはコレクションを形成しあるいは保存したのであった。

権力の発現であるこうしたタイプのコレクションは、ヴェネツィアでは総督宮(パラッツォ・ドゥカーレ)の十人委員会武器庫にあるコレクションによって代表される。最初は武器の保管庫として作られたものであったが、そこにはのちに戦利品、外国の貴族や重要人物によってヴェネツィア共和国に捧げられた贈物、芸術作品が保管されるようになった。

1683年にピエトロ・モロシーニによって国に贈られた古銭コレクションが置かれたのもそこである。厳重に保護されていた武器室(サーレ・ダルミ)は、ときおり、特別の許可を与えられた著名な訪問者に開かれることがあった。サン・マルコ大聖堂の宝物庫と同様、ここも不定期の博物館であったわけだ。……」 (4に続く)
  1. 2017/07/06(木) 00:08:12|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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クシシトフ・ポミアン著: ヴェネツィアの『コレクション』(2)

(続き)
「同時代の絵画に対する強い関心が顕著に見られるのは、ヴェネツィア貴族界には所属せず、買い取りや注文を通して自分のコレクションを形成する蒐集家においてであった。それはまず第一に、ヴェネツィア在住の外国人である。たとえば英国領事ジョゼフ・スミス(1674~1770。1700年頃以降ヴェネツィアに在住)は晩年、英国国王にカナレット54点、マルコ・リッチ42点、ロサルバ・カリエーラ38点、ツッカレッリ36点、セバスティアーノ・リッチ28点、ジュゼッペ・ノガーリ9点、カルレヴァリス6点、ピエトロ・ロンギ4点を売却した。
マンジッリ・ヴァルマラーナ・スミス館[スミスが住んだスミス・マンジッリ=ヴァルマラーナ館] しかしそれは、もっとも古い作品の堂々たるコレクションと共に、スミスの宮殿に集められた同時代ヴェネツィア芸術家たちの絵画、素描、版画の一部にすぎなかった。ティエポロが欠けており、一般に歴史画にはあまり関心を示していないのに比べ、ロサルバ、マルコ・リッチ、カナレット、ツッカレッリが大きな位置を占めているのは、当時のヴェネツィア絵画のなかでスミスを特に引きつけたのが、目に見える世界の表象であったことを示している。
[ジョゼフ・スミスについては2012.10.13日のヴィゼンティーニ等で触れています。]

またその装飾的価値ももちろんあっただろう。カナレットの作品のうち、戸口上部の装飾画が13点、ツッカレッリの作品には11点あった。スミスはフランドル絵画もいくつか集めていたが、そこでも特に評価していたと思われるのは、目に見える世界の表象である。ところが古いイタリア画家においては、彼はとりわけ宗教画を好んでいた。

スミスの場合はいろいろな点で例外である。かくも長い期間にわたって、外国人がこれほど多彩な役割をヴェネツィア文化生活において演じたことはなかった。また、知っておくべきことだが、彼に匹敵するようなコレクションを揃えた人はだれもいなかった。けれどもまさにその規模のために、スミス・コレクションはまるで拡大レンズのように、それなくしては見定めることが難しいような傾向(といっても、それは当時の蒐集家たちの傾向でもあるのだが)を明瞭に示してくれる。

同じように、非常に充実してはいるが、もっと小規模で知名度も低いシューレンブルク元帥(1661-1747。1715年以降ヴェネツィア共和国に居住)のコレクションは、スミスとは反対の傾向を明らかにしている。それは実際ピアツェッタ、ピットーニ、ジャン・アントニオ・グワルディの数多くの作品を収めており、歴史画に際立った特権を与えていた。

他の外国人蒐集家たち、たとえばジギスモント・シュトライト(1687-1775)などは、この二つの極のあいだに位置しており、とりわけ古い作品に関心を抱いていた。その何人かについては、のちほどまた触れることになるだろう。

ヴェネツィアの蒐集家を生み出す第二のグループは、《中産階級》という通用範囲の広い言葉で呼ばれる。その中には、歴史の浅い貴族やブルジョワジーもいれば、聖職者階級に属し、懐胎期にあるインテリゲンツィアを代表する人々もいた。それはまた《自由業》に携わっていたり(医師、弁護士、芸術家)、卸売業者、数は非常に少ないけれども請負業者であったりもした。

これらのカテゴリーの第一番目、すなわち事実上の知識人ではあるが公の身分は明らかにそれとは異なる人々の趣味は、18世紀を通して、連続する三つの世代に属する三人の人物のコレクションによって例証されうる。

一番時代が古いのは、医者の息子であり、死の6年前に女帝マリア=テレジアによって伯爵に叙せられたアントン・マリア・ザネッティ(父―1680-1767)である。1720年以前に早くも、ピエール・クロザや、生涯友情で結ばれたピエール=ジャン・マリエットと交友を始めたザネッティは、パリとロンドンに旅行したあと、ヴェネツィアにあって、外国人の何人かの大蒐集家たちの親しい代理人として、彼らの売買の仲売人をつとめた。彼らにとって、ザネッティ以上の相手は見つけることができなかった。

ザネッティは自分自身芸術家で、才能ある版画家・風刺画家であり、古代遺物にも精通していた――彼の所有する彫刻石はジョゼフ・スミスのものよりはるかに優れている。彼はまた、集めた作品によってばかりではなく、美術骨董界で重きをなす全ての人々で構成された交友関係における影響力によっても、当時のヴェネツィア蒐集家のうちでもっとも重要な人物の一人であった。

さて、彼のコレクション中の絵画は、ほとんどが同時代のものであった。なかでも彼の友人であったセバスティアーノとマルコ・リッチのいくつかの作品、またツッカレッリの二枚の風景画、ロサルバのパステル画数点とミニアチュールが含まれている。それに加えて版画のまれに見るコレクションがありレンブラントならびにカロの全作品を含んでいた。また過去の巨匠と同時代の芸術家の素描コレクションもあり、セバスティアーノ133点、マルコ・リッチ141点が含まれていた。……」 (3に続く)
  1. 2017/06/29(木) 00:03:00|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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クシシトフ・ポミアン著: ヴェネツィアの『コレクション』(1)

ヴェネツィアで収集された各種の物、例えば彫刻、骨壺、浮彫、碑文、箪笥、メダル、カメオ、指輪、ランプ、フィブラ、花瓶、蝋燭立て、十字架、香炉、聖遺物容器、祭壇飾り、聖体器、聖杯、楽器、鎧、鍵、籠手、馬用面頬、短銃、矛槍、剣、鉄砲、槍、角笛、版画、花瓶、自然物、とりわけ絵画です。

古代から色々なコレクションがあり、ヴェネツィア(ヴェーネト)とパリのコレクションについて述べた『コレクション――趣味と好奇心の歴史人類学』(クシシトフ・ポミアン著、吉田城・吉田典子訳、平凡社、1992年5月13日)という本があります。
コレクション「アポストロ・ゼーノ(1668~1750)の書簡を調べると、メダル・コレクションの成立を跡づけることができる。つまり値切るための交渉、真贋の吟味(なぜなら市場には偽造や不正取引のメダルが出回っていたから)、専門家への照会、交換である。1708年に創設されたゼーノ・コレクションは、1726年には約5900点のメダルを収蔵しており、そのうち700点はギリシア、700点は金、1400点は銀、1000点は大型ブロンズ、1600点は中型ブロンズ、800点は小型ブロンズであった。

ゼーノと同様ヴェネツィア人であったオノリオ・アリゴーニ(1668~1758)は、メダルを求めてイタリア全土を25回も旅行した。彼は1740年頃にはおよそ20000点のメダルと、それに他の古代遺物――分銅、ランプ、壺、エジプトの小彫刻、護符、供犠の道具――を集めた。けれども、メダルと古代遺物に関してもっとも立派な収穫をあげることができたのは、東方においてであった。

それを示しているのがジャンアントニオ・ソデリーニの例であって、彼は初めエジプト、聖地、トルコ、そしてギリシアの島々、さらには軍隊の指揮を取っていたザーラ(ザダル―アドリア海に面した現ユーゴスラヴィアの港町。15世紀から18世紀までのヴェネツィア領)への旅行を通して、その立派な陳列室を整備したのだった。

同じようにマルカントニオ・ディエードは御用商人(プロッヴェディトーレ)をつとめていた軍隊から戻って、ゼーノに自分の《無数の》メダル、彫刻、碑文、浅浮彫、壺などを見せて驚かせた。ヴェネツィアでは、ギリシアや東方から戻ってくる旅行者がメダルを持ち帰ることがよく知られていた。そこで好事家は、たとえばスポンがその楽しい経験を味わったように船が到着するとそこに買い求めに来たのだった。
……
それから20年間の空白がやってくるが、そこに1630年のペストの影響を見ないわけにはいかないだろう。なるほど、ピニョーリア[PignoriaはSignoriaと同様、ピニョリーアと発音するでしょう]のことを知っていて、その図書室とコレクションの記述を行ったジョヴァンニ・フィリッポ・トマシーニ(1595~1655――Tomasiniはヴェネツィアではトマズィーニ)なる人物がいて、ジョヴァンニ・デ・ラザーラと交際していた。

けれどもこの種のまれな事実だけでは、17世紀初頭の世代と、世紀後半にやってくる世代――その首領はセルトリオ・オルサートである――とのあいだに橋を架けることができない。オルサートはイレーネ・マントヴァ・ベナヴィデス(アンドレアの妹)の夫で、先祖からのコレクションの最後の管理者であり、碑文研究におけるチェルキアーリの師匠であって、ヴェネト地方で古代碑文に関心を持つ全ての人に影響を及ぼした。彼はジョヴァンニ・デ・ラザーラの友人で、他のイタリア都市や外国の多くの学者、古代遺物蒐集家たちと書簡を交わしていた。

彼に直接間接に師事した弟子のなかでは、カミーロ・シルヴェストリが筆頭格で、オルサートの築いた碑文コレクションを受け継ぐことになった。それはパドヴァからロヴィーゴに移され、カミーロの息子カルロ・シルヴェストリによって、音楽愛好家アカデミー博物館のためにマッフェイに売られ、そこでニケソーラの大理石と一緒になった。

カミーロ・シルヴェストリの非常に広範な交際の網目の中には、ジュラントニオ(Giulio Antonioジューリオ・アントーニオの事?)・アヴェロルディ、ジョヴァンニ・マルツィオ・チェルキアーリ、シャルル・パタン、カルロ・トルタ、アポストロ・ゼーノ、シピオーネ・マッフェイといった、われわれがすでに出会った何人かの人物がいる。この最後の二人は――といっても、彼らだけというわけではないが――好奇心と古代遺物学の伝統を、遠く18世紀にまで延長したのである。……」 (2)に続く

この分厚いA5版の濃密な内容の本を要約するのは私には丸で無理です。次回は中心となる絵画のコレクションについてです。
  1. 2017/06/22(木) 00:27:14|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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書籍「ヴェネツィアの放浪教師」(6) 

(続き)
「……パドヴァ大学は、一二二二年にボローニャから学生と教師が移住したことによって成立した。一三世紀中葉にはパドヴァの町が僭主性専制下におかれ、大学も低迷していたが、一四世紀にはパドヴァの実権を掌握したカッラーラ家の庇護の下で著しい発展を遂げ、ボローニャと並び称されるほどの大学になっていた。
『ヴェネツィアの放浪教師』ヴぇネツィアは、一四〇五年にパドヴァの町を征服してからは、この大学をヴェネツィア共和国唯一の大学と位置づけて、重要な教育的機能を担わせることになる。
……
一四〇五年にパドヴァを征服したヴェネツィアは、パドヴァ側の要請に応えて、《パドヴァのコムーネの規約と良き習慣を遵守し、……大学が確保されること》を保証した。そして、翌年の一四〇六年四月には、《すべての学部が有能にして充分な教授を持っているか、大学の発展と拡張のためにどの程度必要なものがあるか》を視察するための政府調査団を派遣する。

この大学整備を目的とする視察の根底には、パドヴァ大学の経済的有用性にたいする評価、すなわち、大学の発展がヴェネツィアに新しい利益をもたらすという認識があった。多数の学生たちが市内商業において無視できない消費者グループを形成していたことに加えて、ドイツ人などさまざまな遠隔地の出身者は、ヴェネツィア商業にとって交易を拡大する機会を提供すると考えられたのである。いわば、政治的動機によってカッラーラ家が保護育成したパドヴァ大学は、一五世紀以降、経済的動機によってヴェネツィアが発展させることになった。

この調査団の報告に基づいて、一四〇七年には、ヴェネツィアは矢継ぎ早に大学施策を発表している。まず、著名な外国人教師を招聘して教育面での充実をはかろうとする。そして、ヴェネツィア市民は、少なくともイタリアで勉学する場合には、パドヴァ以外で学んではならないという、他大学勉学禁止令を発布した。

これには違反者に五〇〇ドゥカートもの多額の罰金が課せられ、ヴェネツィア市民がパドヴァで学ぶように強制するものであった。さらにまた、すでに占領していたヴィチェンツァとトレヴィーゾの町に存在した大学を閉鎖して、パドヴァ大学をヴェネツィア唯一の大学として育成する方針を打ち出したのである。

ただ、このような一五世紀初期の大学政策が、すぐに効果を表わしたとは言い難い。領土拡張にともなう混乱や、断続的に猖獗を極めていたペスト、招聘した著名教師の怠慢など、大学の繁栄を阻害する要因が存在し、大学は常に不安定な状態におかれていた。

このような悪条件を克服して大学に繁栄をもたらすために、ヴェネツィアは一四二〇年には大学改善委員(reformatores)というものを設置して大学改革に取り組み、高額給与による著名教師の招聘や、他大学勉学禁止令などを核とした大学興隆政策を繰り返していく。

その結果、かつてないほど多数の学生がヨーロッパ各地からパドヴァに参集し、宗教的束縛から自由な学問的雰囲気の下で、医学を中心とした世俗学問の発展が起こって、やがてヴェサリウスやハーヴェイを生む近代医学揺籃の地となるのである。 ……」  (引用終わり)
  1. 2016/01/28(木) 00:05:17|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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書籍『ヴェネツィアの放浪教師』(5)

(続き)
「……ヴェネツィアの社会構造を考えるうえで第一に留意しておかなければならないことは、ヴェネツィアの貴族層が他の国のような封建領土に基づいた土地貴族ではなく、商業上の利益を背景として法的権利を獲得した特権階級であって、参政権をはじめとする諸権利を含む完全市民権を有する商人貴族であったことである。
『ヴェネツィアの放浪教師』したがって本来、彼らは子弟の教育を基礎教育の後は商業実務に携わることによっておこなっていた。ところが、大評議会をはじめとするすべての政治機構を独占し、これらの公務に参加することが彼らの義務でもあり、またステイタス・シンボルともなっていた。そこで、政治的な公務を遂行するためには、商人的な実務教育以外の教育が必要となったのである。

ことに、一五世紀前半にヴェネツィアは、イタリア本土への内陸侵攻策を進めて、ミラノ近郊のベルガモ付近まで領土を拡大した。こうして、新たに獲得した内陸部の領土を統治する人材の養成が国家としても必要になっていた。従来も、国政や海外領土の統治の専門家を必要としたとはいえ、海上交易によって富を蓄積したヴェネツィアにとっても最も必要な人材は海事外交専門家であったといってよい。

しかし、一五世紀になってからは、この海事外交専門家に加えて、彼らとは性格の違った内陸領土の統治専門家の必要性が増大した。いうまでもなく、海事や外交と違って内陸部の支配都市の統治は、ローマ法に基づく市民法と、その影響を受けた教会法などを社会的基盤とした都市社会を統治するということに他ならない。そのための法学の知識を、当時の支配者層であった貴族層は必要としたのである。

貴族たちが強い法学部指向を示したのは、このためであった。彼らは、国政に参加してヴェネツィアの舵取りをする必要があり、そのためには法学の知識が不可欠であった。とりわけ、貴族の中でも富裕な者ほど法学に集中していたのは、富裕な貴族であればあるほど切実に法学の知識を必要としたためである。

貴族が独占した職務は、大評議会を基礎とした元老院や各種委員会組織の職務以外に、領土下の行政職として、各国大使、支配下の各都市のポデスタなどがあり、それぞれの都市の重要度に従って序列化され、貴族の富裕度に応じて割り当てられていた。つまり、富裕な貴族ほどより重要な職務を担当しなければならなかったのである。そのために、富裕な貴族ほど強い法学部指向を持ったのであった。 ……」 (6に続く)
  1. 2016/01/21(木) 00:02:29|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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