FC2ブログ

イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの書店

私が嘗て学んだヴェネツィアの語学学校の、マッシモ先生からのEメールが、この1月に届いていました。ON-LINEで各国の語学生と繋がって、オンライン授業をやっているのだそうです。学校閉鎖になってはいなかった! マッシモ先生は私が初めて語学校通学時に、先生の部屋を借りたこともあり、心配していました。ワクチン接種も順調らしいし、モーゼが機能してサン・マルコ広場が水浸しになることも減ったようです(高潮の設定が高めだったらしく、完璧に水が出ないという訳にはいかないらしい)。

自宅に籠るには読書が最適と、ジョヴァンニ・モンタナ―ロ著『ヴェネツィアの本屋さん』という本からの引用だそうです。2月に入り、ヴェーネト地方はコロナ禍はイエローゾーンに緩和されたらしいです。
「……ヴェネツィアのサン・ジャーコモ・デッローリオ広場とテントール通りの角に小さな本屋さんがあり、そこは何が起ころうとも未だに存在しているということで人を驚嘆させる書肆の一つである。しかしながら、ゲリラを戦う兵士のように根強く、王女のように優雅な、そうした店というのはどんな町にも存在するものである。そんな書店は皆同様に見えるかも知れないが、ここは入店してしてみると判るが、他店とは同じではないのである。
サンタ・クローチェ区このサン・ジャーコモ・デッローリオの書店は部屋が二つで、ミーノース王がミーノータウロスを幽閉した迷宮(ラビュリントス)内でのように迷ってしまう可能性がある。木製のくすんで頑丈な書架では、何万という言葉の群れが大洋の魚類のように、壁面との間で互いを追い掛け回している。

店主はヴィットーリオと言う。40代を越したとは誰にも気付かれず、ずっと若そうに見える。山の中、今や過疎地となったカドーレの山村に生を享けた。ドロミーティの町には、嵐のような力強さと陽も暮れなんとする時の気後れした優しさがある。ヘーラクレースのように強靭に、隅々にまで書籍の詰まった書架の間を事も無げに移動する。しかし一旦書を手にするや、子をあやすが如き手付きである。

今や時代遅れの、市松模様のフランネルのシャツ(私は笑ってしまった)で、彼はそれしか着ないのである。ボロボロのジーンズのズボンを穿き、頑丈なドタ靴を履いている。腕捲りすると、前腕に刺青、斜視の獅子の皺だらけの脚が覗く。ヴィットーリオは美男子である。が、ある種の男達のように、その事に気付いておらず、その事を知るにはその事を言ってくれる女性を必要とする。

毎日髭剃りした顎、ボクシング選手のような胸、読書の習慣を実行に導く無頓着、食後何かが気掛かりのように毎日着火する煙草の火の煙。

今はそうではないが、かつて彼の店に能く通ったことがある。ヴィトーリオは経済学を学びに19歳の時ヴェネツィアにやって来たが、卒業証書(ラウレア)を手にすることは出来なかった。サン・マルコ広場の美術館に勤務するアイルランドの娘に出会った。彼女が2度彼にキスをした。1度目は二人に恋を芽生えさせ、その後彼女は彼と別れるに当たって、彼にメルヴィルの本を贈った。

彼は書物というものにそれ程馴染んでいなかったが、その夜、彼女を引き留めようとするかのように直ぐに『モビー・ディック(白鯨)』を読み始めた。そして今までこんな風に読書をしたことがなかったことに気付いた。

突如、自分が操船を指揮し、捕鯨用の銛を油で磨き、救命ボートのベンチを洗っているように思われた。彼には日に日を次いで生活が膨張して、魅惑的になり、そして人生がより能く、以前より何がしかが理解されるように思われてきた。

彼は大学を辞め、リード島の店に仕事を見付けたが、それは敢えて家から遠くの場所を選んだ。リーヴァ・デ・ビアージョの停留所からヴァポレットでの通いは、毎日2時間の読書が可能だった。そして譬え望まずとも、またお気に入りでない本を選んだとしても、ヴァポレットの窓からの眺めは同様に素晴らしく、アメリカや鯨の見付かる大洋が想像出来た。

あの大陸が彼を引き付ける。RothやDeLillo、MastersやWhitman、AusterやEllisと話し始めた。そしてある期間、合衆国東北部メイン州に住むことを夢見た。しかし出発はしなかった。ヴァーモントの薪置きの小屋を奇麗に片付けねばならないような身形をし続けているからである。

20代からヴィットーリオは、サン・ジャーコモ広場の本屋さんである。書店は彼の事をモビー・ディックと呼称する。譬えアイルランドの娘の事をもはや考えないとしても、またここには海があり、ナンタケット(Nantucket)の大洋は存在しないとしてもである。

彼は少し離れた所に住んでいる。そこで学生時代からずっと生活してきた。解剖裁判所の屋根裏部屋である。そこからヴェネツィアの赤っぽい屋根、フラーリ教会、フェニーチェ劇場の大きな図体が見渡せる。彼の生活は自ら望んだものである。書店主であるためには、人は裕福になることは無用だが、本屋のために人は生きるのではない。彼に仕合せかい?と問わねばならないとすれば、ヴィットーリオの方はそうだよ(Sì)と応えるかも知れない。

今や彼は慕われている存在でもあるのだ。」

サン・ジャーコモ・デッローリオ広場とテントール通りは地図下部に位置しますが、テントール通りを南へ下ると向かって右側にヴェネツィアで一番美味しいと言われたピザ屋さんがありました。更に下って橋手前を左に行くと、ポンテ・ストルト(曲がった橋)、そして鐘楼が途中で切られて民家に転じた風情が見られます。

2014.11.27日のブログでヴェネツィアのハーマン・メルヴィル(1~2)について触れています。
  1. 2021/02/07(日) 00:30:12|
  2. 書店
  3. | コメント:0

映画『ベニスの愛』

最近になって知ったことがあります。映画好きの私が見損なっており、蔦屋のイタリア映画コーナーでカセット・テープ等でも見かけず、一度紹介したことのある、柳澤一博著『映画100年 STORYまるかじり イタリア篇』(朝日新聞社、1994年11月30日)の中の年表からも洩れていて、私のヴェネツィア映画についてのブログでも触れたことのなかった映画――日本語題名は『ベニスの愛』(1971年8月28日、日本公開)、イタリア語題名“Anonimo veneziano”(1970年制作)という映画です。
[Anonimo veneziano――Youtubeにポルトガル語字幕の映画『ベニスの愛』がありました。]

アレッサンドロ・マルチェッロ作曲のオーボエと弦楽合奏のための協奏曲ニ短調の第2楽章アダージョが、主人公のオーボエ奏者によって演奏されたために、この演奏されたアダージョ楽章が《ベニスの愛》と呼ばれるようになったそうで、私は、“ある映画で使用されたためにこの協奏曲がこの様に呼ばれるようになった”と単純に思い込んでいました。

その上、私は映画音楽として作曲された曲とは知らず、曲名も知らず、普通のムード音楽として聴いていたのですが、エンリーコ・マリーア・サレルノ監督のこの映画では、ステルヴィオ・チプリアーニが映画音楽として主題となるメロディを作曲していました。ヴェネツィアでは能く耳にしたものです。ですから『ベニスの愛』という曲は、このチプリアーニ作曲の映画音楽がそれだったのです。

この映画が公開された当時は、マルチェッロのオーボエ曲は兄のアレッサンドロがアカデミー(Ponteficia Accademia degli Arcadi)の会員で、Eterio Stinfalico(エテーリオ・スティンファーリコ)の名前で発表したこともあって、有名な弟の作曲家ベネデットと混同され、ベネデット・マルチェッロ作の曲とされていました。しかし現在はアレッサンドロ・マルチェッロ作曲と同定されています。映画の題名“Anonimo veneziano”とは、このマルチェッロの曲に綽名がないことから、ヴェネツィアの曲であることを明確にするために付けられたものでしょうか、《ヴェニス無題曲》といった意味合いのようです。
[Youtubeにアレッサンドロのオーボエ協奏曲ニ短調がありました。]

映画は、Youtubeにアップされたヴェネツィアの街を見るような趣で、喧嘩ばかりで別居していた夫婦がヴェネツィアで再会し、1日街を歩きながらお喋りし、言い合いをし、また愛し合っていた昔を思い出したりしながら、1日ヴェネツィアの街の彼方此方を歩きます。ヴェネツィアの路地歩き好きには必見の映画でした。サント・ステーファノ広場ではジェラートが美味しいと評判のカッフェ・パオリーンのテーブルでの語り合い。映画で映し出されるパオリーンと右隣のカッフェ・アンゴロの間の道を入った所に、語学校通学時、アパートを借りていたのでこの近辺は懐かしいのです。私はアンゴロでヴェネツィア名物スプリッツ・コン・ビッテルを知りました。
中央の赤っぽい絵が画伯の物[中央の赤っぽい絵が絹谷画伯のもの]  ロカンダ・モンティーンで食事をするシーンがありました。ロカンダ(locanda)は安宿の意で、かつて泊めて貰えないかと、Faxしたことがありました。折り返しFaxが戻って来て、今は食堂の経営だけなので、ヴェネツィア来訪の折には食事にお出で下さいとありました。その後食べに行くと、店の人が、ここには日本人の画家の絵がありますよと案内されました。部屋の片隅に掲げられていたその絵は、芸大の絹谷幸二教授のものでした。翌年また食事に行くと、絵の展示場所が客の目が直ぐ気付く部屋の中央に変更になっていました。日本人が食事に訪れるようになったのだと、合点しました。

主人公は会話の衝突から、竟、自分は5、6か月後には死ぬだろうと宣告されたことを口走ってしまいます。彼は死ぬ前に愛していた妻に会いたかったのです。そしてこの夫婦にとっては寂しいFineとなりました。
  1. 2021/01/30(土) 22:02:12|
  2. ヴェネツィアに関する映画
  3. | コメント:0

ヴェネツィアのカーニヴァル 2021年

今日の新聞に、リオのカーニバルが中止になったとありました。
カーニヴァルカーニヴァルは暦年の宗教行事の一つです。人が集まるイヴェントが取り止めになったということで、例年行われていたように、各家庭内ではそれぞれの謝肉祭を楽しんでいたはずです。

ヴェネツィアのカーニヴァルの日程も近付いてきました。PCのサイトには、旅行社等の記事で2021年のヴェネツィアのカーニヴァルの予定が発表されています。ヴェネツィアの公式サイトにも昨年の内に公式の行事予定が発表されていました。

しかしこの1月4日付の《ラ・ヌオーヴァ》紙は、縮小された形で、イヴェントは定員制でやるか、Web上でやればOKとしていましたが、23日付では明確に人の集まるイヴェント、館での舞踏会等、サン・マルコ広場や通り等での人出を発生させる一切を禁じ、催しはonlineで発表するように、保健局のお達しです。市にとっては大打撃のようです。

NHK・TVで、昨年のヴェネツィア・カーニヴァルが、ヴェーネトで感染者はまだ僅か、しかし死者1名の報の直後、日曜日から中止になった時のフィルムを見たことがあります。主催者達は大変悔しい思いをし、今年のカーニヴァルに賭けていたと思いますが、昨年以上に残念な結果になってしまいました。このコロナ禍はいつまで続くのでしょうか。

1月21日のヴェネツィアの様子(早朝?)を撮られたMarco ScarpielloさんがupされたYoutubeから ヴェネツィア 1月21日。コロナ禍以前であれば、この明るさの朝早き時間、運河には沢山の船の動きが見られ、通りでは多くの人々が足早に歩き、サン・マルコ広場は既に観光客の姿があり、活気ある街を感じたものです。カメラに映し出された街を見ると、かつて泊ったことのあるホテルの場所にはシャッターが下り、ホテルの看板がありませんでした。
  1. 2021/01/23(土) 23:49:52|
  2. ヴェネツィアの行事
  3. | コメント:2

リアルト橋

2000年の大聖年の年から6年間、ヴェネツィアの語学学校に通いました。仕事がありましたので、年に精々2~3か月間でしたが、レベル1から始まりました。現在のコロナ騒ぎで学校はどうなったでしょうか。伊語の学校には外国人しか学びに来ません。国境は閉鎖状態で観光客もまばらなヴェネツィア! 市は観光客もいない状態で、市の美術館や博物館も閉鎖することにしたそうです。

学校から伊語の勉強を怠るな、と能くヴェネツィアに関する書物からの引用文をメールで送ってくれていました。その中に、リアルト橋についての引用文がありました。リアルト橋については以前にも何度か触れていますが、視点の異なることと文章が非常に難しかったので、譯の練習を兼ねて、蛮勇を奮って訳してみました。どういう人が書かれた文かは判りません。

「……1507年、十人委員会は、木製のリアルト橋を石製に取り換える意向を固めた。石製は3アーチで、中間に2橋台・2橋脚という、中央が通過出来る様に開かれた構造とされた(最初の石造製の構想)。有能な技術者がいたにも拘わらず、年月が経った。
カルパッチョのリアルト橋[カルパッチョ画の木造のリアルト橋(部分画)]  1527年から彫刻家で建築家のサンソヴィーノ(ヤーコポ・タッティ)がヴェネツィアに最終的に定住した。彼はサン・マルコ政庁の印刷者であり、サン・マルコ小広場を古代ローマ様式に再生させるためのクリエーターとして任命されていた。

貴族のアルヴィーゼ・ドナは航海に長けた愛好家だった。1537年、3アーチの橋のモデル(第4番目の構想)を既に完成させていた。1546年、十人委員会は以前にピエートロ・デ・グベルニに相談を持ち掛けていた。彼は塩と海洋庁の職長で、単独アーチの木造橋のモデル(第5番目の構想)でサンソヴィーノに重大な疑問を投げ掛けていた。

1551年には石造橋についての質問が元老院に強力に投げ付けられた。工事の監督官には、サンソヴィーノの支持者であったヴェットール・グリマーニとアントーニオ・カッペッロが選ばれた。
アルピーニ橋[サイトから借用。1569年バッサーノ・デル・グラッパに架橋されたパッラーディオの屋根付きの木造の“ヴェッキオ橋”、アルピーニ橋とか屋根付き故コペルト橋等呼ばれます]  竟にコンクールが公募された。ヴェネツィアのマエーストロやイタリア各地の人が公募に応じた。サンソヴィーノ以外にもバルバロ兄弟に支持されていたヴィチェンツァ出身のパッラーディオも応募した(バルバロ兄弟の、ダニエーレはアクイレーイアの貴族で、パッラーディオの挿画入りの、ウィトルウィウスの『建築について』の知的翻訳者であり、マルカントーニオはドミヌスの施政官、サン・マルコ収入役で、サンソヴィーノ図書館[サン・マルコ図書館]完成に尽力した)。
……
街を美しくしたいという通常の目的には橋も含まれていたが――それは特にサン・マルコ地区を変えたいということが中心であった――パッラーディオの構想はそれまで知られていなかったが故に、無に帰した。彼は観念的、象徴的、水力学的な発想の時期にいたのかも知れない。
……
パッラーディオはその時、出向で遠くにいたのであったが、必要な場合は、事に対して批判的にもなって、自分の論文にリアルト橋の3アーチという野心的な構想を導入していた。木造ということは部分的な修復が可能という、十人委員会の認めていたことのために後々まで彼の心に残っていた。
Palladio[パッラーディオ、サイトから借用]  彼のその悲しむべき状態の前で、元老院は新しい橋を完璧に遂行するために、3人の監督官を任命することを決めた。橋の輪郭は大評議会が大衆的見地から認めるものとなるかも知れなかった。
……
1587年[この年再度の公募が行われました]12月28日、前例にはなかったような手続きで、政府の役人達は最初の相手に、更に質疑に応じることの出来る全専門家に向き合った。9つの関係する質問があり、それは安全性、費用、建造の難度、高さ、通行人や船の利便性、潮の流れ、障害物、埋め立ての危険度、橋の美観だった。そのデッサンが監督官の家に張り巡らされていたので、現在我々は職人衆の証言内容が判るのである。

質疑に応じて、ヴィチェンツァの建築家の、パッラーディオの弟子であったヴィンチェンツォ・スカモッツィもコンクールに参加[師のパッラーディオの死は1580年]し、“コンクールに参加”と署名したように、それは戦いであった。

スカモッツィ(同じ様にマルカントーニオ・バルバロに支持され、援助されていた)によれば、3アーチと水流の川床中間部に埋め込んだ2本の橋脚で橋を建造することが必要だった。古代ローマの建築家が教えているように、正しい教えは長期となる建造期間中に結果が出るのである。単独アーチの橋という考えは、未開人の意見であって、橋は偏に橋台の堅牢度に委ねられる。故に、その橋の強度の持続は短期間だけの事である。[直ぐに崩れるの意]

リアルトのために、彼は中間の2つの橋脚の中央に完全な半円形の大きなアーチを提案した。河岸上の橋台と共に2つの小さなアーチを支えるだろう。
……
アントーニオ・ダ・ポンテ像[ダ・ポンテ像、サイトから借用]  18世紀の研究者によると、3アーチという解決策を持つヴィンチェンツォ・スカモッツィの案が元老院に選ばれるはずだった(1587年)としている。17世紀と19世紀の歴史家は、提出された色々の案について仄めかしているが、選択としては単独アーチのアントーニオ・ダ・ポンテ案が考慮された(彼は建造現場の監督だった)としている。
[アーチ1個案が選ばれる結果になりました]
……
実際の建造作業と共和国の政府機関の、危険を能く知った配慮が失敗を阻止した結果となったが、困難な過程は大きな橋が失敗作になった可能性もあった。しかしそれは、大運河の川床に支えられた訳でもなく、中断なしに大きなアーチで大運河を跨越し、泥濘に打ち込まれた橋台の重さの圧力に堂々と耐え、潮の流れや巨大船も危険なく上向下降させ、大理石の舞台、というよりモニュメンタルな背景、言わずと知れた水の大通りを、隠すことなく正しく設定したからである。
ジュゼッペ・ボルサート画『リアルト橋』鳥瞰的リアルト橋[左、ジュゼッペ・ボルサート画『リアルト橋』] それは直ぐ様、ヨーロッパ中に知れ渡った。……」
 ――ヴェネツィア学院送付の文章から

各国の語学生で成り立つ語学学校です。コロナ禍中、人の行き来が途絶えれば、生徒はゼロ、経営破綻は目に見えています。日本の日本語学校も同様でしょう。懐かしい先生方の顔が目に浮かびます。何とも成す術はありません。下手な訳文、申し訳ありません。
  1. 2021/01/08(金) 23:20:43|
  2. ヴェネツィアの橋
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの民話: 魔女と黒猫

下のような2ユーロ硬貨をご覧になったことがありますか。硬貨に刻まれた年号から、2017年にヴェネツィアで催された事に関する硬貨ではないかと思われます。サン・マルコ寺院が刻まれています。何かをを記念したのでしょうか。
2ユーロ、表2ユーロ、ヴェネツィア[左、2ユーロ表、右、その裏面――表のユーロ地図はイギリスが抜けたので、変更になるでしょう。]

以前にも紹介した事のあるM. ブルゼガーン著『ヴェネツィアの神話と伝説』(Newton Compton editori、2007)から、《La strega e il gatto nero(魔女と黒猫)》を紹介します。
ヴェネツィアの神話と伝説「サンタ・マルタ地区に住む若い船頭の話である。長年働き、苦難の末、ある額の貯えをすることが出来、若い恋人と結婚することが出来たのだった。まる1年も経たずにこの結婚で、可愛い男の子を授かった。若い二人は幸福至極となり、この神からの授かりものを地上の最後の赤子でもあるかのように、可愛がり、キスし、腕で抱き締めた。

しかし半年経った時、子供は具合が悪くなり、少しずつ容態が悪化し、死に至った。

この若い両親の悲しみ、息子を失った苦悩、尽きせぬ涙は想像に難くない。幸いなことにその悲しみは三月も続かず、若い妻は再び妊娠した。出産は滞りなく進み、可愛い次男が誕生し、長男の死という悲しみを忘れさせた。残念な事に6か月後に病が起こり、この幼い命は尽きてしまったのである。

母親は更なる命の喪失の苦しみのため、丸で気が狂ったようになったが、夫が直ぐに慰撫した。しかし時は進み、若い妻は再び身籠り、三男が生まれた。この子も可愛く、愛らしかった。二度と葬式はしないようにと、息子の世話には時を惜しまず、育児に全力を尽くした。それ故、息子を独りにするということは殆どなかった。睡眠時のみが母親の気の休まる時であり、また家の事や家族の事に携わった。

しかし限りなく注意を払っていたにも拘わらず、この度も充分でなかったのか、この三番目の息子が6か月を経た時、衰弱を始めたのである。恐怖に襲われて気が違ったようになった母親は息子を助けるべくあらゆる手段に全力を尽くし、評判の医者を呼び、可能な限りの薬を飲ませ、持てる全財産を使った。しかし子供は回復しない。

見誤るような事態にならないよう、揺籃の傍に敷いた藁布団の上で縮こまったように、子供を見守りながら夜を過ごした。ある日の真夜中、子供が泣くのを聞き、眼を開けてそちらを見ると、揺り籠に黒猫がおり、猫は気付くと直ぐ様部屋の外に逃げて行った。

妻は直ぐに夫を呼びに行って、その不思議な出来事を知らせた。漁師はその話にうんざりしたが、何が起きたのかよく知りたいと思い止まって、次の夜、子供を隠して様子を見ようと決めた。

こうして次の夜、用心のために暖炉からよく尖った焼き串を用意した。丁度真夜中、子供が泣くのが聞こえた。見ると、黒猫が揺り籠にいた。で、焼き串を摑むと怒りに任せて猫に襲い掛かった。猫は揺り籠から跳び下りて、電光石火逃げ出した。獣は余りにも素早く、何も出来なかった。ただ焼き串を投げ付けると左の前肢を擦っただけだった。

翌朝若い妻が子供の様子を見に行くと、明白に良くなっているのが見て取れた。喜んで、仕事に出掛けようとしている夫にその事を告げた。その後隣のアパートに住む姑(madonaヴェ語=suocera伊語)の所に行った。大声で姑を呼んでも、返事がない。更に呼び、ドアを何度も叩いた。すると奥から非常に微かな声が聞こえ、調子が悪いから帰ってと答えた。

ちょっと心配になり、若妻はその言葉を無視して、中へ入ると姑はベッドで上掛けを顎の下辺りまで引いて寝ていた。もっと上まで上掛けを引き上げるように勧めたが、動く気配はなかった。おやつを置いたが、敷布の下から手を出そうともしない。昨夜の事を話しても喜ぶ気配はなかった。若い女は到頭姑を独り残して、立ち去った。

昼食に夫が帰宅した時、若妻は彼にお母さんの具合が悪くて、何も食べないし動こうともしないと言った。二人は家を出ると、母親のアパートに行った。挨拶をして、具合はどうか尋ね、スープを差し出した。しかし母親は動こうともせず、寝床から腕も出さなかった。若い夫は普段にないこの態度に不審を抱き、突如母親の上掛けを剥ぐった。と、病人の左手は血で汚れた襤褸切れで包まれていた。

《ここ、どうしたの? 何が起こった?》母に尋ねた。《何でもないよ、怪我しただけ》彼女が答えた。《見せて》こう言うと母の手の包帯を剥がした。

ビックリ仰天だった。腕の傷は鋭く尖った物で抉られたように深く、煤けた煤煙で汚れていた。《悪魔の女! もう判ったぞ。俺の息子を二人も殺したんだ》

もう母親を絞め殺さんばかりった。しかし女の涙と哀願で、結局出来なかった。結局、この女は今まで自分の母であったし、能く知られているように、やって来た事を再度やることは二度とないだろうからである……見付かった魔女は二度と妖術を使うことは出来ないのだ! 」
 ――M. ブルゼガーン著『ヴェネツィアの神話と伝説』から
  1. 2020/12/29(火) 20:49:14|
  2. ヴェネツィアの伝説
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの街灯の歴史(3)

(続き)
「しかしながらガス料金は、アルコール類に比べて決定的に低価格だったにも拘わらず、その導入には住民側から強い拒否の声が上がった。悪臭があるということが原因だった。特に芸術家達は光源の強烈さやその色合いを嘆いた。その明かりは、ナトリウム、カリウム、リチウム、銅の塩基の中に浸したランプ用の網を使用するので、その対策を講じるため時間とともに模索していた。

炎の点火と消火は手で行われ、ガスの流出口のガス栓の開け閉めは長い棒を使用した。

20世紀の初めから、各々の照明箱の中には、ゼンマイ式の1週間の自動巻き時計が内蔵された。しかしこのやり方は、ガス点火の小口に1日中種火を点火しておく必要があり、決められた時間に網の点火と消火させるレバーを時計に操作させた。

1886年電気による照明プロジェクトが始まり、ジュデッカ島で最初の実験が行われた。翌年市はWalter Edison社に10年間個人への電気の配給を許可した。公道での施設はガス会社が独占権を主張していた。

1889年チェントロの狭い区域に小さな施設を作ったヴェネツィアの電気照明の株式会社が創立された。とはいえ矢張り、主人顔するのはガスで、市とLa Lionese(ラ・リオネーズ)の契約の更新は1909年に行われた。その契約では元のマルテ広場、現サンタ・マルタ広場地域に小さな工場を予定していた。

市はいかなる街灯システムであろうと導入し、適用することは制限されていない、とはしていたが、ガス利用については、最小量であろうと補償はするつもりであった。後に法律でこの但書きは決定的に廃止され、1922年には町全体の街灯のためにはガスから電気に変わることが決定された。
サン・マルコ小広場岸壁ラグーナの街灯[ヴェネツィアでは潟でも、夜間の航路を明示するためブリコーラの上に街灯があります]  当時の、そのフランスの会社(ラ・リオネーズ)がイタリアのものとなって Italgas(イタルガス)がこの会社を所有することになり、マルゲーラ港の新しい産業の基軸から化石燃料を町の末端まで配給する準備を整えた。……」
 ――ネーリ財団銑鉄博物館のサイトから
蛙を持つ少年税関岬2013.03.22日のブログ蛙を持った少年で書きました、この白い少年像は、汚されないように常に警備が必要で、その上市民にも評判悪く、数年後撤去されましたが、その跡に、以前あった街灯(1800年代様式)が蘇りました。漫画家谷口ジロー著『ヴェネツィア』(双葉社、2016年11月23日)には《蛙を持った少年》像が描かれ、短い期間展示された像の“記念作品”となっています。
  1. 2020/12/07(月) 17:00:35|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの街灯の歴史(2)

(続き)
「……邸館の壁面に、最初843灯取り付けられ、1761年には1750灯、、1773年4月には1778灯と増加した。《サン・マルコ広場と広場に隣接する道を含む、市の夜間照明に必要な油》についての記録で、19世紀初めにセレニッスィマ共和国が2030灯の照明を準備したことが知れる。細かく言えば、ジュデッカ島12灯、ゲット地区27灯、サン・マルコ広場76灯、1915灯は町中に広がった。
点灯[サイトから借用]  点灯の係員は、仕事をより良く遂行するための梯子や道具類を所持した、ヴェネツィア語で bolleghieri という点灯夫である。

1839年7月、ガスを使用してのサン・マルコ広場とその周辺の照明の請負を決定するため、フランスの会社《De Frigère, Cottin, Montgolfier, Bodin(ド・フリジェール、コタン、モンゴルフィエール、ボダン)》との契約を結ぶ会合があった。

《他の主要都市より劣っているというものは何もないヴェネツィアは、特に再び美しく顕著になるとしても、現実にミラーノで動きつつあるガス灯問題に無関心ではいられない》と注記されている報告書は、新しいシステムの導入を提案していた。そのシステムとは、4面を囲われ、下部はクリスタルガラスで、薄い鉄板で作られた街灯146灯でサン・マルコ広場、スキアヴォーニ海岸通り、メルチェリーア通り、サン・バルトロメーオ広場、ラルガ大通りの主要な場所を照明するというものであった。

《La Lionese(ラ・リオネーズ)》というフランスの会社は、サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャに最初のガス工場を建設し、1843年3月の13、14日にはその点灯の実験を行っていた。しかし2年前の2月には既に、屋外空間を明るくする提案が認められていたのである。それは《広場がどんな状況であろうとも、新聞が読めるような反射板が取り付けられた、2つの火口で点火する明かりが上部で点灯する構造の、鉄製の燭台置かれていた。》ということ。

しかし1864年までは、大半の地域では未だオイル・ランプが残存していた。その同じ年、そうした古い明かりの契約が満了になったので、ガス灯再検討のチャンスとなった。その会社は6年以内に全市に新しいガス燃料システムを拡大し、既にある1368灯に追加して500灯の街灯を取り付ける仕事を引き受けたのである。

それは邸館のファサードに鉄で取り付けたランタンであり、銑鉄を溶融して造った縦の棒から吊るした明かりであり、正に街灯(lampione)とか燭台(candelabro)という言葉に相応しいものであった。……」 (3に続く)
  1. 2020/11/30(月) 06:49:14|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:0

ヴェネツィアの街灯の歴史(1)

ヴェネツィア・ブログ(ORIGINE E STORIA DELL’ILLUMINAZIONE PUBBLICA A VENEZIA)に、街を明るくする街灯の歴史を書いたものがありましたので、紹介してみます。

「1000年以来、街の通りや運河を明かるくするめに、ヴェネツィアが講じた初歩的な措置について書いた、はっきりした記録が残っている。そのデータによれば、夜間街を移動することは非常に危険であることを示しており、通りを照らす明かりが全くないので、店や住宅に入れば暗闇が更に倍加すると考えるられる。

店や住宅は全く木製であったから、頻繁に起こる火事の危険を避けるため、明かりや火を点けることは禁じられていた。

1128年に総督ドメーニコ・ミキエールの統治下で、夜間通行のため、家の壁面に小さな明かりが置かれることが始まった。遠くからでも視認出来て、通行人に勇気を奮い起こさせた。しかしそれは当時の要求に一部は応えたものの、必要性という点では、全く適合したものではなかった。

しかし丸で評価されなかったということではなくて、夜に移動を要請される人の配置の時(艤装中に必要な松明は後にカンテラに変わった)、特にペストや騒乱時、あるいは無法者からの守護に緊急かつ必要な時、明かりは各家の主に、獣脂蝋燭に点火した角灯を一階の窓に置くように指令が飛んだことも有り得ただろう(1500年代初頭から繰り返されたことである)。

こうしたやり方や処置は1730年まで続く。この年漸く、石油ランプで町全体を明るくするという目的に適った照明が設置された。……」 (2に続く)

Giovanni Distefano著『Atlante storico della Serenissima(ヴェネツィア史) 1100-1399』(Supernova、2010.02)の年表の1128年の項に、次のような記事が載っています。
ヴェネツィア史「……それから夜陰に潜む危険を阻止するために、共和国の費用で設置することが決められた、cesendeli(チェゼンデーリ)という壁面に吊り下げられた小さな獣脂蝋燭の明かりで安全性に欠ける通りを照らすことが決められた。一方その管理は教区司祭に委ねられる。司祭には小さな礼拝堂(壁龕)か祠、即ち聖像の上にcesendeliを置くことが求められたが、それはならず者の悪事を働く気を殺ぐのに貢献させようとしたことであった。

この種の明かりでは殺人や暴力行為、盗み等々にブレーキを掛けるにはあまりにも不十分であったが、ヴェネツィアの町を管理する仕事を選ぶFanti(pueri)の人数を増やすことを決定することになるだろう。」
capitelo[capiteloの例。サイトから借用]  "Cesendeli"というのは、街の通りなどにあるマリア像等を祀る小さな祠(capitelo―伊語capitelloは柱頭の意)の聖人像の前に置かれた、風で消えないようにムラーノ・ガラスで囲われた仄かな明かりの事で、教区司祭の管理下に置かれていたそうです。古代ローマの博物学の権威大プリニウスが小さな明かりを cicindello と呼んだそうで、この言葉はフィレンツェでカラフト蛍を指すと言い、cesendelo はこの言葉に由来するらしいです。今や町の周辺部や野原から姿を消したため、ピエール・パーオロ・パゾリーニに愛惜されたのだ、とか。
fanti(pueri)=fanteは、伊語garzone(法務局の徒弟、使用人)、pueroは少年の意。2018.09.20日のヴェネツィアの夜の徘徊もご参照下さい。
  1. 2020/11/24(火) 01:04:26|
  2. ヴェネツィアの街
  3. | コメント:0

文学に表れたヴェネツィア: 『失われた手稿譜 ヴィヴァルディをめぐる物語』

ヴェネツィアの作曲家アントーニオ・ヴィヴァルディについて、今迄何度か触れていますが、彼の作品が現代に蘇る過程を文芸作品にしたものがあることを知り、読んでみました。20世紀以前、パリでプレイエル等で定期的に開かれていた演奏会で能く演奏されていた曲に『四季』があったそうですが、曲名は知られていても作曲家の名前は忘れ去られていたそうです。そんなヴィヴァルディが復活したのは20世紀です。
失われた手稿譜自筆譜が発見され、世界的に蘇ったのです。フェデリーコ・マリア・サルデッリ著『失われた手稿譜 ヴィヴァルディをめぐる物語』(関口英子・栗原俊秀訳、東京創元社、二〇一八年三月二十三日)は、ヴィヴァルディがヴェネツィアを去り、ウィーンに向かった後、ヴェネツィアに残された弟のフランチェスコ達から物語は始まります。

自筆譜発見について、最終章《出典に関する注記》の中で著者は次にように言っています。
「……こうして二十世紀の出来事に至るわけだが、この時代については歴史的な証言が豊富に残されている。史実が空想を超えるというのは、しばしば起こることなのだ。一九二五年、ボルゴ・サン・マルティーノに建つサン・カルロ修道院サレジオ会士に、マルチェッロ・ドゥラッツォの貴重な手稿が寄贈された際、手稿は堆肥を運搬する荷車に積まれ、そのまま無造作に地面へ直接投げ出され、《ページがめくれ、湿気を帯びた》状態で山積みにされた。これは決して、聖職者に対する私の反感から生まれたほら話ではなく、アルベルト・ジェンティーリの娘であり音楽史家でもある、ガブリエッラ・ジェンティーリ・ヴェローナによる詳細な報告を典拠としている。

彼女は、一連の経緯について当事者たちにインタビューをした後、その内容を丁寧に論文にまとめている(トリノ国立図書館のフォア=ジョルダーノ・コレクション)。同修道院のサレジオ会士たちが、ドゥラッツォの寄贈書をかくも丁重に受け入れたあと、それをすべて売り払って荒稼ぎした経緯は、トリノ国立図書館の未整理の文書ファイルに保管された多くの書簡によって証言されている。

一方のサレジオ会士は、この重要な譲渡について伝える書類を一切保存していない。ペレーラは、ヴァルドッコの文書館に自ら調査に赴き、素晴らしい研究書《ヴィヴァルディ、第五の季節》にその成果をまとめている。これは、その大半が未発表の史料を活用しつつ、手稿譜の再発見に至る経緯を語った書籍である。
……
ルイージ・トッリとアルベルト・ジェンティーリの二人(とくに後者)は、一連の経緯における真の英雄である。今日の私たちがヴィヴァルディの音楽を知ることができるのは、二人の嗅覚と知性、そして公共の利益のために手稿譜を国有の財産にしようとした不屈の努力の賜物である。現代の聴衆が、ヴィヴァルディの音楽に耳を傾けるとき、二人の偉大な男の努力に思いを馳せることはほとんどない。

言ってみれば、私の本は彼らの功績に捧げられた、ささやかなオマージュである。トッリとジェンティーリ(さらに、ヴィヴァルディの発掘作業において重要な役割を果たした貴族にして司書、ファウスティーノ・クルロ侯爵)に関する記述はすべて、豊富な史料、手紙、当時の新聞記事などから抽出されている。ただし、ベルギー人のトラピスト修道士をめぐる謎かけのエピソード(ヴィヴァルディの発掘とはなんの関係もないものの、クルロ侯爵の内部で燃えさかっていた紋章学・書誌学への情熱をスケッチするには有益といえる挿話)には典拠があるのに対し、ジェノヴァ出張について書かれたクルロの日記は私の創作である。

とはいえ、クルロ自身が記した言葉や経緯が、私の《創作》の根拠になっている。クルロ侯爵の手による、タイプライターで書かれた詳細な報告書には、一九二七年十一月十一日から十七日の日付が入れられ、《“マウロ・フォア”コレクションを補完するその他の手稿を探すためのジェノヴァ出張》という題がつけられている。

統帥の前でトッリが文飾に満ちた大仰な演説を披露する場面でも、残念ながら、私の創作によるものは一切ない。あの演説は、フォア・コレクションの発見が公にされてから三年後に書かれた、トッリ本人による論説記事のなかの言葉であり、原文はさらに大仰で文飾に満ちたものである。基本的に、ジェンティーリ、トッリ、クルロと、彼らの通信相手とのあいだでやり取りされた書簡や電報は、先にも触れたトリノ国立図書館の文書ファイルに保管されている真正の史料からの引用である。……」

今迄ヴィヴァルディについては、2010.04.03日のヴィヴァルディとアンナ・ジロとか、2011.12.17日のティツィアーノ・スカルパ、また2008.07.15日のヴェネツィア室内合奏団、2013.10.12日の大島真寿美等で、色々に触れています。
  1. 2020/11/17(火) 00:10:49|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
  3. | コメント:0

文学に表れたヴェネツィア: 小説『イタリア・ルネサンス Ⅰ ――ヴェネツィア』

塩野七生さんの小説『イタリア・ルネサンス Ⅰ ――ヴェネツィア』(新潮文庫、令和二年十月一日)の広告を見て、早速購入しました。この小説は朝日新聞社から出版された『緋色のヴェネツィア 聖マルコ殺人事件』を大幅改稿、改題されて、今度は文庫の形で出版されたようです。主人公のマルコとアルヴィーゼがヴェネツィアとコンスタンティノープルの間を行ったり来たりするので、ヴェネツィアらしい描写はあまり見かけませんでしたが、次のようなヴェネツィアならではの文章がありました。
イタリア・ルネサンス 1「ヴェネツィアが都市として形づくられたのも、潟の中でも地盤の強固な島の集まるリアルトと呼ばれる一帯で、この一帯にある島々を橋をつないでできたのが、今日でも見るヴェネツィアだ。だから、ヴェネツィアの運河は、はじめから運河としてつくられたのではない。もともと島の間をぬって流れていた水流が、両側をかためられることによって生かされ、運河となって流れているだけなのだ。

一見すれば一面の海にしか見えない潟の中にも、天然の水流が網の目のように通っている。その通りをよくすることは、船の運行のためだけではなく、衛生上でも重要な仕事だった。

川から流れ込む淡水は、意外と腐りやすい。これがよどんでくると、マラリアの温床になる。海からの潮の満ち干も考えて、潟の中の水が常に流れている状態にすることは、水の上に住むヴェネツィア人にとっては、至上の命令でもあったのである。

しかし、潟の中を流れる天然の水流にも、大型船も通れる水深十メートルもあるものもあれば一メートルにも満たない浅い水流もある。それだけでなく、満潮のときは海水におおわれてわからないが、干潮時には水面に顔を出す、浅瀬も多いのが潟の特徴だ。

これでは、少し油断すると、ゴンドラでも泥地にのりあげてしまうことがある。それで、ヴェネツィアの潟には、海中にずっと、水の杭が並んでいる。舟の航行可能な水路を示すためだ。だから、杭には、何メートルと、その水路の水深度も記されている。

敵が迫れば、これらの木の杭を引き抜くのだ。他国の人は、一面海に見える潟の中にもさまざまな深さの水流が流れているとは知らないから、大型船で攻めてきはしたものの、たちまち浅瀬にのりあげてしまう。敵船が動けなくなったのを見はからって、ヴェネツィアの小舟の船隊が襲い、敵を撃滅するという戦法だった。

現代のヴェネツィアは、本土との間が、鉄道と自動車道でつながっているが、これらがつくられたのは、二十世紀に入ってからである。それまでの一千五百年もの長い歳月、ヴェネツィアは、文字どおり、「海の上の都」であったのだった。

中世時代をもつ都市ならばどこにもある、市街地全体を囲む城壁は、ヴェネツィアにはない。海が、城壁であったからである。……」

現在の地図を見れば判ることですが、ヴェネツィアがした更なる事は、潟が陸地化しないようにブレンタ川を運河化し、シーレ川を直接外洋に出るように工事して、土砂が潟に流入しないよう大工事したことでした。この事で、シャルル8世時のフランスのヴェネツィア大使フィリップ・ド・コミーヌ(1494~95)が、大運河を《世界で最も立派な大通りであり、最良の技術で建築された家のある通りであり、都市の端から端まで続いていた》と感想を漏らしたほどのものの実現が可能になったのでしょう。
小説『ヴェネツィア』[『イタリア・ルネサンス Ⅰ ――ヴェネツィア』の見開き頁の例] 興味深い内容が書かれています。
  1. 2020/11/10(火) 00:22:54|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
  3. | コメント:0
前のページ 次のページ

カウンタ

カレンダー

03 | 2021/04 | 05
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

最近の記事+コメント

カテゴリー

リンク

ブログ内検索

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

リンク

このブログをリンクに追加する

過去ログ

フリーエリア