イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

学校対抗レガッタ

La Nuova紙によりますと、先日学校生徒間の対抗レガッタが催されたそうです。

「 ヴェネツィア、中学高校対抗櫂漕大会
――サン・ビアージョで明朝土曜日、第37回学校対抗の櫂漕大会が開催。120人の初心者の生徒達がカオルリーナ舟での2つの競艇。Ciniと市の共催――

櫂漕によるヴェネツィアの生徒達120人。明朝学校対抗レガッタが、2017年中断後、第37回目がやって来る。予定の競艇は2つで両者共にカオルリーナ舟。第1試合は中級の中学生が挑戦(申込みは10艘)、第2試合は小学生(9艘エントリー)。

折り返し地点のポールが設置されない、15分ほどの短いコース。チーニ=ヴェニエール・ヴィットーレ・ペッキーニの校長や教師サビーナ・ロエンツィーニ、ジョヴァンナ・ディアーナら、スタッフが見張り役。《我々は社会貢献を期待しているのです。》と、学校当局の責任者は語る。《こうした指導が広まること、ヴェネツィアの人口統計のデータが下降し続けていることを意識してのことです。》

《一度いいニュースがありました。》と、“ジョヴァンニ・ジュスト櫂漕”の代表取締役は言う。《昨年の中断後、我々は学校対抗レガッタを再組織することが出来ました。舟上に、上級生のみならず、中学の下級生まで組織出来たのです。》

第1試合は明朝10.15分、第2試合は11.45分出発して、サン・ビアージョ岸の大会事務局到着まで。 ……」
Vogalongaこのヴェネツィアの学生達の大会の1週間ほど前、恒例のヴォガロンガの行事がありましたが、私の都合で触れることが出来ませんでした。次の記事です。La Nuova 2です。
  1. 2018/05/28(月) 12:28:34|
  2. ニュース
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書籍『ヴェネツィアの高級娼婦』(3) 

(続き)
「フォンターナの論拠は、かなり議論に値するもので、事実書かれた時代としても、彼の最新の論文の中に纏められている。《「歴史家は真実を述べなければならない。真実が述べるに値し、必要な時は、記憶に留めなければならない。しかしこれはその場合ではない。意地悪い才能がないなら、真実を明らかにする適切な性癖がないなら、健康な大衆の不賛成に出くわすので、per piacere a quattro 姿を現すことはない。
ヴェローニカ・フランコの肖像[コッレール美術館のヴェローニカ・フランコの肖像]  天賦の才を持つ人、彼女は書いている[ここでフォンターナはタッスィーニを向いているのだが]、酷い身形かも知れない、そしてヴェローニカは才能豊かな娼婦であった。しかし問題はそんな身形であったということではなく、一人の作家がある日大衆にその事を告げるのに非常にあけらかんと大まかにしか語らなかったということなのである。

あなた方の評価の前にこの女をあなた方の侮蔑と共に紹介します。ご存知と思いますが、彼女は有名な作家であり、かつまた著名な娼婦でもあります……》

フランコの職業の事実を否定は出来ないので、だから彼女の擁護者はそれを明らかにする、間の悪さを感じて、結論として愛国主義の中に逃げ込んで、次のように言う。《……我々はヴェネツィアを守るために、フランコを守る。なぜならヴェローニカの不名誉は、ヴェネツィアの不名誉となるからである》。

タッスィーニに関しては、彼は自分の所有する資料に確信があり、第2版の中で本の題名を変更することで満足し、《娼婦 meretrice》という言葉を、実際そんなに醜くはない、《高級娼婦 cortigiana》という適切な用語に変えた。

何年かして、我々により近い年代で別の擁護者が“カタログ”のヴェローニカ・フランカは、『第三詩集』と『家族書簡』のヴェローニカ・フランコでは有り得ないと正に主張しようとした。何故なら“カタログ”の姓名は“a”で終わっていて“o”ではないからである。1500年代には、“a”の語尾が王族の妃を含めて、女性の姓に属するものとする使用法が通常であったことを知らないということはさて置いて、『第三詩集』の大扉でも『家族書簡』の大扉でも、要するに著者は常にフランコではなく、ヴェローニカ・フランカと呼ばれているのである。

フランコやトゥッリア・ダラゴーナのようなコルティジャーナの階級にある者が、“カタログ”の中に、自分の名前を入れる場所を見付けられなかったかも知れないなどという、同じ擁護者の主張は無意味である。 ……」 (4に続く)

[ヴェローニカ・フランコについては今まで、2007.11.03日のVeronica Francoや2010.09.18日のヴェローニカ・フランコ(1)~2010.10.19日のヴェローニカ・フランコ(4)等で、また違った面から触れています。]
  1. 2018/05/25(金) 01:00:15|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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書籍『ヴェネツィアの高級娼婦』(2) 

(続き)
「《書簡》の美しき著者は、5年前弱、《セレニッシモな我が殿御で御座せられ、尊敬措く能わざるマントヴァとモンフェッラートの公爵》に捧げた《第三詩集》を出版した詩人でもあるが、その捧げられたグリエルモ・ゴンザーガは、ルネサンスがこの地に留まり、多様化するのを見たのであり、量においても質においてもヴェネツィアはローマに張り合った、恋愛商売という軍団に属していた。
ティントレット画『ヴェローニカ・フランコの肖像』[ティントレット画『ヴェローニカ・フランコの肖像』、米国マサチューセッツ州ウースター美術館蔵]   即ち高級娼婦とは、売春の中でも選りすぐりの階級であり、1500年代に正にヴェネツィアで栄えた、洗練され、享楽的な文化のオリジナルな表現であり、その時代は最も熱っぽく、肉欲的で、繫栄した季節であった。そして彼女自身が正にその手紙の中で説明しなければならなかったように、儲けは多いが危険も多い、その仕事の中で成功したということ、その事を特にセンセーショナルな出来事として示している。

即ちフランス王であり、且つポーランド王であったヴァロワ家のアンリ3世の1574年7月18日から28日の間の、ヴェネツィア共和国表敬訪問の機会に、レーパント戦勝後の沈滞した国家の威信の強化にその存在そのものが貢献する賓客を、セレニスィマ共和国は幻惑しようとの目的で催した祝宴の渦の中で、彼女、ヴェローニカと丸一晩過ごせるよう、彼に身柄を任せられるよう求めたのであった。

そしてヴェローニカは、彼女達の席順の第一位にランクされるという名誉に満足し、王のような奉仕で報いられ(彼女の料金が《カタログ》の倹しい2スクード金貨に比べてかなり増えたことは確かである。第24代ヴァロワはリアルトまでの散歩中、貴金属店で素晴らしい宝石を鏤めた錫杖を手に入れるのに、平然と26000スクードも支払うようなタイプの人間だった)、素晴らしいこの贈物を手にする王、即ちティントレットに描かせた彼の肖像画にペトラルカ風の2篇の飾り立てたソネットを添えて、返礼とした。

また職業、この仕事についてヴェローニカは隠そうと思っていないどころか、逆だった。その態度は事実上、《腐敗して》《醜悪で》《卑猥な》等のカテゴリーに属する状況以上のもので(世界で最古の職業についてのモラリストの言葉は、最もエレガントな意味の中でも責めや非難といった用語が夥しいが)、結局は他の全ての事以上に一つの文学的な事件であったし、現在もあり続けている、そうした事の嚆矢となった。

詩を書いた高級娼婦については、ヴェネツィアとローマで大成功したヘタイライ(Etera―古代ギリシアの高級娼婦、一般の娼婦はポルナイ)だったトゥッリア・ダラゴーナを始めとして、既に他所でも存在した。しかしこの世界へのはっきりした彼女の登場は、あらゆる事を考慮に入れてもそれは平穏なものであったし、後悔していますと喪服用の黒ベールで身を隠したりとか、弁解がましい態度で身繕いしたり等しない詩人ヴェローニカに対する純粋の共感が、ある批評家以上に根底にあったのだが、他の批評家から手厳しく非難される原因でもあったように、モラリスト的偏見に満ちたものであった。そして時間の経過と共に、全く弱まっていきそうにない興味が持たれてしまう始まりだった。

上で述べた偏見がために生じた、その世評がいかなる時点まで広まっていくのか、あらゆる真実や根拠に対して、ヴェローニカの職業を隠蔽し、変装させようとする多くの努力が試みられた。博識のヴェネツィア人ジュゼッペ・タッスィーニよって出版されたものは、現在では基本となる、ヴェローニカについての最初のヴァージョンで、その題名で、この女流詩人を《ヴェネツィア娼婦》と規定した。

それは他の研究者のリアクションを活発に惹起し、少々いい加減ではあるが情熱的に取り組んだジャンヤーコポ・フォンターナは、ヴェローニカは決して娼婦などではなく、ただ変わった主婦であっただけで、夫婦の倫理に関しては、やや軽率であった、と支持し難い論文で述べている。

仏王アンリの訪問についてもフォンターナは、《汚らわしくも悍ましい娼宅に、アンリ3世を受け入れるなど許されもしなかったし、ティントレットが肖像画を描いて、最初から携えてきて彼女と共に過ごすなどなかった》と断言した。
Cortigiana veneziana[以下の引用に誤訳があると思えますので、原文を図版として掲げます] そして結論として《社会や文学に貢献した人から月桂冠を奪取しない……天賦の才の価値を駄目にするほどのものではない、誰にもある人間の弱さというものを赤裸々にはしない……謝意を持って敬意を表すべき名前の人から聖なるベールを手荒に剥ぎ取らない……外国語の読書で壊れてしまった美的センスを持って生きていかねばならない悪徳の巣窟で、愚か者達に求められても協力しない。
しかしかくして、売春が文学となっていく……》 ……」 (3に続く)
  1. 2018/05/18(金) 09:24:58|
  2. 文学
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ヴェネツィアの現在: センサの祝日

昨日曜日はセンサの祝日(伊語でAscensione[キリストの昇天]の祭り―復活祭から40日後の木曜日。ヴェネツィアは直後の日曜日に変更しました)で、ヴェネツィアでは恒例の《海との結婚式》の行事が執り行われる日です。日曜日のLa Nuova紙から、この日の行事予定を訳してみます。
レガッタ「この週末、ヴェネツィア人が待ち望んでいる行事との出会いが今年もやって来た。2018年センサは時に、この町と海との結婚としてよく知られたイヴェントに次ぐ各種の行事が目白押しである。これは宗教的であると同時にスポーツ的で、櫂漕のチャンピオンシップを賭けたレガッタに代表されるスポーツである。

ヴェネツィアと海との結び付きは、今日ではシンボリックなものであるが、かつては商業航路とアドリア海の海外領土獲得のための軍用航路としての収入の源であったが、それは住民と旅行者に町の伝統を活性化させるための機会であった。

事実センサの祭りは、二つの重要な事件を思い起こさせる。総督オルセーオロ・ピエートゥロ2世が、1000年5月9日スラヴ人に攻められていたダルマツィアの人民への援軍と、総督セバスティアーノ・ズィアーニが教皇アレクサンデル(Alessandro)3世と皇帝フリードリヒ(Federico ⅠBarbarossa)1世赤髭王の間の平和協定を取り持った1177年の取り決めである。

Vera Spa(帆会社)によってうまく調整され、センサの祭りは一連の行事がうまく結び合って、本日の17時にはアドリア海の姉妹都市提携が始まり、歴史の流れの中でヴェネツィアと特別の関係があった都市や地域との繫がりを生かしたいとしている。

2016年のフィレンツェ、昨年のモンターナ・アゴルディーナ同盟との後、今年はクロアティアの都市、プーラ(Pola)、ウマグ(Umago)、ノヴィグラード(Cittanova)、メドゥリン(Medolino)、ロシーニ島(Lussino)、ツレス島(Cherso)、ラブ島(Arbe)とセレニッスィマ共和国との歴史的関係を強化する。

式典は総督宮殿で行われる。市長はアゴルディーナ共同体から指輪を受け、クロアティア海岸都市にそれを手渡す。続いてヴェネツィアとその千年の歴史が伝えてきた価値を活用し、信頼し、注意を喚起する抜きん出た行為、あるいは態度を世に示した三人の人物に、2018年センサのオゼッラ金賞の授与式がある。

日曜日当日には、センサ祭委員会の活動のお蔭で、1965年まで繰り返されてきた海との結婚式が再現される。9時30分にはサン・マルコ湾からセンサの水上パレードが出発する。

リードのサン・ニコロ教会前の海上に一度到着すると、総督の指輪を水中投下する海との結婚の儀式が10時30分に祝われる。それ故サン・ニコロ教会での宗教上の荘厳ミサは11時30分となる。

また9時からはサン・マルコ湾とリードのサン・ニコロの海岸の間は、レガッタ用となる。一番手は青少年のプッパリーン舟、9時45分は女子の2人漕ぎマスカレータ舟、次いで男子のレガッタは4人漕ぎのゴンドラ舟(10.30)。しんがりは12時からサンタンドレーア水上機停泊地で、schie とmaciarele のregata(レガッタ)となる。 ……」
[スキーエとマチャレーレの舟形は“regata delle schie”“regata delle maciarele”を図版で検索してみて下さい。]

海との結婚式の謂れについては、2010.04.24日のアッカデーミア美術館や2013.04.27~2013.05.13日の海との結婚式(1~4)等で色々に触れています。

追記: 日曜日のセンサの様子はLa Nuova 2でご覧下さい。
  1. 2018/05/14(月) 12:34:00|
  2. ニュース
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ヴェネツィアの現在: 鴎の被害

ヴェネツィアのユリカモメによる損傷事件をLa Nuova紙が伝えています。
鳥に襲撃される[カッフェ・フロリアーンの屋外席] 「 ユリカモメに襲われ、病院へ
――ある女性が憲法橋を渡っていた。大きな鳥が彼女からクルミの実を奪おうと唇を傷付けた――

胡桃を食べていると、彼女の口唇からそれを奪おうと鴎が飛び掛かり、傷を負わせた。凶暴な Magoga(水鳥―老婆の意も)の犠牲となったのは、カンパルトのデーボラ・ルカテッロさん。彼女は昨朝、息子の先生との面談のためにチェントロに向かっていた。10時40分頃、飢えた水鳥に襲われた。

《私はピアッツァーレ・ローマでバスを降り、面接時間に間に合うように朝食も摂らず、駅の方へ向かいました。カラトラーヴァ橋を越し、レジョーネ館下の軒下通りを潜る前、バッグに入れていた胡桃を取り出し、まだ朝食を食べていなかったので食べようと思いました。殻を剥き、軒下通りから出て、海岸通りに降りる最後の段に掛かった時、鴎が私に突進して来たのです。》と未だ冷めやらぬ驚天動地の思いの中で、ルカテッロ夫人は語っている。 ……」

近年鳩に餌をやることはサン・マルコ広場では禁じられ、屋台では売っていません。市庁舎のダンドロ=ファルセッティ館の右隣コルネール=マルティネンゴ・ラヴァ館は2階が市の結婚式場で、式終了後、門から出て来た新郎新婦に祝福の米を降り掛けました。その米を目当てに、訳知りの屋上に待機していた鳩達が一斉に飛び付いて来ました。突然の大群にびっくりしましたが、鳥嫌いの人はもう2度と…と言っていました。

妻はホテル・ダニエーレの屋上レストランで昼食をした時、矢張り鴎が飛来し、待機しているカメリエーレが撃退用の棒に布を付けて旗のようにして追い払ってくれたと言ってます。町中でも外で食事が出来るレストランでは、鳥達も判っていて、飛んできますが、人の方も準備万端、撃退用具の設置に余念はありません。一つには観光客の興味本位で、鳥に口移しで餌をやったりすることに鳥達が慣れ親しんだこともあるのでしょう。

私の住む八王子の浅川から、近年毎年飛来していた鴨の大群が冬場姿を見せなくなりました。他の水鳥も同様で、鷺の姿も数羽です。浅川をコンクリートで固めた護岸工事で、冬場は土の土手に潜って越冬する水中昆虫が激滅し、それを食べていた小魚、それを餌にしていた鳥達も住めないのに、小魚を乱獲する、住民の放した鯉が勝ってし放題なのです。川ではない単なる放水路になってしまったに違いありません。この近辺は多摩丘陵と浅川に挟まれて野鳥の宝庫と言われていました(天皇が学生時代、野鳥を見に来られたとか)。路傍の山野草(“雑”草などという日本の野生植物はありません)や自然の気ままな野鳥好きには言葉がありません。

La Nuova紙が以前掲載したラグーナの野鳥達の姿を、2、3掲げてみます。La Nuova 2La Nuova 3La Nuova 4La Nuova 5等です。2013.08.12日にヴェネツィアのフラミンゴについて触れました。
  1. 2018/05/13(日) 16:36:33|
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書籍『ヴェネツィアの高級娼婦』(1) 

先日ソッコルソ運河通りについて書いた時、ヴェローニカ・フランコについて触れました。ヴェネツィア学の碩学アルヴィーゼ・ゾルジ(Alvise Zorzi)氏が『ヴェネツィアの高級娼婦――ヴェローニカ・フランコと詩人達 1546~1591』(Camunia editrice srl、1986.04)という本を書いておられます。例えば日本で出版されている彼のものとしては、下記の
アルヴィーゼ・ゾルジ『ヴェネツィア歴史図鑑』『ヴェネツィア歴史図鑑――都市・共和国・帝国:697~1797年』(アルヴィーゼ・ゾルジ著、金原由紀子・松下真記・米倉立子訳、東洋書林、2005年4月22日)があり、この本などヴェネツィアを勉強する人の必読書と言えます。その他にも私がヴェネツィアで購入したものとしては、A4版『Venezia ritrovata 1895-1939』(Alvise Zorzi、Alnoldo Mondadori Editore、1995.09)は、貴重な写真が豊富に収集されている本です。
アルヴィーゼ・ゾルジ『再発見されたヴェネツィア 』アルヴィーゼ・ゾルズィ『ヴェネツィアの高級娼婦』このアルヴィーゼ・ゾルジ著『ヴェネツィアの高級娼婦』の第1章の始まりのところから、ヴェローニカを紹介してみます。
「 第1章 ヴェローニカと批評家達
1580年11月6日、ヴェネツィア滞在中の仏国作家ミシェル・ド・モンテーニュは、《ヴェネツィアの貴婦人ヴェローニカ・フランコ夫人》によって上梓された『尺牘の小冊子』が宅送されたことに気付いた。家族の書簡に対するイタリア人の思いが少々特異なことが判ったにも拘らず、彼はそのオマージュを喜んで受け、正しく《ヴェローニカ・フランカ夫人から諸氏への個人的書簡》と題され、《令名かくも高き、この上なく尊き枢機卿であらせられる、ルイージ・デステ猊下に》華やかに献呈されたこの書物を自分に送付した人物に、たっぷり2スクードを謝礼として返礼したのだった。

1500年代のヴェネツィアが正にそうであった、粋な観光の正統的な中心地に度々足を運ぶ彼以外の伊国や他国の数多の旅行者が出会ったように、出版される前、半ば非合法に流布した別の小冊子を、もしド・モンテーニュが手にしていたとすれば、今日ではその小冊子は稀覯本である。

その本は『主要で、誉れ高い、全ヴェネツィアの花魁達のカタログ、花魁達の仇名、娼楼名、花魁達の部屋[……]そして更に殿御の支払うべき玉代。他には優雅に登楼さるべきこと必定なり(Catalogo di tutte le principali et più honorate Cortigiane di Venezia, il nome loro, et il nome della lor pieza, et le stantie ove loro habitano […] et etiam il numero de li dinari che hanno da pagar quelli gentilhuomini, et altri, che desiderano entrar nella sua gratia)』と題され、無名のA.C.の編集で、《全ヴェネツィアの花魁の華、華麗で淑やかなリーヴィア・アザリーナに》捧げられており、モンテーニュはきっと、彼にその本を渡した人に支払われたお礼の額によって、その教養ある貴婦人が売り物となることを知れば、非常に驚いたに違いない。

即ち《ヴェロ(-ニか)・フランカはサンタ・マリーア・フォルモーザ広場で、pieza so mare(彼女の母親が身元保証), scudi 2》。これが意味するところは、《家族書簡》の著者が母親の斡旋で自分の体を日常的に売りに出しているということであり、その母親自身も同じ《カタログ》で明らかなように仲介無しで同様な商売をやっていたのである。《カタログ》曰く。《サンタ・マリーア・フォルモーザ広場のパーウラ・フランカ、pieza lei medema(彼女自身の斡旋), 2 スクード》

カタログには明らかな根拠があり、1580年より相当前に遡る。1566年再び印刷者ジローラモ・カピレーノは、多分この事に違いないが、許可なく印刷した廉で起訴された。そして1冊当たり1ドゥカートの罰金を払う刑を受けた。しかし1570年以後はもう印刷はしなかった。

ヴェローニカのその年に記述されたものによれば、彼女の母が死んでいる。仏人の旅行者に贈呈された《家族書簡》が上梓された同年の1580年に、正にヴェローニカは公式の記録の中でも《公娼》と定義づけられている。それ故疑いはないのである。……」 (2に続く)
  1. 2018/05/11(金) 09:55:06|
  2. ヴェネツィアに関する書籍
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ヴェネツィアの現在: アックァ・アルタを止める

サン・マルコ寺院に入ると1966年のアックァ・アルタの時の大被害の模様が壁面に残る汚水の染みの痕から想像されます。当時の模様は2013.01.26日のアックァ・アルタ》(3)で触れました。2013.01.19日の高潮(アックァ・アルタ)(2)ではアックァ・アルタの発生原因について書きました。先日のLa Nuova紙は、サン・マルコ寺院への浸水を食い止めようとする工事を漸く始めようとすることのようです。
SMarco「 サン・マルコ寺院への高潮の浸入を止める。5月半ばには工事開始
――5月に大水の70%は食い止める特別バルブの設置――

サン・マルコ寺院はアックァ・アルタの襲来を受け、年平均900時間、水位が70~75cmとなる。この勝手な浸水を阻止すること。5月後半、この工事が開始される予定で、この大水が浸水しないよう70%を減じ、地下工事や水のフィルターによる排水溝を設け、寺院内を乾燥状態に保つ。

入口付近の高価な大理石やモザイク画には、高潮が85cmまで届かないようにする。広場からこの地点まで高潮が“雪崩れ込んで”いたからである。

工事はレオンチーニ小広場側から始まる。工事現場の基礎をそこに置き、工事として除去作業が進められ、寺院の周りに2.5mの帯状の地帯を考慮に入れる。 ……」
  1. 2018/05/07(月) 00:01:55|
  2. ニュース
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ニコロ(Nicolò)、ニコーラ(Nicola)、ニッコロ(Niccolò)

先日、サン・ニコロ・デイ・メンディーコリ教会について書きましたが、Nicolòという名前は、質屋、パン屋、旅行者の守護聖人名で、Niccòla, Nicòlas, Nicòlo, Nicolào, Nìcolo, Nìccolo等(上記を含め)色々変化形があり、それに-ettoや-ino(縮小辞)が付く形もあります。ジュゼッペ・ピターノの名前辞典からNicolaの項を訳してみます。
名前辞典「Nicola(古形はNicolao、その後Nicolò、Niccolòとなる)は、そのオリジンは非常に古い。羅典語のNicolau(m)を経てイタリア語に至ったが、元々はギリシア語のnikào(=vincere)とlaòs(=popolo)が元で、意味する処は人民の中の勝者である。この名前は、聖ニコラウスがバーリの守護聖人になったことから、特に南部で流布し、バーリでは12月6日が祝祭日である。

伝説によれば、聖ニコラウスはコンスタンティヌス大帝時代のリュキア(Licia)地方のミュラ(Mira)の司教であった[リュキアは小アジアの古代地名で、Caria、Pisidia、Panfilia等を含む地域]。トルコ軍が到来し、62人の兵士が異教徒の襲撃にも拘らず、聖遺物を持ち出し、バーリへ運ぶことが出来た。

聖ニコラウスは全キリスト教地域で最も著名な聖人の一人であり、北欧の国々での聖ニコラウスあるいはサンタ・クロースが毛皮で裏打ちされた帽子を被り、贈り物の詰まった籠を背負った、イタリアのバッボ・ナターレ(Babbo Natale)と同定されている。この同定は聖ニコラウスが特に貧しい人や子供達に対して特別優しいという事から来ている。

ニコーラがロシアからの名前であると考える人がいるが、この名が全オリエントで特に崇拝されている事実から見て、それは間違っている。ロシアには彼に捧げた教会が一杯ある。そうした地区での名前の遷り変りは、文学作品やロシア史での数多くのニコライ(Nicola)に寄るのである。そしてロマノフ王朝の2人の著名なツァーリ(皇帝)、ニコライ1世とニコライ2世がある。2世は1917年3月2日のロシア革命により退位させられ、皇帝一家は全員1918年7月17日処刑された。

5人の教皇がこの名前である。歴史家ニッコロ・マキアヴェッリ、天文学者・物理学者ニコラウス・コペルニクス[羅典式―伊語式Niccolò Copernico―ポーランド式 Mikołaj Kopernik、ミコワイの“l”は/が重なる波国文字]、彫刻家ニコーラ・ピザーノ、ニッコロ・デッラルカ、ニコーラ・ダ・レーイダ、ニコーラ・ディ・バルトロメーオ・ダ・フォッジャ、画家ニッコロ・デッラバーテ、ニッコロ・ディ・リベラトーレ(通称ラルンノ)、ポルターユの創始者サン・ゼーノ・ア・ヴェローナ、人文主義者ニッコロ・ニッコリ、古代ギリシア歴史家ニコラーオス・ダマスケーノス(Nicola Damasceno)、文学者・愛国者ニッコロ・トンマゼーオ[1848年ダニエーレ・マニーンと共にヴェネツィアをオーストリアから解放しました]、マッシモ・ダゼッリオの小説『ニッコロ・デ・ラーピ』の主人公。

ニコライ・ロストフはトルストイの『戦争と平和』の登場人物である。ニコレットは仏国中世の歌物語『オーカッサンとニコレット(Alcassino e Nicoletta)』の恋人(女奴隷)役である。トルディ・ミクローシュ[Toldi Miklós―洪国は日本式姓・名の順]はハンガリーのドラマや詩歌の主人公で、その大衆性はヤーノシュ・アラニ[『トルディ』の3部作があります]がハンガリー気質の殆どシンボルとならしめたものである。

現代人では、歴史家ニコーラ・トゥランファーリァ、歌手ニコーラ・ディ・バーリとニコーラ・アリリアーノ、ファッション・デザイナーのニコーラ・トゥルッサルディ、哲学者ニコーラ・アッバニャーノがいる。

聖ニコラウスの祝日は12月6日で、ニコロ等、この名を持つ人の聖名祝日である。

この名前の変化形と外国での綴り: Nicolino、Nicolina、 Nicoletta、Coletta、Nico、Nicolào、仏国―ニコラ(Nicolas)、ニコル(Nicole)、コラン(Colin)、コレット(Colette)、英国―ニコラス、ニック、独国―ニコラス(Nicolas)、ニコラウス(Nicholaus)、ニクラウス(Niklaus)、クラウス(Klaus)、蘭国―ニコラース(Nicolaas)、丁国―ニルス(Niels)、瑞国―ニルス(Niels)、洪国―ミクローシュ(Miklós)、波国―ミコワイ(Mikołaj)、西国―ニコラス(Nicolás)、葡国―ニコラウ(Nicolau)、露国―ニコライ(Nikolay)、スラヴ―ニコレンカ(Nikolenka)、ニキータ(Nikita)」
  1. 2018/05/03(木) 11:44:31|
  2. 名前
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ヴェネツィアの街案内(38): リアルトからザッテレ海岸通りまで

(続き)
「この度の街案内の最後のセクションにやって来た。特にプラットに親しまれたサン・ニコロ・デイ・メンディーコリ教会[Mendicoliは、Mendigoliの表記もあるようです]である。相当古く創立(7世紀)され、リアルトの、施しで生きる貧しい信者の所謂“頑固な迷信家(Pinziocchere)”が助けを求めたサン・ジャーコモ教会のように、メイン・ファサードに1400年代のポルティコ(近年改装された)がある。
サン・ニコロ・デイ・メンディーコリ[写真はサイトから借用] 内部には、何世紀にも渡る改築が積み重なった痕跡が見出せる。12世紀のビザンティン様式のコーニスのような非常に古い部分から、16世紀のオルガンやカルミニ教会のものに酷似した木製の羽目板細工で飾った中央身廊の佇まい等、後世の造作にいたるまで。現前する作品中、ヤーコポ・パルマ・イル・ジョーヴァネと聖ニコラウスを象徴する、ボン工房の1400年代の美しい木彫を見逃さないよう心しよう。しかしこの絵画と彫刻の向こうにも我らを魅了して止まない総合的な美しさがある。

小広場を出るとヴェーネト=ビザンティン様式の鐘楼(12世紀)に気付く。運河の向こうには以前、綿紡績工場があった。今はカ・フォースカリ大学の建築と化学工業の学部の一部の建物が建っている。

サン・ニコロ橋を渡り、テレーゼ運河通りを右へ行き、同名のテレーゼ橋まで行く。橋を越え右折し、先ほど通った左側の運河通りまで行き、その通りを今度は逆行する。アンゾロ橋まで行くと、木彫の色付けしたキリスト像(15世紀)を祀る古い小さな祭壇がある。そこを過ぎ、キエーザ大通りを通り、左に曲がるとアンゾロ・ラファエールの少し土地の高まった広場がある。広場中央には教会の前、古いオステリーア“Trattoria Anzolo Rafaele”がある。

未だ観光客に荒らされていない、この古い地区を後にして、サン・セバスティアーン広場に移動する。ここに聖セバスティアヌスに献堂した15世紀の教会が建っている。ここにはパーオロ・ヴェロネーゼの一連の興味深い絵画作品がある。その上彼はここに葬られている。

入ると直ぐ右に聖ニコラウスに捧げた、ティツィアーノの署名のある小さな祭壇画がある。大祭壇右の礼拝堂のパルマ・イル・ジョーヴァネの作品も見逃せない。しかしここへの訪問の価値は(15.30~17.30分の開館の時間帯であれば)、ヴェロネーゼ作品にあるのである。彼はこの教会のために色々な場面で、本当に美しいフレスコ画や板絵を描いたのだった。
[現在は入場料が必要で、時間に関係なくヴェロネーゼ作品が鑑賞出来るはずです。
また教会入口前の運河前に立って前方を見ますと、運河の向こう正面に、アメデーオ・モディリアーニが画学生時代ヴェネツィアの美術学校に通っていた時、下宿していた建物があります。2009.10.31日のヴェネツィアと日本で触れています。]

さて、橋を渡って、それぞれの宿、住居、ペンション、あるいは友人の家へと帰ろう。目の前には長い真っ直ぐな道がある、それは橋を越えるとサン・バルナバ広場まで続いている。更に前方トラゲット通りの終りでゴンドラが現れ、対岸のサン・サムエーレ広場に運んでくれる。あるいはまた1番船のヴァポレットがリードまで続く大運河の各停留所へと運んでくれる。
[この長い通りは、Calle Longaと言い、日本の伊国大使館が長かった方が帰国され“富士山”というB&Bをこの通りでやられています。私が歩いた中で今一つ長いと思った通りは、カンナレージョのCalle de la Testaで、この通りのアパートから通学しました。]

それとは別の選択肢として、多分もっと楽しい方法は、橋から右折し、サン・バゼージョ運河通りを行くと、食事やお喋りに古いスタイルのオステリーア“da Toni”がある。サン・バゼージョ広場を抜けてこの運河通りの終りで、ザッテレ運河通りに出る。対岸にラグーン・スカイラインのイギリス風ムリーノ・ストゥッキーが見える。
[サン・バゼージョ広場からザッテレ運河通りまでの通りは、Cl. del Vento(風の通り)という名前で、仏国の詩人アンリ・ド・レニエや伊国のディエーゴ・ヴァレーリが歌っています。2009.05.30日のアンリ・ド・レニエと2014.04.16日のディエーゴ・ヴァレーリで触れています。]

右手にはレストラン“San Basilio”が、マリッティマ海岸に向かう小さな橋の前にある。もう少し先に海岸通りに沿って、非常に流行っている小さなレストラン“Riviera”がある。目の前は我が家へ帰宅するためのヴァポレットの停留所である。」 (終り)
  1. 2018/04/29(日) 00:59:30|
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ヴェネツィアの街案内(37): リアルトからザッテレ海岸通りまで

(続き)
「ソッコルソ運河通りを行こう。ここから少し行った所に17世紀のバロック様式の堂々たる建物、文芸の保護者だった裕福な一家のゼノービオ館がある。ここに景観画家ルーカ・カルレヴァーリス(1665ウーディネ~1731ヴェネツィア)が住んだ。彼はローマでヴァンヴィテッリの影響を受け、カナレットにカーメラ・オスクーラ(暗室)の使い方を教えたのは正しく彼だったと思われる。カナレットはそれを芸術的に発展させた。

ゼノービオ館は、続いてアルメニア人のメキタル修道会の所有となり、1850年にはコッレージョ(寄宿学校)となり、現在でも60人ほどのアルメニアの若い学生が居る。管理者に丁寧にお願いすれば、入館が許され、かつて町で最も美しいとされた庭園の一つを見学出来るだろう。ここにはコルト・マルテーゼも友人のトカツィアンに会いに訪れたことがある。今では図書館になった庭の奥の建物で、何時間も寛いでお喋りしたのだった。

サン・マルコの裏手に隠れたようにある1600年代の小さな教会を持つアルメニア人共同体は、次第に成長し、1717年にはハンセン病患者の収容所が以前建っていたため、放擲されていたサン・ラッザロ島を政庁から住んでよしと貰い受けた。この庭園を後にして、運河通りを行くと、ソッコルソ橋の前にサンタ・マリーア・アッスンタの保護所とオラトーリオが建っている。
ティントレット画『ヴェローニカ・フランコの肖像』[ティントレット画『ヴェローニカ・フランコの肖像』、米国マサチューセッツ州ウースター美術館蔵] ソッコルソ(救急・救護)の名の救護所は、1593年高級娼婦であり、閨秀詩人であったヴェローニカ・フランコの要求で建てられたもので、老若の娼婦が収容された。君主(仏国のアンリ3世)や文学者の間では著名な彼女は、彼女に肖像画を捧げたティントレットの愛人でもあった。
[ソッコルソとヴェローニカ・フランコについては、2007.11.03日のVeronica Francoと2010.09.18~2010.10.09日のヴェローニカ・フランコ(1)ヴェローニカ・フランコ(4)(1~4)で触れています。参考にして下さい。]

ソッコルソ橋の向こうに居酒屋“Da Codroma(ダ・コードゥロマ)”がある。右手のグァルディアーニ軒下通りを抜けると、同名の小広場があって、その中央に1500年代の八角形の浮き出し飾りのある切り石で作られた井桁がある。その壁面一回りには、15世紀の建築的な要素のテラコッタが嵌め込まれている。それらの中ではイストラ半島産の石の二つの浮彫りが際立っており、一つは花のモチーフのもの、もう一つは狐と鸛の民話(14~15世紀)を表す非常に馴染み深いものである。

引き返して、右側の運河通りのブリアーティを行こう。それはここに工場を持っていた、有名な水晶細工の製作者である。このジュゼッペ・ブリアーティはボヘミアで3年生活し、水晶製作技術を学んだ後、町に帰ってきた。1730年には、ムラーノ島に小さな工場を作った。この新しい秘術であらゆる物を作った: 花、果物、人物像、動物、テーブルセンター、小庭等をそんな熟練技術で製作し、洗練されていき、いち早く有名となった。

この事が直ぐに他のガラス製作者の嫉妬を呼び、ある夜鉄砲を持って攻撃され、殺されたくなければ立ち去れと脅かされた。こうして彼はここに越してくる許可を得、活動を続けることが出来た。

オリエント的なインスピレーションで作られたゴシックの素晴らしい透かし細工のある、1300年代後半のアリアーニ館の傍を通る。運河通りを端まで行き、この地区を抜けて行く。この辺りはマリッティマ海岸に近い位置故、ガリバルディ大通りについて以前触れたような雰囲気が、何年もの間存在していたが、結局この地域は、普通の人々紛れて密輸業者が少なくなかったし、山師がこの辺りを徘徊していた。

ここには綿紡績工場や少し先にはタバコ産業が集中していた。こうしてこの街案内の最後の行程に入って行く。 ……」 (38に続く)
  1. 2018/04/24(火) 23:11:01|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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