イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

文学に表れたヴェネツィア――ジョナサン・ホルト

『カルニヴィア1 禁忌』(ジョナサン・ホルト、奥村章子訳、早川書房、2013年9月15日)という推理小説があります。物語は次のように、いきなりヴェネツィアで始まります。

「プロローグ――ヴェネツィア 一月五日
ツーストローク・エンジンの小型ボートは、舳先にわずかなしぶきを散らしながら静かに船着き場を離れた。スロットルを握るリッチは、狭い船着き場にひしめく小さな釣り船や開店休業状態のゴンドラを避けて、巧みにボートを操った。仕掛けた籠にカニがかかっているかどうか確かめにいくというのを口実に、リッチは毎晩、ラグーナに出ていた。彼がときどきカニよりはるかに金になるものを手にするのを知っているのは、ほんの数人だけだった。誰かがこっそりボートでやって来て籠を沈めた場所を示すブイにくくりつけていった、青いビニールシートで覆った包みを引き上げているのを知っているのは。

ジュデッカ島を出てしばらくすると、リッチは背を丸めて煙草に火をつけながら、《もう大丈夫だ(E sicuro.)》と、小さな声で知らせた。
…… 」
カルニヴィア巻末の《解説》で、文芸評論家の池上冬樹氏がこの作品を次のように紹介されています。
「……
物語はまず、殺人事件をほのめかすプロローグのあと、非番の女性刑事が、一月の祝日の夜、ヴェネツィアの居酒屋で男を物色している場面からはじまる。イタリアには警察がいくつもあり、もっとも大きいのは内務省所属の国家警察と国防省所属の憲兵隊で、後者の刑事部のカテリーナ・ターボ大尉がある男をその夜の相手にしたいと考えているとき、携帯が鳴り、死体が発見されたといって呼び出される。

現場に駆けつけると、頭を撃ち抜かれた死体が教会の前に横たわっていた。どうやら高潮にのってラグーナから流されてきたようだった。冬はもともと潮位が高く、しばしば街が水浸しになり、数十センチ水没するのも珍しくなかった。運河の水が歩道にあふれるために死体も流れ着くのだ。

奇妙なのは、被害者が女性で、カトリック教会の祭服を着ていることだった。カトリックでは女性は司祭になれない。しかも腕にオカルトのシンボルとおぼしきタトゥーがあった。 ……」
  1. 2017/02/23(木) 00:12:54|
  2. ヴェネツィアに関する言葉・文学
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ピアニスト、ルイーザ・バッカラ(3)

(続き)
「ルイーザはフィウーメに発った。そして彼女を待つダンヌンツィオは、港の女歌手、リリ・ドゥ・モントゥレゾルと夜を過ごしていた――フェデーリチは更に書いている――彼女はかなり散文的な報酬で翌朝立ち去ったと、そしてそれがどのような報酬であったか我々は知りたいものである。

しかし我々はある事を知る、それはリリ(彼女の本名はリーナ)はペスカーラ出身で、暫く前からダンヌンツィオを知っており、友人の画家ミケッティのモデルをしたことがあるということである。

フィウーメでルイゼッラは、色々に忙しかった。先ずは音楽家としての、公開のコンサートでの演奏活動に勤しみ、更に多分自分の男への熱心な協力者として、賢明で十全な秘書活動をした。

しかし彼女の新しい生活は始まったばかりで、19歳にして、1938年3月1日の詩人の死まで彼の傍にあって注意深く、忍耐強かった。正しく彼は、数年後には彼女を丸で妻の如く扱った、封書の宛名に“ダンヌンツィオの女ルイーザ(donna Luisa d'Annunzio)”と。しかし彼女に与えた屈辱は大変なものがあった。彼の人生で唯一の失敗があり、滔々たる冒険的活動の結論として、1921年ルイゼッラとガブリエーレが隠棲した、ガルドーネ近郊のカルニャッコの豪勢なヴィッラ、ヴィットリアーレで、その20年足らずの間に100人近くの女性達がそこで過ごしたと思われるからである。事態は正しくこのようであった。

100人近くの女性達の中には、正式の妻のマリーア・アルドゥアン・ディ・ガッレーセ(Maria Hardouin di Gallese)、女流のポーランド人画家タマラ・ドゥ・ウェンピツカ(Tamara de Lempicka)、ヴェントゥリーナ(Venturina)やイーダ・ルビンステイン(Ida Rubinstein)のようなかつての恋人達である。

ルイゼッラの態度をはっきりと示す、日付のない手紙がある。《私のアリエール様、あなたのオフイスは整頓されていて、純白無垢の花があなたにお帰りなさいを言うためにあなたを待っています。朝食のために万全の準備をしておきました。ミサに行って、直ぐ帰ります。私の両腕は昨日の疲れの後も痛みはありません。その事に満足しています。あなたを抱擁します。ルイゼッラ》

アリエール=ガブリエーレなるイタリア男の集中するもの、一体何が好みであったのか。しかし彼女は彼に信じ込ませたのでもなければ、感謝の念を示したのでもない。全てはそれ相応の事であった。そして彼女は次のような事を書くことになる。《おちびさん、あなたの事を一杯考えてます、心配なんです。多分私の存在だけがあなたを落ち込ませているんです。決めるって事だけがあなたに残されたことです。貴方の重荷になるよりは、私が立ち去る方がいいのです。あなたの過ぎ去って行く日々がなくなる時、多分それはあなたには長いことではないと思われます。薔薇の花を摘んで来ました、あなたのためにです。私を許して下さい。それってあなたにとって多分過分な事と思われますが。》

彼女へのアリエールの返事がどんなものであったか、我々には分からない。しかしまた別の手紙の始めで想像することは出来る。《私のアリエール、こんなにも辛く、苦しい電報はもう待つことは出来ません。なぜこんな電報を寄越すのですか。ガルドーネの事務所に私が帰る事を望んでいらっしゃらないことは分かっていますのに。脅すような奴隷の尺度と考えられますのに。》
ルイーザ・バッカラルイーザ・バッカラ[右、サイトから借用]  ルイゼッラは彼女のアリエールより47年も長生きした。しかし彼の死と共にヴィットリアーレを遺された。とは言え、詩人の生存中に生きたと同じように生き、その時から奴隷の如く、そして隠遁生活を送った。何も求めず、何も得ることもなく、追憶と忘れられた存在として人生を過ごした。」

ガルドーネ近郊のヴィッラ・ヴィットリアーレについては、2013.10.26日のカジーナ・デッレ・ローゼ館で触れています・
  1. 2017/02/16(木) 00:07:33|
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ピアニスト、ルイーザ・バッカラ(2)

(続き)
「戦争中、広場にあった参謀本部が前線の兵站基地となっており、町に残る数少ないヴェネツィア人や前線から離れて避難している人々、市民病院で回復を待つ数多の戦争傷病兵の楽しみのために、ピザーニ館のベネデット・マルチェッロ音楽院のホールで定期的に幾つかのコンサートが開かれた。そうした活動に尽力する高名な芸術家達に混じって、ルイーザ・バッカラの姿もあった。中でも多分一番若くて、一番無名だった。

そんな彼女について、ジーノ・ダメリーニは次のように書いた。《ヴェネツィア生まれの大変若いピアニストは、戦争が勃発する前、ベネデット・マルチェッロ音楽院の最大の新星だった。勉強のご褒美に、ソリストとしてのキャリアーを凱旋するような、特別豪華なやり方で始めることが出来たのだった。》

それから19歳の春がやって来る。フィウーメ(現リエカ)占領の年である。ルイーザはヴェントゥリーナ事件でComandante(司令官――ダンヌンツィオのもう一つの添え名)を知っている。“ヴェントゥリーナ”とは彼が最後に獲得したオルガ・ブルンネル・レーヴィに与えた名前(実は最後から2番目)であった。しかし当時、彼は自分の書いた初期ヴェネツィアの悲劇『船』を映画に撮るためにイーダ・ルビンステインに関わっており、彼女を蔑ろにしていた。

しかしその事は“NO”である。最後から2番目ではなかった。更にまたヴェントゥリーナとの愛の“歴史”の間、満足することのない愛の渉猟者は、マリーア・ルイーザ・カザーティ・スタンパ侯爵夫人アーダ・コラントゥオーニ(ネリッサ)とも、愛の“歴史”を作ったのだった。彼女はヴェニエール・デイ・レオーニ館に住み、後に女優エーレナ・ドゥ・ヴノロスカであり、アンナ・モロズィーニ伯爵夫人であるペギー・グッゲンハイムとして住むことになる。……

その事はヴェントゥリーナとの“歴史”が長続きしたことを示している。事実それは17歳の1月(or 1917年1月)に始まり、ダンヌンツィオの中では、愛の継続は裏切りの数で計測される(多分“愛の逸脱”と称したケースであって、“裏切り”というと言葉が仰々しく、厳し過ぎるかも知れない)。

ヴェントゥリーナは自宅にルイーザ・バッカラを少し音楽をしませんか、と招いた。夕食にはガブリエーレ・ダンヌンツィオもいた。その時彼は彼女をしげしげと見た。彼女に手紙、贈物、本、花と贈るようになった。暑い夏の間、彼らは何度も会ったが、フィウーメ事件の始まる数日前の事、サン・ヴィダールのヴェントゥリーナの家でかなり形式的な出会いだったようである。
ガブリエーレ・ダンヌンツィオダンヌンツィオ(D'Annunzio)に(彼女もD'Annunzioの“D”を、“d”と小文字で書いた)《紹介されたいとは思いませんでした――更に続けて――詩人の理想というものは私にもあります。知るということ、男性というものを知るにつけ、評判というものは下がってほしくないのです。それはヴェントゥリーナが私にしたある種の裏切りのようなもので、演奏するように私を家に招待し、d'Annunzioに会わせる事をしたのです。》

後日(1919年9月9日のこと)詩人は、攻撃に出発した。即ち、愛しい少女の友は画家のグイード・マルッスィグ[1885年トリエステ生まれ]と共にルビンステイン家の正餐への招待から始まるのである。招待状はlei (貴女)で書かれていた。続いて、もう一つの招待状が届き、それは彼女の家であり、voi (あなた方)と書かれていた。我々にはもう一つ、10月1日の招待状があり、それはフィウーメからで、tu (お前)で書かれている。

中身に疑いの余地はない。《今度お前にいつ会えるのか。小さな、黒っぽい顔はどこにいる? 若い、野性的なすじを刻む、銀色に輝く髪はどこに? いつ再会出来るのか?……休戦時にお前の抱擁、僕の抱擁を考えながら打ち震えている。熱情の最後の夜のこと。お前に会えるだろうか?》 ……」 (続く)
  1. 2017/02/09(木) 00:05:44|
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ピアニスト、ルイーザ・バッカラ(1)

2016.08.25日のエレオノーラ・ドゥーゼ》(1~4)でドゥーゼとガブリエーレ・ダンヌンツィオの事に触れましたが、ダンヌンツィオの最後の恋人になったのは、ピアニストのルイーザ・バッカラ(1892.10.14ヴェネツィア~1985ヴェネツィア)だったそうです。Bruno Rosada著『ヴェネツィア女達――その愛と評価』(Carbo Fiore Editori)により、2人の足跡を辿ってみます。
ブルーノ・ロザーダ『ヴェネツィアの女達』「《彼女にとっては愛の歴史、彼にとっては一つの歴史》 ルイーザ・バッカラの生涯の最初の章はこうした題名で始まる。アントネッラ・フェデーリチはこの情熱的な女とガブリエーレ・ダンヌンツィオの関係をこう要約した。大体全員というか、彼の全員の夥しい愛人達をこの“神聖な詩人”は楽しませたという。この堂々とした男中心主義者に今後に残された、予想される愛人関係というものがかつてとそれ程かけ離れたものではなかったのではないか、と。実を言えばそれは“NO”であった。

ルイーザ・バッカラとの関係は違った愛だった。しかし違っていたのはそれだけではなかった。どんな女も、彼女ほど諦めと品位のある無視無欲と献身的な自己犠牲に満ち溢れた愛情を注いだ者はいなかったのである。

事実人々、ある文化水準に到達していない人々全てを含めて、ダンヌンツィオの文一行さえ読んだことのない人々もこの不撓不屈の誘惑者の抑えようのないエロティスムを知っている。しかし本当に多くの人がルイーザ・バッカラの名前を挙げるのを全く聞いたことがなかった。一方彼の女達の中でもエレオノーラ・ドゥーゼの名前を挙げるのをよく聞いたのである。

これはルイーザ・バッカラが無意味な人物であったということでは決してない。もし無意味な人物であったなら、ダンヌンツィオが興味を持つ筈がなかったからである。彼女は彼の傍に居て、彼に逆らうなんて1分としてなかったことだろう。と言うより約20年間、彼の仲間であった。ドゥーゼは大女優であることを止めなかったが、それは彼の幾つかの大作を演じるという利点が引き出せたからであったが、ダンヌンツィオにとってのバッカラは大ピアニストであることを止めていた。

しかし彼女のデビューは大したものであったし、満足のいくものであった。1902年のムラーノ劇場での最初のコンサートに同席してみよう。その時やっと10歳で、『Il padrone delle ferriere(鉄工所の親方)』の幕間に2曲演奏した。プロを呼ぶためには十分な資金のない人が、一少女に対して興味深くも満足のいく要請をしたに違いないのである。そして10歳からよく知られるように、詩人と出会う運命の19歳まで成功が続くだろう。特に15歳から18歳の期間、戦争(第一次大戦)があったと考えても、である。

イタリア国内を回っても、それほど多くのコンサートはしなかったが、戦争中もルイゼッラ(ルイーザは家族にこう呼ばれていたが、ガブリエーレはスミクラ(Smikra`)という、ギリシア語で正に“ちっちゃな(picolina)”を意味する愛称を好んだ)は、ソリストとして注目を浴びた。 ……」 (続く)
  1. 2017/02/02(木) 00:08:50|
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文学に表れたヴェネツィア――タニス・リー

タニス・リーという英国の作家が『ヴェヌスの秘録』第1巻《水底の仮面》(柿沼瑛子訳、産業編集センター、2007年3月31日、他第4巻まで)が出版されています。このシリーズ第4巻《復活のヴェヌス》(2007年6月30日)のあとがきで、訳者は次のような解説を書いています。
水底の仮面ヴェヌスの秘録、2,3巻復活のヴェヌス「……本作『復活のヴェヌス』は四部作を締めくくる作品でもあり、ここでこのシリーズについても少しお話しておくことにします。このシリーズはいずれも水上都市ヴェヌスを舞台にしていますが、これはもちろんイタリアのヴェネチアがモデルになっています。役者もかつてヴェネチアに三回ほど滞在したことがあるのですが、車というものが存在しない街のたたずまいには、かつて某文豪が語ったように、どことなく夢のなかの街のような、日本に帰ってきてからも、はたしてあれは現実にあったのだろうかと思わせるような、どこか幻想めいた雰囲気があります。幻想が紡ぎ出す現代の語り部タニス・リーにとっても、これ以上に舞台としてふさわしい場所はないでしょう。

まず第一巻『水底の仮面』は十八世紀初頭のヴェヌスが舞台になります。ある事情からヴェヌスのスラム街に身を落とし、今は怪しげな錬金術師の弟子として鬱々たる日々を送る、怒れる貴族の青年フリアン。彼は仮面をつけた美女エウリュディケに出会い、恋に落ちてしまいます。そして彼女を巡る謎、とりわけ彼女に捧げる歌を残して死んだ、ある青年作曲家の歌を巡って、ヴェヌスのもっとも影の領域へと足を踏み入れていきます。謎の仮面ギルド、錬金術、蘇生する鳥と、いかにもリー好みの素材を駆使した冒険ロマンスが展開されます。……

第二巻『炎の聖少女』はさらに時代をさかのぼり、ちょうどフィレンツェでサヴォナローラらによる宗教改革運動がまっさかりだったころの中世ヴェヌスが舞台になります。火を呼ぶ能力のある奴隷の少女ヴォルパが、醜い世俗の権力に翻弄されながら、本人もまったく与り知らぬうちに聖女とされていくという、どこかジャンヌ・ダルクを思わせるストーリーですが、さらに彼女と、神以外の何者をも愛することのない氷のようなキリストの戦士との、およそあり得ぬ恋の物語になっています。……

第三巻『土の褥に眠る者』はルネッサンス最盛期のヴェネチアが舞台の華麗なる復讐譚であり、タニス・リーの作品に共通して流れるテーマである〈輪廻〉と〈変身〉がもっとも色濃く出た作品であるともいえます。墓堀人バルトロメの口を通して語られる敵対するふたつの名家をめぐる血なまぐさい復讐の年代記。主人公のベアトリクサとシルヴィオは対立するふたつの家というだけでなく、さらには人間と幽霊という世界にも隔てられた、いうなれば二重の意味での「ロミオとジュリエット」なのですが、このふたりの恋の行方と、さらに全編に流れる残酷美は、まさしく血とエロチシズムの作家であるリーの真骨頂といえるでしょう。……

そして第四巻であり、シリーズ最後の本作品『復活のヴェヌス』では一気に時代は未来に飛び、すでに水没し、海中ドームの中の水中都市として保存されているヴェヌスが舞台のSF仕立てになっています。昔の死人を再生させるという一大プロジェクトにより、未来のヴェヌスによみがえった古代ローマ時代の女性剣闘士と、十七世紀の作曲家、そして避け難い運命に導かれてヴェヌスにやってきた、暗い影を負うミュージシャンのピカロと、常に怒りに燃えている古代学者のフレイド、この四人の運命がクアルテットのごとくからみあいながら、最後にヴェヌスの運命おも含めた壮大なクライマックスを迎えることになります……。」
  ――タニス・リー著『ヴェヌスの秘録』第4巻《復活のヴェヌス》(柿沼瑛子訳、産業編集センター、2007年6月30日)“あとがき”より
  1. 2017/01/26(木) 00:04:12|
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サン・スターエ教会

コッチーナ・フォスカリーニ館を右に進むと、サン・スターエ教会となります。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のような事を教えてくれます。
サン・スターエ「古い建築で、10世紀に遡り、ジュストとアドルドのトローン一家の手によって、ファサードが大運河に向くように最初の向きを90度変更するというやり方で、ジョヴァンニ・グラッスィによって、1600年代後半に完全な形で再建された。

最後の所は、総督アルヴィーゼ・モチェニーゴの遺産のお蔭で、建築家ドメーニコ・ロッスィによって1709~1710年に仕上げられた。

教会はバロック様式の建物である。両脇に礼拝堂のある一身廊の形式で、パッラーディオの影響が色濃く感じられる建造物である。コンポジット式の半柱で三分されたファサードは、破風と短い建物袖部を支え、当時の多くの彫刻家の装飾物で飾られている。

入口の大門は、特にファンタスティックに区切られたティンパヌムが浮き立って、彫刻による装飾的動きでその成果が際立つ。内部は興味深い画家達の作品に満ちて、ピアッツェッタやティエーポロの作品で素晴らしい。

大運河に面して教会左隣に、1700年代の素晴らしい建物がある。ティラオーロ・エ・バティオーロ同信会の建物である。

1636年教会の前では、激しい暴風雨が吹き荒れていたが、アンドレーア・ドナと妻のチェチーリア・ポラーニがペーザロ館での仮面パーティー後、帰宅する時、ゴンドラが転覆して、二人の夫婦とゴンドリエーレ達が溺れ死んだ、ということがあった。」

ドナ家は、フランチェスコ(1545~1553)、レオナルド(1606~1612)、ニコロ(1618)と総督を輩出した家系です。

尚、サン・スターエ教会に寄り添うように左に建つティラオーロ(Tiraoro)・エ・バティオーロ(Batioro)小同信会館は、1420年創立で、最初サンティ・フィリッポ・エ・ジャーコモ教会にありましたが、後サン・リーオ教会に移り、更に1720年サン・スターエ教会隣に移動しました。

後期バロック様式のこの建物は、建築家ジャーコモ・ガースパリに帰属しますが、彼はサン・スターエ教会ファサードのコンペでは、参加しただけに終わりました。tiraoro は織物用の金糸を造る職人、batioro は工芸品用の金箔を造る職人の意のヴェネツィア語。
  1. 2017/01/19(木) 00:04:26|
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ヴェネツィアの建物: コッチーナ・フォスカリーニ(Coccina Foscarini)館(2)

(続き)
「密告者の友人達は更なる名誉棄損の告発を企んでいた。国家機密の漏洩という中傷である。そしてアントーニオは彼に委ねられていた書類の流出という、その疑惑を証明をすることが出来ず、国家の裏切り者として死を宣告された。
Elsa e Wanda Eleodori『大運河』(1993)その機会に縺れた複雑な話として、イギリスの元帥、ウォードゥール伯トーマス・ディ・アランデルの妻、大夫人アンナ・シュルーズベリの名前が囁かれた。モチェニーゴ館のそのサロンには外交官やヴェネツィアの芸術家、外国人が通っていた。

死の宣告が発せられたその日、貴婦人はパードヴァのヴィッラに向かう途中だった。その時イギリス使節の伝令ウォットンが、事件のニュースと国境の向こうに避難するようにという助言を伝えに来た。夫人は逆に、馬を回してヴェネツィアに戻るように御者に命じた。ヴェネツィアで尋ね回り、総督から公判の模様を聞いたが、尋問官の言には言われるがままになるしかなかった。

そして彼の置かれた状態が明確になり、彼女はフォスカリーニは一人の友達であり、スパイではないと証言した。セレニッスィマはその証言を有効と認め、ロンドンのヴェネツィア大使に、政庁はアランデル夫人は事件と全く無関係であると認めると王宮に報告するよう命じた。

しかしながら残念な事に、資料は発見されず、フォスカリーニにはその判決は執行されることが分かった。貴族としての特権を使いたいと思い、公衆の面前でなく、牢獄で絞首刑になることを求めた。しかし習慣に従い、体はサン・マルコ小広場の聖マルコと聖テオドールス(or 聖 トーダロ)の円柱の間に建てられた絞首台に、足から吊るされた。

こうした事件があってそんな年月を経ないで、アントーニオがそんな失敗を冒す筈はないという人々の噂話があり、尋問官が事件を再度見直した。再度検証し、フォスカリーニの3人の部下の逮捕を命じ、彼らが主人に対する証言を捏造していたという確証を得た。その時失われていた資料が彼らの一人の家で見付かった。三人は処刑され、フォスカリーニの思い出だけが甦った。

大評議会は公に誤りだったと宣言した。当時としては特別な事例であり、フォスカリーニの二人の子孫に名誉回復の通達のオリジナルのコピーを渡した。そしてその通達が万遍なく行き渡るようにし、ヨーロッパの全ての宮廷に送付した。

フォスカリーニの遺体は名誉を込めて厳かにサンタ・マリーア・グロリオーザ・デイ・フラーリ教会に移葬された。そして事件を記憶に留めるべく、サン・スターエ教会の一家の葬送記念物の上の壁面に張り込められた。それは国家反逆により貴族位を剥奪されたという文言の記念碑である。その時以来、一家の声望と権威は揺るぐことはなかった。

マルコ(1762~1763)はヴェネツィアの最後から4番目(117代)総督である。彼も長い間ヨーロッパ各地の宮廷の大使であり、著名で優れた文学者であった。総督に選ばれ1年後に亡くなったが、これほど短期ではありながら、政治力を大いに発揮した。

フォスカリーニ家の一人は、著名な年代記作家のマリーン・サヌードの孫と結婚した。1525年彼女は耳飾りのモードを始めた最初の女性だった。その事が年代記作家には気に入らず、その事に関して一文を残している。結婚式のパーティに参加した女性達の間で、《フィリッポの娘……彼女はムーア人の装束をしている。耳に穴を開けさせて、細い金の輪を付け、帯に大きな真珠を着け……私は好きでない》。彼の嫌悪にも拘わらず、耳輪の使用は流行し、定着した。」 
  ――E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)より 

アントーニオ・フォスカリーニについては、フォスカリーニで、その人生について触れました。
  1. 2017/01/12(木) 00:04:00|
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ヴェネツィアのベファーナのレガッタ

2011.01.01日のブログ年中行事(1)で紹介しました、1月6日の《ベファーナのレガッタ》の模様が、《La Nuova紙で報道されています。
戦うベファーナ達「 ベファーナのレガッタそしてリアルトでお祭り
――ジョヴァンニ・ロッスィ“スペチェネ”が、レガッタの赤旗を勝ち取る、マスカレータ舟に超・盛装して――

ラグーナ(潟)で、酷寒の中での楽しいお祭り。即ち、競艇者達のmaranteghe(ヴェ語=ベファーナの複数)とscoe(ヴェ語=箒の複数(櫂のこと))であり、子供達はベファーナ(サンタさん)からの美味しい物の入った靴下を貰い、カラオケで歌った。

大運河では、ブチントーロ・ボート協会主催の第39回レガッタで5人のマランテゲ(ベファーナ達)が頭巾を被り、長いスカートと毛糸の靴下を履き、手漕ぎ舟競争をした。両岸には住民と旅行者のファンが詰め掛け、声援した。寒さに挑み、審判員の厳しい目の下、櫂の一漕ぎ一漕ぎで進んだ。審判員は伝説のボート漕ぎ、パルミーロとベーピ・フォンゲルだった。
[ベーピこと、ジュゼッペ・フォンゲルさんは東京オリンピック時、ボート漕ぎのイタリア代表の一人として来日された筈。]

“スペチェネ”と綽名され、裸足で青色のマスカレータ舟に乗るジョヴァンニ・ロッスィは、リアルト橋下のゴールに一番乗りし、赤い旗とAvisのシャツを得た。

子供達には大きなお祭りがあった。リアルトの古い魚市場“Pescheria Vecchia”で、“我がリアルト協会”が甘いお菓子類の入った靴下500足以上を配り、パネットーネやホット・チョコレートが振る舞われた。楽しいカラオケがあり、昔話の朗読に老若男女が楽しんだ。」
  1. 2017/01/07(土) 16:40:21|
  2. ヴェネツィアの行事
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コッチーナ・フォスカリーニ(Coccina Foscarini)館(1)

ペーザロ館の右隣はコッチーナ・フォスカリーニ館です。E.W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のような事を書いています。
コッチーナ・フォスカリーニ館「リオーダ運河との合流点に位置するこの館は、16世紀半ば頃まで遡ることが出来、左に増築部が追加されて、非対称のファサードが大運河に開けているが、玄関口大門とその両脇に一面窓を置いた、上にあるセルリアーナ式窓で設計された中央部が濃密な開口部となる、際立った仕上がりとなっている。

コリント式の長い軒持送りは窓前部の窓台を支え、更に2階の窓やその他の四角形の窓も突き出したアーチのキアーヴェが支えている。

コッチーナ家に建造されたが、その後他の一家の手に渡り、結局フィレンツェ出身のトマーゾ・ジュンタの手に移り、彼はニコロとレニエール・フォスカリーニ兄弟に二人の娘を嫁がせ、この館を含めた全財産をこの一家に残した。素晴らしい中庭の壁面はジャン・バッティスタ・ゼロッティによって描かれた。1760年年代記作家が言っている、窓に座ってリュートを弾く美しい姿も見られる、と。

色大理石を豊富に使用した、洗練された建築の価値とその使用量の大きな事から、館は幾度も、その中にはデンマーク国王フレゼリク・クリスチャン(Federico Cristiano)4世もあったが、著名な共和国への訪問者を招いた。その名誉で、1709年サン・マルコ財務官セバスティアーノ・フォスカリーニはその豪華さで歴史に残る、特別の舞踏会を催した。この世紀においても、一家はいかなる声望と威信を得たことかを証明している。1755年、館はジョヴァネッリによって貸し出された。

年代記作者はフォスカリーニ家は867年、ヴェネツィアに定住したと語っている。レヴァントから巨大な利益を得た。その一家のメンバーには有能な政治家、戦士、文学者を数える。その有名な図書館は、19世紀一家の消滅と共に消えてしまった。

輝かしい外交官アントーニオ(1570~1622)の運命は、悲しい事ではあったが、有名な事件であった。彼は長い間、フランスとイギリスの外交官であった。その地で、高い能力故、この二つの国の貴族としてのシンボルを自分の紋章に付け加えることを許されていた。しかしそれは政治的緊張感が高まった期間のことであった。

スペインは、殆どが外国に隷従するイタリアにあって、用心深く、慎重で、誇り高く独立を謳歌し、あらゆる手段で自由を守るこの小さな共和国に目を付けていた。1618年共和国は、偶然にもスペインのオスーナ公によって仕組まれた陰謀をやっと押さえこんだところで、総督宮殿で関係者を大評議会の名によって絞首刑にさせるつもりだった。そのためフォスカリーニの一人の部下が、ある知られた館での外国人の会合に主人がこっそり赴いたと告発した時、勿論のこと彼の逮捕が命じられた。

しかし厳しく素早い尋問の後、彼は無実を証明された。フォスカリーニは出獄し、告発者は国外追放になった。しかし事件はそれで終わった訳ではなかった。……」 (続く) 
  1. 2017/01/05(木) 00:04:45|
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サン・マルコ小広場の、第三の円柱

総督ヴィターレ・ミキエール2世(1156~72)時代、オリエントから高い円柱が3本到来し、陸揚げ時、1本が海中に落下し、陸揚げされた2本は、木造のリアルト橋の建造者ニコロ・バラッティエーリが、現在あるようにサン・マルコ小広場に立柱したそうです。その水没した1本を甦らせたいという願いが動き始めたようです。昨年暮れのLa Nuova紙を訳してみました。
3本の円柱「 ヴェネツィアの伝説の、サン・マルコの第三の円柱の調査開始
――歴史と伝説によると、1172年サン・マルコ湾に水没した: 文化財保護局はトモグラフィー(X線による断層写真撮影法)調査にOKを出す。Molo(サン・マルコ岸壁)前のサン・マルコ小広場のマゼーニョ敷石にセンサーを――

ヴェネツィアの文化財保護局は、次週初め(この記事は12月10日付)にはパーリャ橋とマルチャーナ図書館間の区間のトモグラフィー調査を容認する予定である、それはヴェネツィアの潜水夫の長のロベルト・パドアーン自身に提起された。円柱は実際存在するのであり、約7m下の泥濘の中で、ラグーナの底の密な粘土に包まれ、カラント層に触れた所に埋まっている事を証明したいがためであるという。

要員達と数ヶ月前から会合と幾つかの評価を重ねた後――パドアーンは、パードヴァの統合工学の会社であるIcorestとの協力関係にあるが、この会社は地名や地球構造学的証明、地震学的追及をしており、そして土地電磁気調査、環境モニター監視、土地・水深測量のもう一つの会社、モルガンsas社とも協力し合っている――文化財保護局は自由な調査への道を拓くだろう。

非浸蝕性の調査である。非浸蝕性という事であれば、差し当たり、サン・マルコ岸壁前の灰色のマゼーニョ敷石の間隙に電気センサーを設置することであり、文化財のための経費(全ては個人的なもの)は齎さないものであり、第三の円柱の存在の確認の次には、サン・マルコ岸壁前の海底の考古学的観点からも、新しく有用な要素を提供出来る、ということである。

建築家エマヌエーラ・カルパーニ率いる文化財保護局のOKが公式のものになり次第、公共事業へ権限を有する二人の評議員ルチアーナ・コッレとフランチェスカ・ザッカリオットによって、事業への市の認可が与えられるだろう。しかし市長ルイージ・ブルニャーロは既に、もしモーロ岸壁の底に第三の円柱が実際に眠っているとするならば見たいものだ、と興味を表明していた。だから障害は無いに違いない。

パドアーンは述べている。《円柱は存在する》と。ラグーナや大洋の海面下の何十年に渡る経験者、司令官パドアーンは慎重この上ないが満足している。浸蝕性の工事や汚染の危険なく水に沈んだ土台部を救うために、コンクリートの代わりにアクリル樹脂を使用するという手法の創案者は、スキアヴォーニ海岸通りのホテル・サヴォイア・エ・ヨランダで実験済みだった。

《文化財保護局が我々のやり方にOKすれば、市は我々と歩を共にすると信じている》とパドアーン。《我々は調査を開始出来るし、如何なる障害もなしに、パーリャ橋からマルチャーナ図書館までの海岸通りで夜間も進行出来るだろう。そしてその全区間のマゼーニョ敷石の隙間に電気センサーを張り巡らし、地下の弾性の音波の伝播の速度を記録し分析出来る。こうして円柱の位置と大きさが明確に判明し、我々は自信を持って目標に向かって前進出来る》。

我々は回収作業で協力してくれるスポンサーも得ているし、公式に始まった時には、彼らは名を知られることになるだろう。
…… 」

将来サン・マルコ小広場に三本の円柱が見られるかも知れません。その端緒が開かれました。

新年明けましておめでとうございます。今年もヴェネツィア関連話を書き続ける予定です。
  1. 2017/01/01(日) 08:00:38|
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ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは十数年前。ヴェネツィアには即一目ぼれ。
その結果、伊語勉強のためにヴェネツィアの語学学校に何年間か数ヶ月通いました。
その後もヴェネツィアを訪れるたび、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら書くのが楽しいのです。

*図版はクリックすると拡大されます。

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