イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアの建物: Palazzo Zen、 P.Corner等(ゼーン館、コルネール館)

マルチェッロ館を過ぎ、更に右に進みますと、ゼーン(ゼーノ)館となります。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように教えてくれます。

「ここには1849年のオーストリア軍の砲撃で破壊された古い建物が建っていた。その後、拡張され、再建された。建物は非常に簡素で入口大門とは際立って、上中央部の脇に置かれた長方形の窓がある。

ゼーン家は古い家柄で現在も存続し、著名な人物を輩出し、総督一名も出した。レニエーロ(1253~68)で、彼はレヴァントでジェーノヴァとの商業戦争を不誠実な行為として終りにしようと決め、敵対する相手に最初の戦いを開始した。
ゼン館海軍大司令官として、ヴェットール・ピザーニ以外にカルロ・ゼーンがいた。彼はある嵐の夜、自分の配下とヴェネツィア海軍の援助を得に駆け付けた。そして敗退するまで作戦を指揮し続けた。その時の事である、海兵達が気付いたのは。彼が咽喉に突き刺さった矢を、荒々しく引き抜いたので正に出血のあまり窒息死しかねない状況だったのである。

ヴェネツィアがジェーノヴァとの平和協定を結ぶために、傷が癒えて、栄光に包まれた彼を派遣して彼を称えた。続いて、彼は英国と仏国の外交使節となった。最後にまた、今度はテッラフェルマ(本土)でのパードヴァとの戦争に送られた。

しかしいかなる理由で、突如裏切りの罪で投獄されたのか分明でない。2年後自由の身になったが、哀れゼーンは輝かしい履歴にも拘わらず、寂しく引退し、我が家で生活することも拒絶された。

彼の死に際して、ヴェネツィアは彼の事を思い出したのである。彼を死装束に着替えさせた時、30にも余る傷で彼が苦しめられた瘢痕の多くは確かに酷いもので、彼の傍で戦った者達も気付かないものであった。人々は死後になってようやく、彼の偉大さに敬意を払い、葬列に加わったのだった。」

ゼーン館を過ぎ、更に右、2軒先に、ドナ・バルビ館があります。エレオドーリの『大運河』(1993)は次のように言っています。
コルネール館「17世紀の大きな建物で、非常に古い構造を利用して建てられたもの。ファサードの開口部である窓の配置が、普通でないことを示している。それぞれの階の窓は、右の四連窓から左端の一面窓へと、減少数でグループ化して配置されている。今日、教育監督局の所在地である。」

更に右の20世紀住宅の先に、コルネール小館がある。やはり『大運河』(1993)の記述に従います。

「16世紀後半の建物である。ルネサンス初期の優雅さと軽やかさを持っている。ファサードは非対称で、開口部は左に集中している。コルネール家、あるいはコルナーロ家は古い四福音史家(or福音書記者)家族の一家で、ヴェネツィアを立ち上げた基の家族である。非常に重要な一家で、共和国の生活には多大の影響を与えたのであり、大運河に建つ壮麗な建物の多くは、この名前と繋がっている。

[四福音史家家とはマタイ(Matteo)、マルコ(Marco)、ルカ(Luca)、ヨハネ(Giovanni)を称する、ジュスティニアーン、コルネール、ブラガディーン、ベンボの4家。因みに十二使徒、ペテロ(Pietro)、ゼベダイの子ヤコブ(Giacomo di Zebedeo)、ヨハネ(Giovanni)、アンデレ(Andrea)、ピリポ(Filippo)、ヤコブ(Giacomo)、トマス(Tommaso)、マタイ(Matteo)、シモン(Simone)、バルトロマイ(Bartolomeo)、タダイ(Taddeo)、イスカリオテのユダ(Giuda Iscariota、後マッティアMattiaに変更)を称する家は、コンタリーニ、ティエーポロ、モロズィーニ、ミキエール、バドエール、サヌード、グラデニーゴ=ドルフィーン、メンモ、ヴァリエール、ダンドロ、ポラーニ、バロッツィの12家。金色の長いストーラ(stola頸垂帯)を肩から膝まで垂らし、サン・マルコの騎士と世襲で称する権利を有する、騎士勲位を持つヴェネツィア三大名家は、コンタリーニ、クェリーニ、モロズィーニ。コルネール家はこのコンタリーニ家から出た家だそうです。]

1300年代コルネール家は、驚異的な財産を獲得した。スィニョリーア政庁は2人の兄弟にレヴァントで大々的に事業を遂行し、結婚すれば、“妻達が少しはお金を使う手助けをしてくれるから、そうするようにと勧めた”。

4人の総督を輩出した。その一人、やる気のなかったジョヴァンニ(1625~29)は、重い任務から遁れようとした。しかし共和国の財産のために、彼の肉体的精神的状態がそれに堪え得るなら、権力の座を行使するようにきっぱり要求された。傭兵隊長に戦場から退却するのか、お前は?ということである。哀れジョヴァンニはその暗に仄めかされた恫喝を悟って、総督の座に登ることを諦めたのだった。

しかしこの一家の名前が知られていたことは、譬え著名という事でないにしても、それはカテリーナ(1454~1510)の名前で明確である。コルネール家は塩とキプロス島での砂糖農園の専売権を得ていた。政庁の委員会に、島の為政者ルズィニャン家にたっぷりと財政援助をしており、ピスコピアの領地を与えられていた。

それ故驚くには当たらないのだが、17歳のカテリーナがジャック・ルズィニャン(Jacopo Lusignano)王に嫁いだのである。更に総督トローンは、この結び付きの月下氷人として彼女を“共和国のお気に入り娘“と呼ばせ、この結婚式に政治的お墨付きを与え、将来におけるヴェネツィアの優位性の基をキプロス島に築き上げた。

1年後ジャック王が没し、続いてカテリーナの産んだ息子が父の後を追った。豊穣であり、戦略的土地でもあるキプロス島での支配力を強めることを決めていたヴェネツィアが圧力を掛けたが、カテリーナは退位するつもりはなかった。

これはヴェネツィアの長い歴史の中でも、唯一の事であるが、一人の貴族が元老院の命令に従うことを拒絶した。筋から言ってもそれに従うことは、外れていたのだから、政庁は狡猾な策略を弄したということ。結局最終的には、強硬手段だった。
ティツィアーノ・ヴィチェッリオ『カテリーナ・コルネールの肖像』アーゾロ案内ジェンティーレ・ベッリーニ『カテリーナ・コルネールの肖像』[左、ティツィアーノ画『カテリーナ像』、中、アーゾロのガイド、右、ベッリーニ画『カテリーナ像』]  それは1488年のある日、フランチェスコ・プリウーリ率いる武装した艦隊がファマグスタ(伊語Famagosta)の沖合に現れた。使者が女王にトルコ軍が島を攻撃する準備をしていると告げた。カテリーナはヴェネツィア生まれではなかった。他に方策がないと知り、自分の運命に従った。ヴェネツィアに威風堂々と戻され、彼女はクッションに王位の笏と王冠を置き、総督に渡し、アーゾロの地に引退した。そこは彼女に与えられたものであり、芸術家や文学者に囲まれて生活した。

総督コルネールに関する興味深い記述がある。ヴェネツィアでは、鬘のモードはコッラルト(Collalto)の地の誰かがフランスから持ち帰ったものだった。1668年十人委員会は、この風習に対する通達を出した。しかし当時から、各種意見や保守主義者の不平不満があったが、鬘は抑えようもなく広まっていった。ある歴史家はこんな風に嘆いている。“…1500人の鬘…作法を行使する時、彼らは信用され、部屋のドアが開けられる。そして婦人方や乙女達の奥まった深窓の扉も開けられる。彼らは同様に、厚顔無恥のキューピッドの恋の使者であり、善意は見てくれだけの破廉恥な女衒なのである。”

鬘を被る全ての人に税金を課した1701年の通達にも拘わらず、それを身に付けた最初の総督は、1709年のジョヴァンニ・コルネールであり、最後の貴族は1757年に亡くなったアントーニオ・コルネールであった。」

[カテリーナ・コルネールについては、2013.03.23日からカテリーナ・コルナーロ(1~3)で触れました。]
  1. 2017/06/15(木) 00:03:44|
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ヴェネツィアの建物: Ca’ Correr(カ・コッレール)他

トルコ人商館を右へ進み、サッカルド館を過ぎると、コッレール館です。E.& W.エレオドーリ著『大運河』(1993)はこの館を次のように述べています。
カ・コッレール「1600年代の簡素で倹しい建築で、長方形のペアの窓が、玄関大門と上の露台付きのアーチの窓の脇に置かれている。コッレール家は非常に古い家柄で、既に9世紀には共和国政府の重職に就いていた。1297年の黄金文書に記載されており、そこから高位聖職者が輩出し、その中にはグレゴリウス13世(1406~09)となったアンジェロがいる。
[彼には苦行僧の面影が強かったそうです。この記述には間違いがあり、アンジェロ・コッレールはグレゴリウス12世となり、在位1406~1415年で、教会大分裂の混乱期の教皇でした。グレゴリウス13世(1572~85)は、天正遣欧少年使節に謁見し、ユリウス暦を廃し、グレゴリウス暦を採用したことで特に有名です]

彼は外交的才能が豊かであったが、総督としての能力はなかった。ヴェネツィア人は生来の用心深さと警戒心から、教会にべったり傾いた一家に属する人間を総督として選ぶようなことは先ずしなかった。譬え無関係の立場を維持する決意が表明されても、一人の貴族が宗教生活を選ぶなら、そのような人物は直ぐに元老院から追放されるし、高位聖職者の職務を引き受ける前に、ヴェネツィア人としては政庁の承諾を得る必要があったのだ。
[彼は1406年11月30日教皇に選出され、1415年教会の安定を願ってリーミニに隠棲、1417年8月18日レカナーティで亡くなりました。]

この館でテオドーロ・コッレールが1750年12月12日に生れた。彼は1830年現在サン・マルコ広場の新行政館にある、あの素晴らしい美術館を設立した。」

更にボーイア館(Boia=死刑執行人)等を過ぎて、ジョヴァネッリ館となります。『大運河』(1993)の記述は下のようです。
[かつてアパートを借りたテースタ通り、ラルガ・ジャチント・ガッリーナ通りから北へ入り、直ぐ左の角の6216番地の建物壁面に大きな顔の像が嵌め込まれており、1400年代死刑執行人が住んでいたと言われています。当時その像の口に、死刑になった人についてのコメントが挿し込まれたものだ、とか。このボーイア館にもそんな話があるのでしょう。]
ジョヴァネッリ館「恐らく15世紀半ばに遡る、中央に美しい四連窓があるゴシック建築である。オリジンはフォスカリーニ家で、ジョヴァネッリ家が1700年代、後を継いだ。現在は国鉄の事務所が入っている。ジョヴァネッリ家はハンガリーで鉱山業を営み裕福になった、ベルガモ出身の一族である。その功績で貴族に叙された。

その後ヴェネツィアに到来し、1668年の黄金文書に記載された。“お金”で貴族になったのである。共和国には3人の著名なサン・マルコ財務官を送った。」

そしてサン・ザン・デゴラ運河やリッツォーリ館等を越して行きますと、マルチェッロ小館となります。[サン・ザン・デゴラ(S.Zan Degorà=伊語San Giovanni Decollato(サロメによって首を刎ねられた聖ヨハネの意)教会が奥にあります]。『大運河』(1993)は次のように言っています。
マルチェッロ小館「ノービレ階(主人達が使用する階)が唯一つの小さな建物である。その階は中央のセルリアーナ式一面窓に楣式(まぐさ)構造の軒蛇腹が内接してアーチ枠で支える一面窓が両脇に置かれている。17世紀の建物では普通の事であるが、建築はその世紀半ばに始まった。

マルチェッロ家は栄えある古代ローマ起源の、同名の一族である。一家からは2人の総督が出ている。第2代総督テガッリアーノ(717~726)であり、初代・2代2人の内のこの2番目は、ヴェネツィアがビザンティンから政治的に自由になる前、バシレウス皇帝の是認を受けていた。そしてニコロ(1473~74)である。

しかしこの一家がヴェネツィアに輩出した数多い著名な将軍や政治家の中で、その名が燦然と光り輝くのは2人の兄弟音楽家の栄光故である。アレッサンドロ(1684~1750)と更に有名なベネデット(1686~1739)である。

ベネデットはマッダレーナ運河のマルチェッロ館で生まれた。いかなる貴族であったか、ベネデットの生活は共和国の政治に向けられていた。事実彼は重要な職務を熟した。ポーラ(スロヴェニアのPula)の施政長官、そして四十人委員会の仕事、それ故音楽は彼の単なる趣味(情熱)だった。

誇りの中に彼を駆り立て、彼を暗中模索から引き摺り出したのは、父親だった。ある日、既にヴァイオリンの名手だったアレッサンドロがお客達の前で演奏し終わった後、父がベネデットに言った。「お前だって、楽器の収集家ぐらいにはなれるよ」と。

この時以来、この若者は兄に劣らぬ姿を示したのだった。複雑にして、相矛盾する楽曲、生き生きとしてファンタジックな想像力でありながら、内向的でメランコリックな着想、彼はいくつかの作品、今日でも評価され演奏されるオーケストレーションされた楽曲や称賛さるべき詩編歌を書いた。

彼は鋭く、辛辣な評論家としても登場する。彼は芸術的霊感と呼べるに値するやり方で恋をした。ある夜、窓辺を近所の人数人が乗った船が通りかかった。その中に素晴らしい声の娘がいた。ベネデットにはその音楽は、自分の目指すものと同じと思えた。そこで下へ降りて、ゴンドラの人々と合流し、歌手を知った。彼女をレッスンし、結婚することになる。

ある日、相当後の事だが、教会にいた時、墓石が倒れ、彼は膝から穴に倒れ込んだ。起き上がったが、彼の少々特異な性格から、この事件が強迫観念になり、言うに言えない警告となってしまった。このため音楽を捨て、宗教書に没頭するようになった。53歳で亡くなったが、その時ブレッシャの財務官で、青年時代の病が悪化したのだった。

彼の遺書は相続人や子孫に音楽に携わることを禁じている。」
[マルチェッロについては、2008.12.27日のサンタンジェロ劇場や2014.08.14日のマルチェッロ館等、色々触れてきました。Youtubeにマルチェッロの有名なオーボエ協奏曲があります。この作品は現在兄アレッサンドロ作と同定されているそうです。]
  1. 2017/06/08(木) 00:05:46|
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ヴェネツィアのヴォガロンガ(43回目)

本日の新聞La Nuova紙に船の長距離漕(ヴォガロンガ)の記事が載っています。少し訳してみます。
サン・マルコ湾の船「 ヴェネツィア、2000艘のヴォガロンガ大会
――今年の大会はリーノ・トッフォロに捧げた大会で、沿岸の声援者は大変な人。例によってカンナレージョ運河は大渋滞――

サン・マルコ湾で9時に伝統的な櫂を高く掲げる、捧げつつの礼、の後、号砲で出発。今年はリーノ・トッフォロに捧げた43回目のヴォガロンガである。彼はムラーノ島の自宅のような大きな船で参加してきた。2000艘で、7700名の操舵者。

海、太陽、風、温度、全ては滑らかに進捗した。河岸では感動の嵐があり、熱い声援が飛び交った。数多くの住民や観光客が操舵者を待ち、色とりどりの、また風変わりな、あるいはアルミニウム製やクラッチペダル推進式の船を楽しんだ。……
……」
これだけの船が集まると、大会関係者の努力は大変なものでしょう。宿泊宿や船の係留地等何か月も前から交渉事が始まって、それが43回続いているということです。船が好きだから出来る事なのでしょう。
  1. 2017/06/05(月) 20:55:34|
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天正遣欧使節(10)

世界文化社の『家庭画報』2017年3月号に次のような特集記事が掲載されていました。即ち「誌上初、ヴァチカン教皇庁図書館の至宝を特別公開」として、特集《天正遣欧少年使節団の書簡》という大変貴重なものでした。
天正使節書簡天正遣欧少年使節については、私のブログでも2008.03.21~2013.11.27日天正遣欧使節》(1~9)と触れてきましたが、その内容とこの雑誌で書かれていることに齟齬があるようです。カトリック大辞典(冨山房)を始め、新異国叢書5の『デ・サンデ版 天正遣欧使節記』(泉井久之助、長沢信寿、三谷昇二、角南一郎訳、雄松堂書店、昭和44年9月30日)、ルイス・フロイス著『九州三侯遣欧使節行記』(岡本良知訳注、東洋堂、1942-49年)、三浦哲郎著『少年讃歌』(文春文庫)、松田毅一著『天正遣欧使節』(講談社学術文庫)等、少年使節の行路はリヴォルノに上陸、西海岸沿いにフィレンツェからローマへ、教皇に謁見し、突如の教皇逝去のためローマに2ヶ月滞在後、東海岸沿いにイタリア各地を経巡って、ヴェネツィアに至り、更にミラーノを経てジェーノヴァから船出し、スペインから帰国の途へ、というのが大まかな行程だったようです。

「……1582(天正10)年に長崎を出発し、1585年にフィレンツェに入った使節団は、各地を歴訪した後、ヴェネチアに到着。サン・マルコ広場で祝典行事が催されるなど大歓迎を受けたといいます。その後ローマにて教皇グレゴリウス13世との謁見を果たした彼らは、ヴェネチアに宛てて謝意を綴った書簡を送ります。日本語の原文と訳文、4名のサインも書き込まれた貴重な《感謝状》。現地で購入したと思われる洋紙に、筆と墨汁を用いて、滞在時のお礼と、彼らが見聞したことを日本で披露し布教を約束する内容が書き綴られています。……」とこの雑誌に書かれています。

雑誌の編集部の文章を逆に、2ヶ月のローマ滞在の感謝状をヴェネツィア滞在10日間に書き送ったとすると、時間的にも合致して来ます。ヴェネツィア政府に布教の約束をする必要は皆無です(教皇庁にはする必要があります)。ヴェネツィアに送られた感謝状がローマにある(その逆も)、ということは両市互いに殆どあり得ない事と思われるのです。誤訳があったのか、編集部の不勉強か、何かがあったとしか私には思えません。《ヴェネチア宛て…》ではなく、ヴェネツィアからローマへの礼状でしょう。

先日も読売新聞でヴェネツィアの観光客の数を「2004年―175万人、2014年―260万人」と書いていました。La Nuova紙によりますとヴェネツィアのベッド数は35000だそうで、ツイン(2人)が基本ですが、一人旅や延泊もあるので、平均365日の4分1、90日に90人が宿泊したと仮定して、ホテルで約300万人(多過ぎるか?)。その他未登録のアパートやB&B、ヴェネツィアに泊まれず、近隣のホテル等に宿泊した人々を含めて、船舶、バス・車、電車で到着する1日の観光客は宿泊数の何倍にもなるそうなので、2000万程度になるのでは、と言われているそうです。いずれにしても、鳥取県境港市が水木しげる効果で観光客が200万を越したと喜んでいた時私が訪れた時の人出とは比べものになりません。

事ほど左様に、人は間違いを引き起こすものであり、誤解・書き間違いはもとより、間違った文献を再び書き写すことも屡ですから(私のブログでも間違いを起こし、後でこっそり訂正しました)、私も心しなければ、と思う次第です。

それは例えば、2008.08.31日の私のブログパードヴァ大学で、パードヴァ大学の解剖教室の設計者を、有名な解剖学者のアンドレアス・ヴェサリウス(オランダ人)と書いたのですが、実際はアクアペンデンテのファブリキウス(伊名ジローラモ・ファブリーツィオ)が1594年に作った物であることを後に知り、赤面して書き改めました。

また他の例では、日本ウィキペディアの《支倉常長》の項で、彼はスペインから陸路でローマに行ったと書かれています。彼は地中海を海路でスペインからローマに行く途中、嵐に遭い、フランスのサン・トロペ港に避難し、仏国の土を踏んだ最初の日本人として、戦後発見されたサン・トロペ侯爵の書簡が翻訳され、明らかになりました。そして伊国のチヴィタヴェッキア港に上陸します。彼らが石巻の月ノ浦港を出発してから400年記念の年2015年、私はチヴィタヴェッキアに行き、彼の銅像やら彼らが辿った道筋が石に刻んであるのを視認しました。こういうオープンのウィキペディアの間違いをインプットされると、信じた人は悲劇です。
[チヴィタヴェッキアについては、2015.10.17日のチヴィタヴェッキア行をご覧下さい。]
  1. 2017/06/01(木) 00:09:41|
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ヴェネツィアの建物: Palazzo Bellon Battagia(ベッローン・バッタージャ館)他

カ・トゥローンを更に右へ進むとベッローン・バッタージャ館となります。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように言っています。
メージョ倉庫他「海軍最高司令部のシンボルである2柱の方尖塔が見えるので、それと分かる建物である。館はバルダサーレ・ロンゲーナが1645~48年に建てた物で、それ以前にあったゴシック様式の建物を改築したもの。規模を縮小したにも拘わらず、装飾的要素が豊富で、バロックのファサードを特徴付けている。

即ち、浮き出た曲線のティンパヌムは区切られて、コンポジット式の扶壁柱で支えられ、壁面を活気付ける木目模様や大理石の二つの大きな紋章で2階窓の枠取りを構成している。内部は19世紀に再び手が加えられ、ジュゼッペ・ボルサートとジョヴァンニ・バッティスタ・カナールのフレスコ画が保存されている。

今日、イタリア貿易振興会が入っている。

バッタージャ家はロンバルディーアから到来した一家で、スフォルツァ家と縁続きであり、1500年頃貴族を許された。その時ピエートロ・アントーニオはクレモーナ城の城主であったが、セレニッスィマ共和国の要塞を任されていた。その機会にヴェネツィアは彼に大運河の館を与えた。

この一家から多くの著名な軍人が輩出し、ジェローラモは1667年カンディア(クレタ島の港)の施政長官であった。1604年ピエートロ・パーオロ・バッタージャは酷い不和のために兄弟のジャーコモを人手に殺させたが、その夜にはあるパーティから帰宅したのである。」

その右隣はメージョ(Megio=伊語miglio(粟)、biada(飼葉)の意)倉庫です。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のような説明をしています。

「15世紀の建物で、粟や飼葉等、即ち広い意味で穀類の貯蔵倉庫として共和国が使用した。何世紀もの間に、1階の三つの大門と上の階の、3層のアトランダムに置かれた小さな窓がある簡素なファサードの素の煉瓦の赤い色がくすんで来た。全て白い大理石が打ち込まれた、狭間胸壁仕上げで洗練され、中央にはセレニッスィマ共和国のシンボルである有翼のライオンを彫った大きな大理石の板が置かれている。

共和国には、穀類が充分足りている事を確認することは日常的な必須事項であった。それ故、係の執政官は常に在庫量をチェックしていた。飢饉の酷いある期間には、いつもの無遠慮な現実感覚で、彼らは正に穀物獲得のためには海賊行為にまで赴いたのであった。」
[ヴェネツィアの穀物倉庫については、2013.02.23日の飢饉や2014.03.26日の小麦倉庫で触れています。]

更に右はトルコ人商館(Fondaco[=ヴェ語Fontego] dei Turchi)です。今度はR.ルッソ著『ヴェネツィアの館』(1998)の記述を借ります。
トルコ人商館「今日トルコ人商館として知られるこの館を、1200年代ヴェーネト=ビザンティン様式で建てさせたのは、一人の商人貴族であったペーザロ領事のジャーコモ・パルミエーリという人物だった。

オリエントや西欧の商品、大量の生姜や胡椒の袋、中国絹やイングランド布の梱を大きなガレー船が着岸して、陸揚げが可能なためにわざわざ作らせたと思われる。1381年共和国が手に入れ、フェッラーラ侯ニコロ・デステに、キオッジャ戦争の時に彼が示した忠誠のために与えた。その時以来、館はエステ家の一種の流動的財産となり、関係に罅が入るとセレニッスィマは押収し、改善されると戻された。

こうして1483年、フェッラーラは後背地に領土拡張政策をするヴェネツィアに反対し、1509年にはカンブレーの反ヴェネツィア同盟に加わった。共和国は著名な外国の訪問客とそのお付の家来を歓待するのにこの建物を利用した。

1438年2月のフェッラーラ宗教会議の折、ビザンティン皇帝パライオロゴス公ヨハンネス8世(Giovanni Ⅷ Paleologo―在位1425~48)が、2ヶ月以上の船旅でコンスタンティノープルからギリシア正教会総主教と650人以上の聖職者に付き添われ、館に宿泊した。

館にはパンドルフォ・マラテスタ[リーミニの狼と呼ばれた、リーミニ領主シジズモンド・パンドルフォ・マラテスタ]、ヴァラキア王[古代ダキアDaciaと呼ばれたルーマニア南部の王]、ポルトガルのペドロ卿――女達をバルコニーに呼び出すように喇叭手やファイフ奏者が前触れ役で奏し街を回った――ハプスブルク公フリードリヒ3世(Federico Ⅲ d'Asburgo)、アンジュー公ルネ(Renato d'Anjou)、ポーランド王妃ボーナ・スフォルツァ等が宿泊した。

17世紀初めになって、トルコ人が滞在するためやって来た。その時、新しい所有者であった総督アントーニオ・プリウーリ(1618~23)が、トルコ商人に貸すことを決めた。政庁が何年も前から考えていたことは、トルコからだけでなく、コンスタンティノープルの君主に従う、あらゆる地方からやって来る商人、事業家、色々事業を企む人々を一つの場所に纏めて、集めたいと考えていた。

門と窓はイスラムの習慣で閉じられ、モスクと風呂が設けられた。しかしキリスト教徒の女や若者の入館の禁止は、トルコへの偏見が執拗だったことを示している。オリエントとの交易が下火になり、商品数が減少し、結果賃借料の利益が減り始めた。建物の状態も悪化し、1732年には建物の崩れも大きくなった。トルコ人は1838年まで住み続けた。最後のサッド=ドゥリズディとかいう人物は、マニーン家がペーザロ家から遺産として得たこの建物から、出て行かざるを得なかった。

1860年以来、市の所有となり、博物館となった。最初はコッレール市立美術館、続いて自然史博物館である。」
  1. 2017/05/25(木) 00:02:49|
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所謂《ゲットー》について

今までヴェネツィア或は違った土地の“ゲットー”について触れてきました。特にはヴェネツィアのゲットです。2016.05.19日のユダヤ人や2016.06.09日のゲットで触れました。ヴェネツィアのゲットの語源が違うと言う本が現れました。今はこの説を全面的に信じています。

アリス・ベッケル=ホー著『ヴェネツィア、最初のゲットー』(木下誠訳、水声社、二〇一六年三月一五日)は、例えば私が信じていた、そこが鋳造所(gettoジェット―ヴェ語getoジェート)であった島をゲットと呼ぶようになったという説を根拠なしとして否定しています。次をご覧下さい。
ヴェネツィア、最初のゲットー「……1516年に、元老院は《ユダヤ人を町の中で隔離し、サン・ジローラモ小行政区の小島に移送する決定》を行った。そして、三月二十九日に、政令が公布され、《ユダヤ人は全員、サン・ジローラモの近くのゲットー所在の一群の家に集まって住む》ことを命じたが、この文言はリッカルド・カリマーニが引用した最初の版のもので、やや後に、それは《サン・ジローラモの近くのゲットーにある一群の家々》と訂正された。
……
このジェトもしくはゲト(g(h)eto)という語が示す場所は、ヴェネツィアで慣例となっていたように、コントラーダ(小行政区―行政上の下位区分)――この場合、カンナレージョ地区(セスティエーレ)(ヴェネツィアの六地区の一つ)の中にあるサン・ジローラモ・コントラーダ――への所属によって場所が画定される既存の街区(カルチェ)であり、おまけに、そこには、その街区がユダヤ人に譲渡された時にはすでに建物があってヴェネツィア人の住民が住んでいたにもかかわらず、いったいなぜ、その語は、ユダヤ人の定住の後にしか現れないのか?
……
ヴェネツィアはそのために、あらゆる外部からの干渉を排除した経済商業政策を確立し、きわめて早い段階から、唯一の人間の手に絶対的権力が握られる危険を制限した(ドナテッラ・カラビが明確にしたように、《総督(ドージェ)政府は、複数の権力の関係と均衡と保証の緊密な網の目の上に築かれた共和制政体である》。

Al.ル・マッソンは、こう記している。《あらゆる公職に就き、いかなる勲章も求めず、自分の名にいかなる称号も付けなかったヴェネツィアの貴族たちは、事業を指導し、国家に献身的に仕え、国民の頭脳であると同時に腕でもある特権以外の特権は手に入れなかった。[……]すべては民衆のためだが、何も民衆によってなされるのではない、というのがこの貴族階級のモットーだった。》さらに、アルヴィーゼ・ゾルジは《ヴェネツィアの文化においては、専制君主のための場はなかった》と断言している)。

そして、最後に、ヴェネツィアは、ビザンティン帝国の最良の伝統に従って、外国人商人の居住を促進し、適切な司法官職を作って彼らの結社を管理するとともに保証したのである。《共和国は、自らの周縁性を意識して、人々を引き寄せる極、必ず通過せねばならない場所、商品を一時的に降ろす寄港地、首都の商業交易の活気あふれる中心地という評判を常に強く求めてきた。》

自らの利益をよく考えて守りながらも、ヴェネツィアは、その町の威信と富に魅かれてやって来るあらゆる種類の外国人を常に断固として、名高い歓迎の態度でもって扱ったが、彼らがその町に魅かれたのは、その場所で商売を行い、豊かになり、要するに他のどこよりも――すなわち、戦争と追放によって自分たちが追われた国々よりも――良い生活を送る可能性がそこにはあったからでもある。そうでなければ、なぜあれほどの外国人の流入があったのだろうか?
……
ゲットーはと言えば、ドックについて見たように、それはフォンテゲットー(fonteghetto―イタリア語のフォンダケット(fondachetto)の後半部分にほかならないことは明らかである。フォンテゲットーは、アラブ語のフォンドゥク(fonduq)の直接の借用語であるフォンテゴ(fontego)の指小語で、外国人の共同体に住居として割り当てられた委譲地――隊商宿型(キャラバンサライ)の――を意味する。ラビのヴェルトハイマーが立てた仮設は、それゆえ、あらゆる仮説のうちで、もっとも真実に近かったのである。……」

現在《ゲットー》という言葉は押し込まれて隔離されたマイナーな空間が普通イメージされます。そうでなければ、ヘブライの言葉で疎外とか隔離とかマイナーな意味合いの言葉から発生した等の発想はなかったでしょう。ヴェネツィア以外の地では、《ゲットー》はイタリアでもアルプスの北でも強制収容所的な閉ざされた場所だったのでしょう。ヴェネツィアのゲット内部は明るい、自由な空間だったようです。

それはドイツ人商館やトルコ人商館が残っているように、商館(フォンテゴ――Fontego dei Tedeschiのように)は商業の場所であり、宿舎であったので、指小辞の-ettoを付けたユダヤ人達のヴェネツィア語のFonteghettoも商売のハレの場であり、慰安の我が家だったのでしょう。ゲット入口に門衛が置かれたことは彼らの大きな財産が守られることにもなりました。そうでなければ、拳骨橋の殴り合いにヴェネツィア人と一緒になって参加し、楽しむなどということは起こらなかったでしょう。リボルノのユダヤ人の歴史を勉強しなければと思った事でした。

訳者は巻末の訳者解題で次のように述べています。
「……ゲットーを《鋳造所》《隔離》《離縁状》《格子》《小地区》と見るか、《倉庫》《宿舎》と見るかは、ゲットーを否定的なものと捉えるのか肯定的なものと捉えるのかという二つの世界観の戦いを反映しているのである。……」と。

[1938年頃、ゲット人口は約1200人位だったそうですが、ナチとファシストに負われるようにUSA等に逃げ出しました。私が初めてここを訪れた1994年には片手位の家族しかユダヤ人はいないのではないか、と言われました。商店など皆無で閑散と明るい広場でした。現在500人以上の人が舞い戻って来て、キッパ帽を被ったり、黒いユダヤの上下スーツと山高帽で正装した人々が闊歩し、商店も出来て賑わいを見せています。かつての商館的なゲットの雰囲気で世界にヘブライを発信している感じです。ここは強制収容所的《ゲットー》ではなかったのです。Youtubeの《Storia del Ghetto a Venezia(ヴェネツィアのゲットの歴史)》が参考になります。]
  1. 2017/05/18(木) 00:05:36|
  2. ヴェネツィアの伝説
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ヴェネツィアの建物: プリウーリ・ボン館他

サン・スターエ教会を右へ進むと、プリウーリ・ボン館です。E.&W.エレオドーリ著『大運河』(1993)は次のように紹介しています。

「13世紀終わりか14世紀初めに遡る、小さいながら興味深い建物である。高く持ち上がった1階大門(一部は塗り込められて壁になった)のヴェーネト=ビザンティン様式からゴシック初期様式への推移が理解されるが、2階の五連窓に真似た、5ヶのビザンティン式の大門は上部が屈曲し、一種の尖塔状である。
プリウーリ・ボン館プリウーリは“新しい”家系の一家で、ヴェネツィアに著名な司法官や軍人を輩出した。現在も存続する一族である。バルバリーゴ家としてプリウーリの2人の兄弟は、続いて総督宮殿の王座に就いた[マルコ(1485~86)、アゴスティーノ(1486~1501)の事]。

最初のロレンツォ(1556~59)は大変な威信と権力を得たが、父親は不幸にも息子の邪悪さが心配のあまり、死んでしまった。彼の後任となったのは弟のジローラモ(1559~67)で、彼は正に熟慮の人であり、元老院の多数から尊敬された。というのは彼自身慎重で、冷厳な人物であり、貴族階級に対し、厳しい姿勢を貫き、人々は、彼は彼の一族の一人の非行に対して責任がある、そういう一家の一員であるとは考えなかった。3番目の総督アントーニオ・プリウーリは教養ある法曹家だった。」

プリウーリ・ボン館の右隣は、バッキーン・デッレ・パルメ館前部に庭があり、更にその右はドゥオード館です。エレオドーリの『大運河』は次のように述べています。

「14世紀終わりから15世紀初めにかけてのヴェネツィア・ゴシック建築の変遷の様相を示す、屋根裏部屋を持つ小さな建物である。ピアーノ・ノービレ(2階)の中央に屈折したアーチの美しい四連窓が開け、露台が突き出して、両脇に一面窓を従えている。1階と中2階は次の世紀に模様替えされた。左隣には壊れたコンタリーニ館の庭(バッキーン・デッレ・パルメ館前部の事)がある。

ドゥオード家については1000年代から史料があり、数多くのキャプテン達が何世紀にも渡って一家の名声を高めた。1704年、ピエートロの死が大きなスキャンダルになった。修道女の嫉妬のために、パーオロ・ドナに殺されたのだった。」

更に右隣はトゥローン館です。前掲書の記述を借ります。
ドゥオード館ほか「16世紀終りのルネサンス様式の美しい建物である。この建物以前の、非情に古い建物の上に建てられた。トゥローン家が10世紀にサン・スターエ教区に属すると確認されて以来のことである。ファサードは露台で強調され、柱の上のアーチとなった大きな五連窓[写真で見る限り、四連窓に見えます]で、2階、3階の中央に開けている。そして一面窓で両脇を固めた[四連窓の両脇に一面窓、更にその両脇に一面窓がバランスを外してあるように見えます]。現在は建築大学が入っている。

トゥローン家はヴェネツィア起源の“16護民官家”の一家である。裕福で影響力のある一家であったが、トルコとの戦争に凄まじい量の血を注いだ一家でもあった。総督ニッコロ(1471~73)は優秀な政治家で、当時17歳だったカテリーナ・コルネールがキプロスのルジニャン王ジャック2世との結婚に際しては大変面倒を見た。この重要な島とヴェネツィアの合法的な合併を画策し、事実そうなったのだった。

彼は市民達から珍しい贈物を貰った。それは、“トゥローン総督閣下は性悪だが善人だ”、という呼称である。彼はサンタ・マリーア・デイ・フラーリ教会に葬られ、墓の彼の像は主祭壇の左に置かれた。大きな口髭を目にすることが出来るが、それは彼の一人息子が死んだ時、生えるに任せ、永遠の喪に服する印として決して剃らなかったものである。

トゥローン家の権威と富は斯くも大きなものであったので、1775年皇帝ヨーゼフ2世のヴェネツィア訪問の折には、自分の館にお招きし、豪華な晩餐会の後、有名なパーティを催す栄誉を許されたのだった。サン・スターエ教区のトゥローン家は1800年ヴィンチェンツォで血筋が途絶えた。」
  1. 2017/05/11(木) 00:21:53|
  2. ヴェネツィアの建築・建物
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ヴェネツィアの街案内(21)

(続き)
「この広場ではサン・ポーロ広場やサント・ステーファノ広場でのように、古くは闘牛の祭が行われていた(実際、とりわけ牛伝説があったのである)。周りには素晴らしい館が建っているが、それはプリウーリ館であり、ドナ館であり、ヴィットゥーリ館であり、かのマリピエーロ・トレヴィザーン館である。1800~1900年代に公妃ハッツフェルトの所有で、国際色豊かな、人気の文学サロンを主宰した。

この住居の傍に、ルーガ・ジュッファ(Ruga Giuffa)橋があり、記憶によれば、Julfa(or Culfa(アルメニア―アゼルバイジャン)から来たアルメニア商人の事であるが、古い資料ではGagiuffaという名前は、gajufusから、そしてダルマティアのgejupkaから来ており、ジプシーを意味している。ここからgaglioffo(悪党)という言葉は来ているだろう。これらgajuffosというのは、あたかも助けを必要としている善男善女、の振りをしている連中である。病院や修道院、同信会館等を回って、寄付を乞うのである。
カナレット『サンタ・マリーア・フォルモーザ広場』パルマ・イル・ヴェッキオ画『聖バルバラ』(部分)[左、カナレット画『サンタ・マリーア・フォルモーザ広場』、奥にフォルモーザ教会が見える。右、パルマ・イル・ヴェッキオ画『聖バルバラ』(部分)]  この教会の内部は7世紀に作られたが、M.コドゥッチによって再建(1492年)され、聖バルバラに捧げられたヤーコポ・パルマ・イル・ヴェッキオの多翼祭壇画のあるボンバルディエーリ(砲手)同信会館の教会である。

教会背後はクェリーニ小広場に、クェリーニ・スタンパーリア財団があって、蔵書豊富な図書館、絵画の注目すべきコレクションがある。ここの収集品について触れるのは止めて、唯一ヴェネツィアの生活を描いた、ガブリエーレ・ベッラの興味深い69点の作品(1700年代半ば)があることに触れておこう。

サンタ・マリーア・フォルモーザ広場に戻り、カッフェで一服し、周りの景観にうっとり等したくないなら、鐘楼を後にして、プレーティ運河通りへ出て、直ぐ最初の橋を横切り、次の橋の上に建つゴシック式の素晴らしいアーチを眺めよう。そしてパラディーゾ通りへ入る。これは扶壁を備えた建物の二つの翼に挟まれた中世の面影を残す通りであり、通り終りにもゴシックのアーチがある。
[一階軒下の梁を支える桁が露出した様子が興味深い通りです。日本の組物の一手先(ひとてさき)のような雰囲気です。これが中世の面影でしょうか。]

この通りにヴェネツィアとその伝統文化について専門に書かれた本の編集出版のフィリッピ書店がある(フィリッピ氏はウーゴ・プラットをよく知っていた)。この魅力的な通りを後にして、サン・リーオ大通りを右へ行こう。その右手には、13世紀の小館がペアーで建っている。サン・リーオ広場にはビヤホール“オランデーゼ・ヴォランテ”がある。
パラディーゾ通り Poeta LibertinoPietro Buratti『Elefanteide』ジュゼッペ・タッスィーニ『ヴェネツィア興味津々』[左、サイトから借用。右3点、フィリッピ書店出版の本、ここでジュゼッペ・ボエーリオの『ヴェネツィア語辞典』等買いました]  広場は右にそのまま置いて真っ直ぐ行き、サンタントーニオ橋を越え、ビッサ通りをサン・バルトロメーオ広場に出るまで進む。今や足を休め元気回復する時である。選択肢は様々で刺激的だ。即ちゴルドーニの銅像を背にして右の通りを選べば、テントール小広場に出、バーカロ“アイ・ルーステギ”がある。
[バーカロについては、2011.12.24日のバーカロ(1~3)で触れました。]

これには選択が色々、右へ行けば、エキゾティックな料理が好みの向きには中華飯店“アル・テンピオ・デル・パラディーゾ”、そしてヴェネツィアの新しい世代の夜のランデヴー用に典型的なバーカロ“アッラ・ボッテ”がある。

もしこうしたカオスがお好みでない方は、近くのビッサ通りの歴史的総菜屋、永遠の鰯入りのモッツァレッラ・イン・カッロッツァ[モッツァレッラ・チーズのはさみ揚げパン]のある歴史的総菜屋(月曜休み)に逃げ出そう。

この近辺で、狭いボンバゼーリ通りの一角の背後に、町でも歴史的なレストランがある。ウーゴ・プラットのお気に入りのレストランであった“アル・グラスポ・デ・ウーア”である。現在では経営が変わって終ったが、かつてはグイード・モーラの伝説的レストランであり、氏は特別の機会には店を閉め、友人達のために夜の7時前には決して終わる事のなかった素晴らしい午餐を用意した。芳香馥郁たる料理からはあらゆる種類の美味なるものが立ち上り、高揚感とシャンペンに満たされて最高気分になり、陶然として軽やかに幸せな心地で“グラスポ”から外へ出ると、それはもう“ウーゴ・プラット王”の時代であった。

この店で“パヴィーア”とかいう人がカメリエーレとして働いていた。彼はマエーストロに昇るまで、コルト・マルテーゼに彼の一面を描いてくれるよう、紙とマーカーを差し出した。プラットは細緻な絵を描いたが、それは女性の美しいお尻であった。事は何年も続き、ある年、コルトの自画像を描いてもらえないという、パヴィーアの不平不満にマエーストロは、彼に次のような事を思い出させて納得させようとした。彼が彼の英雄の像を手にしていないのは本当だが、その代わり今や世界でも第一のプラットのお尻のコレクターであり、いつの日かこの特異のコレクションで思い出されるに違いないことは確実である、と。 ……」 (終り)
  1. 2017/05/04(木) 00:05:23|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(20)

(続き)
「教会の大門を後にして、マドンナ小広場へ行き、最奥を左へ曲がり、フェルツィ河岸通りを鉄の橋まで行く。橋は登ってみるだけで越さない。更に左へ行き、ボテーラ[Botera=Bottaio(伊語、樽職人)]小広場を見付けよう。しかしヴェネツィアの公式名でなく、ここを訪れ思い出す方が楽しい。ウーゴ・プラットのファンタジーと有名な所謂“スコンタ・デッタ・アルカーナ小広場”にその時居るということで、そこから、ツァー(ロシア皇帝)の失われた驚くべき宝物や革新的モンゴル、素晴らしき王妃達、残酷無残の好戦的支配者達についてのマルコ・ポーロのお話、コルト・マルテーゼ風の中国とシベリアの素晴らしい冒険旅行を始めるのである。
[Corte Sconta detta Arcanaとは、Hugo Pratt著のマンガ・シリーズ”Corto Maltese”の中の『ヴェネツィア物語』(Favola di Venezia)中で名付けた《神秘と呼ばれる隠されたコルテ》のこと。]

ここには魅惑的な調和で12世紀以来の建築的要素が入り混じっている。コルトがその時代を知ろうとした時、目前の壁面に日時計(長時間)を見たのだった。隠れた小さなオアシスが我々を魅了し、町の何と美しい一角であるか思い出させ、今や目にする事が可能だったはずのことは閉ざされている。……

この不思議な一角を後にして、河岸通りに戻り、最初の通りを左へ行こう(ヴェニエーラ小広場)。そして再度広場へ戻り、右へ曲がり、ザニポーロ大通りを行く。この通りには居酒屋アル・バローンがある。老いたカード師達の屯する所である。左手には先ほど述べた教会の後陣が見える。古い資料によれば、ここには弓や石弓の練習用の的が以前からあって、少年コルト・マルテーゼにとって普通に親しんだ地域だったことを付け加えておきたい。
オスペダレット教会[オスペダレット教会、サイトから借用]  右には仏語書の書店がウーゴ・プラットに向けて小さなショーウインドーを向けていた。左にはバルダッサーレ・ロンゲーナのオスペダレット教会の、巨人と怪人の彫像のバロック様式のファサードが迫ってくる。“バルバリーア・デ・レ・トーレ”通りへ向かう。この名前はここに材木倉庫があったことを思い出させる。トーレ(tole)とはtavole(板)のこと。
ヴェネツィア地図[サン・ザニポーロ大通りに続くバルバリーア・デ・レ・トーレ通り左の6673番地の4階と屋根裏部屋に、カザノーヴァが恋人フランチェスカ・ブスキーニと、ヴェネツィアに帰郷した後年1782年9月まで住みました。これが彼のヴェネツィア最後の滞在です。]
この名前全体は、多分この板がベルベル人向けの物であったという事実に基づくか、あるいはここで板の毛羽が削られた、即ち鉋で削られたということかも知れない。1000年頃の史料が存在する。ギリシアの皇帝が、ヴェネツィアの材木とサラセンの鉄の交易に対して文句を付けているのである。

ここ左手に食堂“バンディエレッテ”がある。仮面に興味があるなら、この遂先の左に随一のものがある。そして最も熱心な工房であり、20年ほど前、古い型を見付け出し、古典的でファンタスティックなタイプの仮面を作り始めた。そして町に影響を与え、急速に支持者を集めて、大中小、各種の仮面には巨大な物まで作る店まで現れて、そんな仮面屋のない通りはヴェネツィアにはないというほどまでになった。この店の右の古い浮彫に気付いて欲しい。これはライオン穴に投げ込まれたダニエーレ(5世紀の浮彫)を表している。
[旧約聖書のダニエル書にある、ライオンの穴に投げ込まれたダニエルの話から。essere nella fossa dei leoni(虎穴に入る)。ダニエルは無事に救い出されます。]

もし仮面に興味が湧かないなら、その代り通りが狭くなるが右へ曲がり、ムアッゾ通りからムアッゾ小広場まで行こう。そこにはゲットの建物同様に町でも最も高い建物があり、その一家の建物(17世紀)は一種の摩天楼のように聳えている。11世紀のビザンティン式の美しい柱頭が見られる。

軒下通りを抜け、橋を越え、カッペッロ家の1500年代の美しい館側を行く。この館は現在時にコンサートに使われる。右の狭いサン・ジョヴァンニ・ラテラーノ河岸通りへ曲がり、狭い通りを進んで、更に先の折れ曲がった同名の河岸通り名が終わる所で、左のテッタ通りへ曲がり、同名の橋を越す。左手に格安の宿泊所となっているヴァルデージ館がある。

右へ曲がると、ロンガ・サンタ・マリーア・フォルモーザ通りである。この通りに双子のような場所、“アル・マスカロン”と“ラ・マスケレータ”がある。時には“マスカロン”で一休みして、料理を待つのもいい。流行りの店の一つなので、前もって予約をした方がベターである。

食事を楽しみ、美味しいワインで気分一新して、ヴェネツィアでも大広場の一つである広場まで通りを進もう。サンタ・マリーア・フォルモーザ教会があり、素晴らしい鐘楼は丸でお菓子職人の細工のようである。」 (21に続く)
[サンタ・マリーア・フォルモーザ広場については、2010.09.18日のヴェローニカ・フランコに図版資料があります。]
  1. 2017/04/27(木) 00:04:28|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(19)

(続き)
「左の素晴らしいファサードは、サン・マルコ大同信会館のものである。現在は市民病院である。
[連れ合いは語学学校通学時代、突然目が充血して真っ赤になり、ここで色々診察やら検査をして貰ったことがありました。結局何が原因だったか、分からず仕舞いに終わったのですが、ヴェネツィアに滞在する旅行者は無料だということで、あり難いことでした。面白かったのは、院内にはバールがあって、ワインも楽しめるということで、日本とは丸で発想が違っています。]

総督ニコロ・マルチェッロのモニュメントも総督アンドレーア・ヴェンドラミーンのドキュメント(1493年)同様に、ピエートロ・ロンバルドと彼の工房が息子トゥッリオの協力もあって製作した作品である。

ピエートロ・ロンバルドと二人の息子トゥッリオとアントーニオの建築で、建築家のGiov. di Ant. Buora(オステンソ生まれのジョヴァンニ・ブオーラ・ディ・アントーニオ―1450~1513)の協力を得た。その後上部の改装ではマーウロ・コドゥッチ、後背部の増築ではヤーコポ・サンソヴィーノの手が入った。

多色大理石や遠近法を思わす浅浮彫の手業は大いに称賛され、入口の側柱のだきに近付いてみると、1400年代より後の物と思われるが、帆船を引っ掻いて描いた跡がある。それは詳しく言えばサン・マルコ寺院の第2大門の柱に描かれて見ることが出来るものであり、コルト・マルテーゼが非常に愛したもので、親しい人には必ず伝えていた。

(残念ながらこれらの引っ掻き絵は、現在では修復工事、もう少しラディカルに言えば、市の浄化作業の中で殆ど全て姿を消した。石という物の見方、また扱い方というものは何時見直しが始まるのだろうか)。

隣の壮麗な教会[サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロ教会、ヴェ語ではサン・ザニポーロ教会]はドメニコ会士に属しており、1430年に献堂された。しかし約200年もの長きに渡って、僧達は御勤めをしてきた。ゴシック式とルネサンス式の間の1400年代建造の入口の大門は、その堂々たるファサードが完成にまで至らなかったということを告げている。使用されている大柱はトルチェッロ島から持ってきたもので、そちらは今は蛻の殻である。

外部には、9世紀のヴェーネト=ビザンティン様式の盃と棺(1249年の総督ジャーコモ・ティエーポロと1275年の息子の総督ロレンツォ・ティエーポロの)があり、教会に入堂するというよりは、恰も大霊廟に入廟する感がある。ここには総督や優れた人達を祀る厚葬の壮麗なドキュメントがある。ピエートロ・ロンバルドの傑作は、多分総督ピエートロ・モチェニーゴ(1476年)のドキュメントであろう。しかしマルカントーニオ・ブラガディーンの名誉ある、素晴らしいドキュメントも見ることが出来る。
[マルカントーニオ・ブラガディーンについては、2016.06.23日のブログブラガディーンをご参照下さい。]

聖ウィンケンティウスに奉献された政治的なるものは、最初ヴィヴァリーニに、その後ベッリーニの作と同定されたが、全作品がリストアップされるまで長く掛かった。ここにある葬送の作品群は結局、セレニッスィマの眠れる歴史だということである。聖カテリーナ・ダ・シエーナの足下の少々不安になる聖遺物の事を思い出してみよう。

この格別の建築物の、素晴らしい多色のステンドグラスの向こうにあるのは、括目に値するヴェッロッキオのバルトロメーオ・コッレオーニの銅像という奇跡のような作品を、恰も我々のために準備して、思い出させようとするかのように広場中央に騎馬像があるということである。ヘルマン、ヘッセは彼の旅ノートの中で、町の繊細で音楽的な美と対照的な尊大な美というものについて語っている。
[H.ヘッセについては2014.02.05日のヘルマン・ヘッセ(1~3)をご参照下さい。] 

この素晴らしい馬の鋳造はマドンナ・デッロルト教会近くのある小広場で、アレッサンドロ・レオパルディの監督の下、行われたが、その小広場はそれ以後、コルテ・デル・カヴァッロ(馬小広場)と呼ばれることになった。この動物の乗馬利用が1500年頃殆ど姿を消したことに触れるのは楽しいことである。もっと言えばヴェネツィア人の馬の乗り手を嘲笑う機知ある詩句が存在するのである(この町の車の運転手に対しても同じようにそれがある)。
[修道女の車とヴェネツィア・ナンバーの車には、若葉マークの車のように近付くなと言われているそうです。]
コッレオーニコッレオーニはヴェネツィアが雇ったベルガモ人傭兵隊長だった。死に際して、多額の遺産を遺し、それ故彼はサン・マルコ広場に銅像が建てられることを望んだ。幸運な事にその意志は聞き届けられず、この広場が選ばれた。セレニッスィマはフィレンツェ人彫刻家アンドレーア・ヴェッロッキオに委託した。彼は型と蝋を用意したが、1428年突然の死に襲われ、製作半ばに終わった。その時点でヴェネツィア人鋳造家アレッサンドロ・レオパルディが後任となって仕事を終わらせ、非情に美しい台石を仕上げた。

この広場の魅力を楽しませようと、この広場にはずらりカッフェが並んでいて、我々に一休みするよう招いている。……」(20に続く)
  1. 2017/04/20(木) 00:07:01|
  2. ヴェネツィアの街
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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