イタリア、とりわけヴェネツィア(Italia, soprattutto Venezia)

ヴェネツィア偏愛、時には脱線。

ヴェネツィアのベファーナ・レガッタ

1月6日に行われる、恒例のベファーナ(魔女)・レガッタについてLa Nuova紙が伝えています。
戦うベファーナ達「 大運河での、ベファーナ・レガッタのスペクタクル
――勝者タイトルとして与えられる、通称ティンブロの“マランテガ”はジャンニ・コロンボ――
[maràntega(ヴェ語)はベファーナ(魔女)の事で、ここではベファーナ・レガッタの優勝者賞の事のようです。]

2018年ベファーナのタイトルとして与えられる通称ティンブロは、ジャンニ・コロンボ“魔女”が勝ち取った。仮装しての競艇は、大運河で土曜日午前中スペクタクルの開始となった。

勝者と頭一つで競い合ったのは、サン・ヴィーオのリッカルド・ロマネッリ。3番手は任務中の“魔女”、スペチェネのジョヴァンニ・ロッスィ、4着はロベルト・パルマリーンで、“Principe(王子)”としてよく知られた人、しんがりは今年初めてエントリーしたマラガのフランチェスコ・グェーラだった。 ……」

[ベファーナ・レガッタについては、2011.01.01日の年中行事(1)や2014.01.07日の御公現の祝日で謂れ等触れました。]
  1. 2018/01/07(日) 13:03:59|
  2. ヴェネツィアの行事
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ヴェネツィア: パラッツォ・ドゥカーレ(総督宮殿)の盗難

昨日の新聞La Nuova紙は1月3日の事件について報道しています。
総督宮殿[写真はサイトから借用]「 総督宮殿の数百万ユーロに及ぶ宝石類、盗まれる
――《ムガール(Moghul)とマハラジャ(Maharaja)の宝石》展の鋼鉄板で守られた宝石箱から、ダイヤモンドと金、プラチナのブローチ、首飾りが今朝(3日)、姿を消した――

ヴェネツィアの総督宮殿での展覧会に招かれていた、幾つかの宝石類が、宝石箱から盗まれた。1月3日朝10時頃、警報は鳴った。

現場で警察は、その首飾りは数万ユーロの価値があるだろう、と。監視カメラに映る映像では、2人の盗賊が侵入し、一人は宝石箱を抉じ開け、盗品をポケットに仕舞い込み、もう一人は彼を援護する。それは総督宮殿の投票室で展示されており、この日は展覧会最終日だった。

イタリアでは初めての展覧会で、AL THANI コレクション所有の、16~20世紀のインドの宝玉、宝飾品等が展覧会のために270点到来していた。 ……」

ヴェネツィアは、大ショック!!! La Nuova2で監視カメラの映像がご覧になれます。
  1. 2018/01/05(金) 00:03:30|
  2. ニュース
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ヴェネツィアの街案内(29): アルセナーレ近辺

(続き)
「葡萄畑の聖フランキスクス(教会―S. Francesco della vigna)――こうした事からこの町がワインとずっと深い関係を持っていたと考えると、興味深い事である。既にティート・リーヴィオが古い人民Heneti あるいはEneti(即ちワインの人々)が名前をVeneti に変えたのだ、そして我々がこの飲み物と繋がっている関係について長々と語っている。通常はエーゲ海諸島やギリシアから輸入したワインが、我々の手になるワインより当時は好まれたということは興味深い。

街には名前に“マルヴァジーア酒”をうたった店の通りが沢山あったが、そこではこの酒を“grechetto”とも言い、甘口マルヴァジーア(ミサの儀式ではヴィン・サント(vin Santo)が使用される前に使われていた)とか、garba酒(辛口)とか分類された。こうした舶来のワインはカンディア(イラクリオン)やキプロスから到来したが、香味を添えるため、色々のスパイスや砂糖で味を調えた。ヴェネツィアの伝統文化の著名な研究者モルメンティによると、ヴェネツィアではこのワインは、salubri(体に良い)、stomacati(むかつくような)、cordiali(和やかな)、matricali(カモミッラ風の)、gagliardi(アルコール度が高い)、mezzani(アルコール度が並みの)、deboli(アルコール度が低い)と分類される、と。

本土側での共和国の力が拡大され、ヴェネツィア貴族の資金力の増加で、彼らの土地に好みが広がり、外国勢力の侵入が終わった後、ベネディクト修道僧達が既に活性化させていた生産をより洗練されたものとした。それ故最良のワインの生産が始まった。valpolicella(ヴァルポリチェッラ)、picolit(ピコリット)、vernaccia(ヴェルナッチャ)その他があり、ドイツやポーランドに輸出された。

ヴェネツィアでは相当量のワインが取引され(Riva del vin―ワイン河岸)、色々の組合が発生し、それには容器を移し替える人の組合、ワイン原酒販売業者組合、ワイン輸送販売者組合、ワイン小売業者組合等、結局1609年には一つの組合に歩み寄り、サン・スィルヴェーストロ広場のヴィン運河通りに近い所に本拠地を置いた。

我らがコースに戻って、再度橋を越し、サン・フランチェスコ大通りを行こう。直ぐ右にボンバルディエーリ軒下通りがある。中へ潜ると太い管の上に立つ聖バルバラを表す美しい盃が我々の前に現れる。サン・ジュスティーナ大通りに繋がる狭い通りへ行き、周りを見回すと、他にも状態の良い盃が二つ見付かる。
聖バルバラ[聖バルバラ、サイトから借用] ここには1500年代ボンバルディエーリ(砲手)信者会に所属していた人達が、自分達の住宅を建てたのだった。サンタ・マリーア・フォルモーザ教会にはパルマ・イル・ヴェッキオの祭壇画に描かれた彼らの守護聖女バルバラに捧げた祭壇が作られた。共和国末期頃は町の警備隊の役を独占的に請け負っていた。

サン・フランチェスコ大通りに戻り、そのどん詰まりまで行き、左へ曲がり、更に左へ曲がってオージョ通りへ向かう。ここでsottoportico(アーチ下を通過する空間)の上の高みに目をやると、左手に大理石の古い浮彫りがある。イストラ半島出身のヴェネツィア総督フランチェスコ・エーリッツォ(1631~46)を輩出したエーリッツォ家の紋章である。

特に1470年、エヴォイア(Negroponte)の大使であり、かのBailo(オスマン帝国への大使)であったパーオロ・エーリッツォである。彼はトルコ軍から島を勇猛果敢に守った英雄である。一度はマホメット2世の軍を破ったこともあるが、2枚の木の板の間に結び付けられ、生きたまま鋸で切断された。

これらの像に感銘を受けた心と、今や終りに近付いた長い散歩で疲れた足とにもう一度活力を取り戻すために、少し前まで居酒屋Alle do Marie(アッレ・ド・マリーエ) があって、sarde al peperoncino(唐辛子の利いた鰯料理)が我々を元気付けてくれたものだが、経営者と店の様子が変わってしまった。しかしパン粥は美味しい。

左のオージョ通りの方へ行き、非常に狭い通りを左のバッフォ通りと呼ばれる道の交差点まで抜けて行く(このバッフォ通りはヴェネツィア語で風変わりな、エロティック詩を書いたジョルジョ・バッフォの一家に由来する)。狭い通りの終り近くで目線を上げて欲しい。目前の館の角に普通の窓のように窓が見え、硬い壁がそれを支えている風である。しかしその裏側には何もない。本物だという印象、現状のイリュージョン、どんな町にもある館、そして多分全ては絵空事、我々が今見つつある夢、だという事を我々に与えるだけの、正にそこに置かれた絵、舞台袖の垂れ幕を思わせる。
バッフォ小広場[左、バッフォ通りの奥まった所にあるバッフォ小広場。ジョルジョ・バッフォについては2012.09.01日のピエートロ・ブラッティや2016.12.08日のヴェネツィア街案内(13)等で触れてきました。]

ヴェネツィアとは非存在なるもの! ヴェネツィアとは素晴らしい舞台の袖から成立する、偏に劇場的なるもの。ヴェネツィア人とは非存在なるもの。ともすれば、かつて存在したやも知れず。今や真に美しき夢、夢そのもの。
今やあなた達は秘密の知識に近付いている。今やあなた達は隠された庭を、そして厳然たる現実を飛越して行くべき門を見付け出すことが出来る。あなた達は最早、旅人の巧まれた餌食ではない。あなた達は自らの感覚だけを信じて行動出来る。単に見るのではなく凝視すべきなのだ。

サン・テルニータ広場に入り、スッフラージョ橋、またの名をクリスト橋を渡ると道はアーチへと続く。この単独アーチもまた、明らかに無に開かれている。よく見ると、あなた方の目は外観を見透かすべく鍛えられた。そのアーチの向こうには海があり、多分そのアーチは壮麗で軽快なラグーナの水彩画に向かって開かれていると言ってもいいかも知れない。過ぎていく時間の、季節の色彩のように移ろい易い。

そこはヴァポレットの停船駅であり、その持てる名前以上の名前はないであろう、即ちチェレスティーア。急行の52番線と23番線の船は右へ行き、それには素晴らしい美点がある。それはアルセナーレの中を通過する事、そこで周辺に目を凝らし、空想を自由に羽ばたかせる。夢見る思いが終わる頃にはヴァポレットはサン・ザッカリーアに着岸する。 」 (終り)
[現在はこのアルセナーレ内を通過する路線は海軍敷地内ということでなのか、無くなりました。私が初めてヴェネツィアに行った1994年には、ムラーノ島に向かうヴァポレットがここを通過したので、船上から内部を見学出来ました。]

2018年が明けました。良い年でありますように願っています。長い間、ご高覧有難う御座いました。
  1. 2018/01/04(木) 00:04:07|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(28): アルセナーレ近辺

(続き)
「スキアヴォーニ同信会館を後にして、ピエタ運河近くのフルラーニ運河通りへ向かって行こう。右手のサンタントニーン橋を渡るとグレーチ大通りに近付く。そこには“トラットリーア・ダ・レミージョ”がある。更に橋に向かって進み、橋は渡らず、直前を左へ曲がるとヴェネツィア的でも未だ手垢に塗れない一つの区域で、浮かんだような運河通りを見ることとなる。コルト・マルテーゼが隠れ家とした所である。

ここには聖ゲオルギウス(S. Giorgio)に捧げたギリシア人コミュニティがある。西欧でも最古のもので、トルコ占領時代、ヴェネツィアは四散したギリシア人の最も重要なセンターとなったことを我々に思い起こさせる。こうして最初からギリシア人の流入があったのに、ビザンティン帝国の崩壊という、その時(1453年)から、インテリ、編集者、芸術家、筆耕者らが集まってきた。結局ヴェネツィア人以外では、ギリシア人コミュニティが最も著名なものとなった。
[ギリシア人画家テオトコプーロスはヴェネツィアでも活躍しましたが、スペインに渡り、大変有名となり、“エル・グレコ(El Greco―ギリシア人)”と呼ばれることになりました。]

寛容なヴェネツィアにあっても、ギリシア正教の祭式を認めることは教会分裂という事態になるので、それを営むことの出来る土地を確保することには問題が発生した。長い争いがあり、サン・ビアージョ教区でギリシア人にミサの挙行が許されるという過渡期を経て、最終的にある信者会に纏まってよしとする認可を得て、サンタントニーン教区に土地を購入し、1539年教皇庁の承認の下、殉教者聖ゲオルギウス(S. Giorgio Martire)に捧げる教会建設に着手した。工事は1573年完了した。建築家サンテ・ロンバルドと副建築士アントーニオ・キオーナに委ねられた。一方に傾いた鐘楼は建築当初からこうであり、ベルナルディーノ・オンガリーンの建造である。
サン・ジョルジョ・デイグレーチ[サイトから借用]  信者会に対してセレニッスィマは好意を示したが、ギリシア人傭兵隊は戦闘行為や勇気において際立つ男達で構成された非常に威力のある軽騎兵隊であり、戦争時その助力を提供してくれるので、好都合であったに違いないのである。

15世紀から16世紀初頭にかけて、ヴェネツィアはヨーロッパの中でもギリシア文化センターとして、唯一最も名高い場所になっていた。アルド・マヌーツィオはプラトンやアリストテレスのようなギリシア古典を、ギリシアの研究者やインテリ達の協力を得ながら、出版し始めていた。その中には教皇レオ10世やロッテルダムのエラスムスの協力者として知られていたマルコス・ムスロス(Markos Mousouros―伊式Marco Musuro)のような人がいた。
[アルド・マヌーツィオについては、2011.06.11日~ のアルド・マヌーツィオ(2~4)とか、2017.07.27日の書物の夢、印刷の旅等で触れました。]

1662年教会傍に、フランギニアーノ(Franghiniano)と呼ばれた高等学問研究所が設立された。莫大な量の遺産をこの信者会に残した希人弁護士Thomas Flanginis(伊式Tommaso Flangini)が設立し、彼の名を取ったものである。同時期にバルダッサーレ・ロンゲーナに病院を建てさせたが、それはこの博物館となっている。

今日この建物群の総体を見に訪れてみると、我々を時空を超えた世界に導く。博物館内部には興味豊かなイコンやミニチュアを描いた写本が蒐集されており、巨大な卵形の階段は美しい広間、コンフラテルニタ同信会館の参事会集会所へと続く。現実にはギリシア研究所の後援会議場で、時には現代ギリシア芸術家の展示場となる。教会背後、後陣の下は古い小さな墓場である。

沢山の杯や聖ゲオルギウスと龍を描いた浅浮彫りの間では、美しい静寂に満ちたオアシスが、瞑想と崇高の時を与えてくれるだろう。そして香の薫香がこの美しい教会内部へと引き寄せる、そこはビザンティンのイコンのように黄金で飾られ、両側は木製の聖歌隊席が置かれている。

内陣と身廊の界壁(聖障)のテーブルの上の絵画は、多くがクレタ島の画家ミケーレ・ダマスキノース(16世紀)の作品である。この建物内部では、ビザンティンと後期ビザンティンを研究するギリシア研究所が活動している。それはギリシア国外では唯一のものであり、貴重で豊富な資料を研究者達は自由に利用出来るのである。

ギリシア教会を後にして、橋を渡り、右の運河通りをサン・ロレンツォ橋まで行く。右へ橋を越え、サン・ロレンツォ通りを運河まで行くと対岸にマルタ騎士団の旧修道院が見える。道を左へ取り、コルテ・ノーヴァ橋を渡ると居酒屋“ダ・ダンテ“がある。未だ旅行客の手に塗れていない場所である。

このノーヴァ小広場を過ぎり、左の軒下通りへ入ると、聖母の祀られた小さな祭壇があり、是非見ておきたい。伝説によれば、この小広場の住民をペストや他の伝染病からいつも守ってくれたのだという。この通りから抜け出す前に左を見ると、鉄格子の扉(2862番地)があり、その奥にはマルテーゼあるいはボーカ・ドラーダの小さな庭(フーゴ・プラットによる)がある。

我らが散歩を更に続行し、サンタ・ジュスティーナ大通りの方へ右に曲がろう。扶壁の付いた家の隣、ベーネト・ビザンティン様式の大理石の美しい開廊の前に出る。その背後に魅力的な広場が隠れているのである。取り分けそこ、マッラーニ通りはフーゴ・プラットが場面設定に利用したのである。

交差路にやって来て左へ曲がると、橋を越えて、サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ広場に出る。フランチェスコ修道院と教皇大使の宿泊所を繋ぐ、渡廊下となった中空の通路を支える列柱の中を潜り抜け、この教会(ヤーコポ・サンソヴィーノの1534年の作品)の前に出る。ファサードは後にパッラーディオの手による。教会の中庭と庭は本当に美しい。勿論の事、入ってみたい。

教会は僧フランチェスコ・ゾルズィの理論に従って建てられた。彼は建築的、秘教的考え方の持ち主で、宇宙の均衡と調和の研究に没頭し、色々の尺度計算を“3”とその倍数に厳しく繋げて考えたに違いない。内部では現にある色々の作品の中でも、サン・マルコ鐘楼下の同名のロッジェッタのために、同時代サンソヴィーノと協力し合ったピエートゥロ・ロンバルドの一連の預言者の作品は興味深いものである。

この教会が建つ場所には、聖マルコに捧げた別の教会が存在したらしい。伝説によれば、アクイレーイアからの帰路、聖人は嵐があったためこの場所に一時避難したという。そしてここで天使の姿を見たのだという。天使は彼に向かって次にように言った。『Pax Tibi Marce, Evangelista Meus.(マルコよ、お前に平和を、我が福音書記者よ)』。セレニッスィマのモットーとして採用された文言である。
[聖マルコについては、2008.11.02~2008.11.22日の聖マルコ伝説(1~3)をご覧下さい。]
サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会[サイトから借用]  町のこの地区には、ズィアーニ家所有の広い葡萄畑があった。それが1253年シトー派の僧に遺言で譲られた。彼らはそこに修道院を建てた。そのため、San Francesco della Vigna(葡萄畑の聖フランキスクス)教会と呼ばれることになった。 ……」 (29に続く) 

長い間、ご高覧有難うございました。来年が良き年でありますよう、祈念いたします。
  1. 2017/12/31(日) 00:11:49|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(27): アルセナーレ近辺

(続き)
「取り敢えず、こうしたレストランは後にして、ピオヴァーン小広場に足を止めてみると面白いかも知れない。ここには井桁が3基ある。更にヴェネツィアで稀な事に、ここには店屋、バール、職人工房等全く無いのである。在るのは静寂のみ。この町の中でも、魔法のように隠された静穏が、賞味されるべき静穏なのである。平静に周辺を見渡し、良く見て、些細なまでの詳細、石の、屋根瓦の、窓枠の桟の色を玩味し、遠来の音を、鐘楼の時鐘を、口笛の唄を聴く。偏に静寂である。

前方のマルヴァジーア・ヴェッキアの小路を行き、右に曲がるとバンディエーラ・エ・モーロ・オ・デ・ラ・ブラーゴラ(Bragora)広場に出る(古くはBragolaで――メルカート広場――あるいはオリエントから聖洗礼者ヨハネの聖遺物が到来し、教会は彼に献堂された)。この教会でヴィヴァルディは洗礼を受け、1247年エジプトのアレクサンドリアから齎された聖ジョヴァンニ・エレモズィナーリオの聖遺物が保管されている。
ブラーゴラ教会と3805~09番地[ブラーゴラ広場] この広場に関しては、1819年2月のカーニヴァルの期間中、町に呼ばれたサーカス団の象が暴れ出し、自分の調教師を殺して、リーヴァ(海岸通り)・デッリ・スキアヴォーニを逃げ、幾つかの門、外階段と井桁を壊し、正にここブラーゴラ広場まで来た。教会内へ入り込んだそうで、そこから出たくなかったのか出れなかったのか、言わばはちゃめちゃ状態になり、結局海軍近衛隊が介入せざるを得ず、臼砲を持ち出し、軍隊式の陣立てで可哀そうに動物を射殺した。
[2012.09.15日のピエートロ・ブラッティでは象の逃げ込んだ教会はもっと奥にあるサンタントニーン教会としています。]

教会左からコルセーラ通りを行き、ペストゥリーン通りからサン・マルティーン通りへ戻る。左のペニーニ橋を渡り、運河側のゴルネ運河通りを行く。右側はアルセナーレの城壁である。その道終点まで行くと道が左へ折れて、フーゴ・プラットのファンタジーである、カッティーヴィ・ペンスィエーリ軒下通りである。
ド・ポッツィ広場[ド・ポッツィ広場] 更に左へ進み[右はマーニョ通りです]、ド・ポッツィ(二つの井戸)広場を行くと、角に居酒屋がある。ここの肉団子(polpetta)は大変美味しい。ちょっと一服した後、ここの門前の道を行くと左数歩の所、ロッタ(Rotaとも)小広場の前に、Corto Malteseの地名にある、《アラーボ・ドーロ小広場》がある。
[上記マーニョ通りに語学校のマッスィモ先生の家があり、そこをアパートに借りました。2007.10.28日のド・ポッツィ広場でそれらについて触れています。この広場の居酒屋が写真に一部見えているアイ・フォルネーリと思われます。]

引き返し、最初の左を曲がり、直ぐに右へ曲がる。スクーディ通りと同名の橋を渡る。ここから更に左へ、ガーテ広場からフルラーニ通り、コメンダ橋の手前を右へ曲がるとマルタ騎士団の教会とその在所がある。

マルタ騎士団の教会は騎士団の団長宅の傍に建てられ、俗にサン・ジョヴァンニ・デイ・フルラーニ教会と呼ばれたが、正式にはサン・ジョヴァンニ・デル・テンピオ教会で、11世紀末に遡り、12世紀に始まる。テンプラーリ騎士団の解散(1312年)後、ロードス島で発展したエルサレム・ヨハネ騎士団、即ちマルタ騎士団となった。

かつて教会は華美に装飾されていたが、1800年代初頭ナポレオンにより全ての調度備品や絵画は完全に汚されてしまった。今や教会は土曜日の17.30分のミサの時だけ開かれ、訪問出来るのはその時だけである。内部には色々な騎士団のあらゆる紋章で囲まれた魅惑的な中庭(chiostro)が我々に今でも白昼夢を見させ、鎧で飾った騎馬のギャロップの轟き、甲冑を着け新月刀での一突き、色取り取りの軍旗はためく姿を想像させる。
サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ同信会館[サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ同信会館] マルタ騎士団教会の傍には、サン・ジョルジョ・デッリ・スキアヴォーニ同信会館がある。アドリア海対岸の住民との繫がりは相当古い時代に遡り、15世紀初頭のセレニッスィマの支配下に入ったダルマティアの併合によって、1451年この同信会館は三聖人、即ち騎士ゲオルギウス(Giorgio)、少年トリフォン(Trifone)、賢者ヒエロニムス(Girolamo)の保護の下に同業組合として集まったものである。

最初マルタ騎士団教会(サン・ジョヴァンニ・デル・テンピオ教会)、次いで1500年代初期、エルサレム・ヨハネ騎士団の修道院の土地に建築家ジョヴァンニ・デ・ザーンによって建てられたファサードを持つ現同信会が建てられた。内部は三人の守護聖人に捧げられ、1502~07年にヴィットーレ・(スカルパッツァ・)カルパッチョによって描かれた一連の絵画作品で飾られた。その絵は最初二階に置かれていたが、1551年頃一階に移され、現在はそこで鑑賞出来る。
[カルパッチョについては2011.07.26~2012.11.10日までヴィットーレ・カルパッチョ(1~6)として触れました。カルパッチョ、いいですね。]

この内部はルネサンス芸術の最も貴重な例証の一つであり、事実手付かずに保存され、1797年ヴェネツィア共和国が崩壊した時、殆ど全ての同信会館が閉鎖され、その財産は国家の手に渡るか失われてしまった。こうした事態はサン・ジョルジョ同信会館では発生せず、特別の通達のお蔭でその財産を保持し、活動を続行出来る特権を得た。

この絵画とは9点の画布である。『書斎の聖アウグスティヌス(Agostino)』『僧院の聖ヒエロニムスと獅子』『聖ヒエロニムスの葬礼』『聖ゲオルギウス、龍を退治する』『聖ゲオルギウスの勝利』『聖ゲオルギウス、異邦人(Selenito月世界の人)を洗礼』『聖トリフォン、皇帝ゴルディアヌスの娘の悪霊を払う』それに『聖マタイの召命』『菜園ゲッセマネの祈り』が加わった。これらの画布はその一つ一つが細部まで豊かに表現されたその魅力で、思わず方向感覚を失って我を忘れさせるような、画家の素晴らしいスタイルが現れている。
『竜を退治する聖ゲオルギウス』十字架の奇蹟[左、『聖ゲオルギウス、龍を退治する』、右、『リアルト橋における十字架の聖遺物の奇跡』]   カルパッチョがこの町を決して動こうとしなかったことを考えると、彼が何度も描いたその風景が理解され、その構成は彼を取り巻く現実の中で幾度となく驚異的に修正を施したものであったろう。この驚異の画家の作品に魅了された者は、アッカデーミア美術館で《聖ウルスラ(Orsola)伝シリーズ》を見逃す訳にはいかない。更に『リアルト橋における十字架の聖遺物の奇跡』である、その挿話は、ロジェッタ上の左の画布に描かれた、ヴェネツィアで群がり集まる人々の様子を描いたものであるが、その一方でゴンドラは古い木製のリアルト橋の下を静かに流れる大運河に浮かんでいるのである。 ……」 (28に続く)
  1. 2017/12/25(月) 00:08:06|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(26): アルセナーレ近辺

(続き)
「船舶博物館を後にして、パラディーゾ橋の方に向かってアルセナーレ運河通りを行く。その橋を渡る前に、船舶博物館への入場券を提示して、二つの錨のある船のパビリオンの閉じられた門を潜って、アルセナーレ分室の小さな工場に入場可能である。その内部で地上に引き上げられた素晴らしい船を見ることが出来る。

30年代に登場した流線型のモーターボート、アレックス・カロッツォに手直しされた小さな帆船(この冒険心旺盛な船乗りアレックスは大西洋の単独航海に成功した)、ポー川で品物を運ぶブルキオ船[北イタリアの川や湖で櫂や帆で物品を運ぶ平底の運搬船]、エレクトラの驚くべき遺物、フリッツ・ラングの映画『メトロポリス』のように、我々に何とかして未来の状況について考えさせようとするグリエルモ・マルコーニの船等、更に運搬のためや潜水夫への酸素補給の設備を備えた船、それはムー(Mu)の物語[1925年の消えた大陸アトランティスの話]のコルト・マルテーゼの事を我々に思い起こさせる。

アルセナーレ広場のアルセナーレの入口(1460年)はその偉容を如実に示すものである。有翼のライオンがアーチの凱旋門のようにその入口を睥睨している。直前に近づくと、異教の神々の像が間隔を取って設置され、鉄の格子で仕切られている。柵で囲われたその外は、左の入口を見張る最大のライオン像を筆頭に、4匹のライオンが整然と並んでいる。
[2008.06.06日のブログでダンテとアルセナーレについて触れています。]
パラディーゾ橋アルセナーレ橋[左、ウインザー城所蔵のカナレットのデッサン(『The Arsenal and ponte del Paradiso』伊語L'ingresso dell'Arsenale e il ponte del Paradiso)、右、カナレットのその完成画(『Il ponte dell'Arsenale』(1733-34))]。
その最大のライオンには古いルーン文字碑文の痕跡が残っており、その意味するところは、1040年ギリシア人の反乱に対峙するビザンティン皇帝へのスカンディナヴィアのノルマン商人達(Vareghie)の援助の事である。
大ライオン[サイトから借用] この左のライオンはフランチェスコ・モロズィーニが、1692年の戦争の戦利品としてヴェネツィアに持ち帰った物である。アテネのピレエフス(Pireo)にあったもので、そこにアテネ港の入口の番人として置かれていた物である。
[2015.06.16日にフランチェスコ・モロズィーニについて触れました。]

アルセナーレは数世紀の間に何度も火災を起こした。中でも被害の大きかったものがカンブレー戦争(1517年)前にもあったが、1569年の火事はそれと同等の凄まじいものだった。しかしそれに続く年、レーパントでトルコ軍を破った(1571年)その大艦隊を作り上げる造船所の能力を阻害しなかったのだ。それはヴェネツィアの富の証であり、そこで働く職人達の粘り強さと有能さの証であった。

アルセナロッティ[アルセナーレの職人衆]とは、この小さな自治都市の内部の造船所に従属する労働者全てを指すが、共和国時代、特別の特典を持っていた。とは言え、ヴェネツィアの力を支える真の支柱であった。主要で独占的役割が与えられていたので、直ぐにある種の労働貴族になった。大評議会の会期中の総督宮殿の護衛の任、造幣局の守護の役、防火消防の全ての責務、その他類似の活動があった。

船大工、鋳物師、鍛冶屋、武器職人は、全てこのエリアに集められた30もの各種の手仕事を熟知していたし、女工達は帆の保全管理の係であり、これら全ての仕事には職人見習いや索具の仕事に携わる10歳以上の多数の少年達が従っており、この大工場にはかなりの人々が蝟集していた。

アルセナーレの周りには、12世紀に遡る一連の住宅があり、共和国の特別の計らいで、それと分かる船乗り達に支給されたものである。それ故、この地域から"Marinarezza/Marinaressa=伊語marineria/Marineresca(海軍)"という言葉が由来している。

町でもよく知られたこの地域は、常に人々が住み、各地から到来した色々な人々で賑わっているが、ヴェネツィア人以外では、ダルマティアの漕ぎ手、ギリシア・トルコ・アルメニア・アラブ・シリアの商人、ビザンティンの高官、解放奴隷、兵士、冒険家と人種の坩堝で、ヴェネツィアをして全欧州で最も開放的且つ寛容な町の一つとしていた。

この点でこの近辺で美味しそうなテーブルに腰を下ろすとすれば、我が近海の最良の味の魚を食するに、二つの選択肢がある。通りがかりの美食家に知られた場所が、我らをご馳走で待ち受ける。

先ずはペストリーン通り(ライオンに目をやりながらアルセナーレの前を左に行き、サン・マルティーン教会左前方の鉄のストルト橋を渡り、狭い小路を道なりに行く)に、正に"Corte Sconta"という名の店がある。Hugo Prattの思い出によれば、[Corto MalteseのCorto Scontoから]この名前は既に独り立ちして、興味を持たれるようになっていたのである。

もう一か所は"Al Covo"というレストランで、ペスカリーア小広場から数歩の所である(その道をそのまま進み、交差点に出たら左に曲がると、右前方にある)。この二つは少し値が張るのは確かだが、可能なら、試すに充分値する場所である。

本当のレストランには立ち寄りたくない向きの人には、ヴェネツィアでは幸運なことに、別に典型的な居酒屋がある。そこではヴェネツィア人と一緒にカウンターの前に立ち、好きなワイン(ombra)の杯を手に、美味しく料理された小さな料理(cicheto=伊語cichetto)を摘まむのである[有名なバーカロの事。ここでは基本的に酒で摘みを飲食するので、コーヒーを飲みたい人はバール等に向かいます]。 ……」 (27に続く)
  1. 2017/12/19(火) 00:43:59|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(25): アルセナーレ近辺

(続き)
「この道の終り近くの右側に、また別の特徴的な居酒屋"Sottoprova"(ソットプローヴァ)がある。店の外に腰を下ろすと目前に、どことも知れず向かう、出発準備OKの船の舳のように在る5世紀の建物(後に改築)がある。偶々ということではなく、事実、航海者ジョヴァンニとセバスティアーノ・カボート父子が生活した自宅である。
[ジョヴァンニ(1445~98)はラーツィオのガエータ生れのヴェネツィア市民。英国ではジョン・カボット]
カボート家ジョヴァンニ[左、カボートの家、右、ジョヴァンニ。サイトから借用]  ジョヴァンニはイギリス王ヘンリー8世の出資を受け、クリストファー・コロンブスが進んだ航路よりずっと北の航路を選び、カナダを発見した[1497年6月24日]。その地にイギリス国旗と共にサン・マルコ旗を立てた。その帰路ジョヴァンニは亡くなり、息子セバスティアーノは父の世界航海に付き従っていたが、南アメリカの未知の航路を探検し続け、北・東航海に活気を与えた。

サン・ビアージョ橋と海岸通りへ向かい、右へ曲がると、スキアヴォーニ海岸通りへ向かう道を歩くことになる。スキアヴォーニとは“スラヴ人“をこう呼んだが、もっと詳しく言えば、ダルマティアのスラヴ人である。彼らはこの海岸通りに上陸するのが常だったし、カストラディーナ乾肉を販売した[マドンナ・デッラ・サルーテ教会の祝日に伝統的にちりめんキャベツと共に料理して食べる、燻製塩漬けした乾燥去勢羊肉]。一緒にbojana[ボーヤナ](scarabina(ニシン科の小形の淡水魚)というアルバニアから運ばれてくる乾し魚)も売られた。

スキアヴォーニ海岸通りは、1780年に道幅が拡張されたが、パーリア橋からカ・ディ・ディーオ橋までの道である。ここからジャルディーニ公園までは造船工場が相次いだものである(この辺りには有名なMASやぼろ屋が立ち並び、第一次・第二次世界大戦で使用された哨戒艇が製造された造船所SVAMもあった)。ぼろ屋はラグーナにはよく見掛けたものである。造船場の役をする二つのアーケードの、ヴェネツィア式の海の家は今でも目にするものである。そこでは船を岡に上げ、船板に生じた隙間等に詰め物をして防水する。

1935年にはカ・ディ・ディーオとジャルディーニ公園を繋ぐための工事が始まった。そしてこの長い区間の海岸通りは、1937年3月23日に完成し、町でも最も美しい散歩道の一つと繋がることになった。

最初この新区間は、その時代から言えば、“ムッソリーニ”と呼ばれる筈だったが、イタリアの、アフリカでの征服を祝って“帝国海岸通り”が採用された。ファシズムの崩壊でナチスファシストに銃殺された7人のパルチザンを記念して、“七殉教者海岸通り”と改名された。
船舶博物館[サイトから借用]  船舶歴史博物館(Museo storico navale)がある。二つの堂々とした碇が、海の遺産の壮大なコレクションの番人役を勤めている。司令長官ナーニ・モチェニーゴの寄贈により、第一次世界大戦終り直ぐに誕生し、セレニッスィマ時代から現在までの素晴らしい海洋物品の数々を展示しながら、拡張されてきた。

ここには武器、船具、計器類、制服、旗類、オリジナルの船、イラスト、絵画があり、全世界の海そしてあらゆる時代についての我々のイマジネーションを飛翔させてくれる。この理由故に、この海の王国で出会うことの出来る事を、微に入り細を穿ち、驚嘆に至るまでを述べることは慎みたい。しかしお勧めしたい事は、静かに歩き、出来るだけ興味を持ち、ここそこに立ち止り、殊更興味を惹かれた事に注意を向け、イマジネーションを更に易々と羽ばたかせ、航海させることである。

1900年の血生臭い義和団の乱時代に遡る大変興味深い小型の機関砲がある。それはコルト・マルテーゼが“Arcana(謎の)“と言った時代、上海から満州、シベリアにまで金塊を運ぶ列車に乗って、コルト・マルテーゼが中国を冒険したことを想起させる。

2階に上るとティントレット派描く“船長達”の素晴らしい一連の肖像画を愛でることが出来る。3階の左の第2室には、僧マッフィオレッティ描く素晴らしい興味津々の色版画があるが、ナポレオン占領前の1797年の地図である。それはアルセナーレの広い地域での造船行程の色々の場面を正確無比に描いていて、注意深く観察すると、その素晴らしい流れ作業が分かり、組立作業の効率的な繫がりを通して、構造的に複雑で相当な規模の船舶を完成させる、その超スピードを理解させるのである。

ブチントーロ船のモデルは、博物館の自慢の一つである。ブチントーロは黄金で覆われて貴重な、素晴らしい船だった。キリスト昇天祭(ヴェネツィアではセンサという)の祝日、総督はあらゆるタイプの、何百という華麗で、満艦飾の船に付き従われて、リード島の直前の海で、シンボリックに海との結婚式を挙げるのである。

それは998年に始まるヴェネツィアでも最も厳粛な祝祭だった。仏軍の占領という形でヴェネツィアにナポレオンが居座ったその日、彼がヴェネツィアを辱めるのに何よりも最たる事として選んだのは、最も栄えあるシンボルの代表、ブチントーロを焼却し尽くすことであった。

博物館で鑑賞出来るモデルは、1837年アルセナーレで再建造された。画家イッポーリト・カッフィの、イタリアの海に浮かぶ船のデッサンと共に、2枚のパネル画は、洗練されたその軽快さ故に注目に値する。海軍の制服と各種の旗を収めた部屋でこの階は終りとなる。

4階には難破や嵐から避難出来た船乗り達の“奉納物”の興味深いコレクションがある。他の部屋にはラグーナの典型的な船・舟のモデルや研究資料の現物が置かれている。
[“奉納物(ex voto)”とは宿願のかなったお礼に、神や聖者に捧げる物、時に祭壇の壁等に掲げる奉納品もいう。――この博物館には日本の古い船舶関連品も数多く展示されています。]

ヴェネツィアに長く住んだ[ヴェネツィア市民となり]、有名な美術収集家ペギー・グッゲンハイムから寄贈された、彼女使用のゴンドラも展示されている。 ……」 (26に続く)
  1. 2017/12/13(水) 00:02:10|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(24): アルセナーレ近辺

(続き)
「鉄の橋(P. S. Piero)を渡り、ラルガ通り(C. Larga de Castelo)を行き、左折しルーガ広場へ行く。この広場は町でも最も特異な地域の一つである。綺麗に選択し、乾かすのに広げた布の匂いとその痛快さの只中で呼吸出来る。窓や広場での女達のお喋りと呼び合い、子供達の叫び声やゲームの歓声、老人達はテーブルを出してカード勝負。
ソットポルテゴ[語学学校で案内された、この広場の脇道はこの街で最低の高さの軒下のズルリーン通りで、人が立って歩けない低さでした。]
地図左地図右
地図ア地図ル地図セ地図ナー
                 地図レ地図のリエッロ(Rielo)の通りとそのフォンダメンタ(運河通り)、サン・ジョアッキーノ(S. Gioachin)通りとその運河通りを過ぎると、ここからガリバルディ大通り、非常に活気あるヴェネツィア人の空間である。このヴェネツィア一の広い通りを通過する前に、右のロレダーナ通りへ曲がってみよう。

ターナ運河通りの狭く低いアーケードの下、前面に、道一杯に麻と塩の独特の匂いが立ち込め、乾燥させるために広げられた網が掛けられた、縄製造所の古い壁がある。直ぐ左に、壁面に碑版が貼り込まれている(リアルトの魚市場とサンタ・マルゲリータ広場の中に建つvaroter[毛皮職人]達の同信会館壁面の碑板と同じ物)。

その内容は、売ってよい魚の最小の大きさが決められ、その決まりを破ると罰を受けることが明記されている。それはセレニッスィマ時代、市民の共有財産を悪化させないように、守り育てるべきものとしてラグーナの魚資源を守護することに意を尽くしていたことを示している。

ターナ運河通りをガリバルディ大通りと結び付ける幾つかの通りで、前回登場したセッコ・マリーナ通りで見たように、現在でも最後の"Impiraperle"(真珠を挿した女達)を目にすることが出来る(前回を参照して下さい)。

ガリバルディ大通りに通じるこれらの狭い通りに戻り、この生活環境にたっぷりと浸っていると、道から道へと元気回復のバーカロやバール、簡易食堂が現れる。コルト・マルテーゼの時代、ガリバルディのモニュメントの前に、スーパー・マーケット、それから倉庫に変わる前、フーゴ・プラットのお気に入りの溜まり場の一つがあった。

彼の友人達によれば、"Cavallerizza"(馬場)と言い、生演奏を聴かせるポストで、少女達や船乗り、滞在中の兵士達のデートの場所となっていた。決して如何わしい場所ではない。

この件に関して、町の中でのこの地域とここに根を下ろす住民達の人柄、特にかつての雰囲気をちょっと付言しておかなければならない。連合軍が占領していた戦争末期、ここは町でも最も活気を呈していた地域の一つであった。

この通りの背後ではありとあらゆる類いの物資が暗躍し、見付けることが可能だった。概ね合法的で、あらゆる活動が蠢いていたが、初めてジュークボックスが現れ、更にはにわかづくりの突飛な楽団が組織され、アメリカ製の新しい音楽が四六時中演奏された。

興味深い出来事は、当時奇妙な密輸品が流行したが、それはあらゆる病に万能の、当時の新製品で奇跡的な薬、ペニシリンであった。

その取引方法は、概ね次のようなやり方であった。即ち、商談は軍隊の病院船の上で決まった。荷渡しで支払い時、包みを受け取るや、ヴェネツィアの詐欺師は船の舷側から、文字通りラグーナに飛び込み、少し離れた所で待っていた仲間が直ぐに彼を拾いに漕ぎ寄せ、かの有名な、効果的な“船の青”に塗られた甲板は、夜間はくすんだ青でよく見えないのだった。騙され怒り狂った船員達は、連中に大打撃を与えようと船の上から煮え滾った熱湯をホースで振り掛けたが、殆ど何時も遅過ぎた。

50~60年代、そうした行為は目的が単純に変化した。密輸はペニシリンから煙草に変わった。超スピードの船底平坦船が海とラグーナを何時でもどんな状況でも矢のように走り、ヴェネツィアの浅い運河でも航行出来た。そこでは財務警察の重い船では彼らの追跡は難しかった。

当時こうしたペテン師は、概ね、正にこの地区で生まれた。ますます組織的で大っぴらになった、彼らのその行動から、正真正銘のアドリア海の海賊と考えられるようになるまで、血生臭いエピソードをあれこれ作り出すようになる。 ……」 (25に続く)
  1. 2017/12/07(木) 00:04:11|
  2. ヴェネツィアの街
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ヴェネツィアの街案内(23): アルセナーレ近辺

以前コルト・マルテーゼ(Corto Maltese)が案内するガイド、Guido Fuga-Lele Vianello著『Corto Sconto―itinerari fantastici e nascosti di Corto Maltese a Venezia』(LIZARD edizioni、1997)で、ヴェネツィア街歩きをしました。今回3度目となりますが、この地域は私がヴェネツィア語学校通学時、学校のマッシモ先生のお宅をアパートにお借りし、この近辺をあちこち歩き回り、本当に懐かしい地帯です。本を片手に一緒に歩いてみましょう。
Corto Scontoアルセナーレ1アルセナーレ2「このガイドはナポレオン庭園、即ち2年ごとに開かれる現代美術の催し物が開催される、かの有名なビエンナーレの庭園から始めよう。この国際的な展覧会は、詩人リッカルド・セルヴァーティコと評論家アントーニオ・フラデレットのアイデアとイニシアチブで、1895年に始まった。最初展覧会のアカデミック性ゆえに、芸術家達のアヴァンギャルドな運動は拒否され、初めて印象派絵画が認められるのは、1924年を待たねばならなかったし、それは正に1948年のピカソであった。

各国が自由に使えるパビリオンを持ち、より異質な現代建築には、譬え矮小化されても空間の中にヴェネツィア的感性が表れている。それはヴェネズエラ館のカルロ・スカルパから、オーストリア館のJ.ホーフマンや日本館の吉阪隆正、更にイスラエル館のリヒターから、カナダ館のベルジョイオーソ、ペレッスーティ、ロジャースらまで、そして更にはフィンランドのA.アールトに至るまでが、貴重で象徴的な表現を残している。

運河沿いの岸辺を楽しく歩き、馥郁たる公園の中を、カステッロ区のサンティゼーポ教会[S.Isepo/Iseppo=S.Giuseppe(伊語)]へ向かうと、現在では崩れてしまったサンタントーニオ・アバーテ教会の最後の遺物、素晴らしいサンミケーリのアーチ(16世紀)の傍を通る。

こうしてサンティゼーポ広場に至り、16世紀に再建された上述の教会を見る。それは最初の聖アウグスチノ修道会士[聖アウグスティヌスの作った会則に基づき、修道生活を送っていた人達が13世紀半ばに合同して組織した修道会]の教会であり、更にサレジオ会士[1845年聖フランソワ・ド・サルを守護聖人として聖ボスコがトリーノに創設した修道会]のものとなった。

内部は絵画的には天井全体を覆うフレスコ画が、非凡であると言わないまでも、ジョヴァンニ・アントーニオ・トッリーリア(17世紀)に帰属し、列柱が縦方向に一元化した遠近法擬きで、垂直感と方向性を混乱させる。

テイントレット工房に帰属する絵画作品は別にしても、内陣のパーオロ・ヴェロネーゼの牧者の礼拝や総督マリーノ・グリマーニとモロズィーナ・モロズィーニ夫人に捧げた荘厳な葬儀のモニュメントは左の祭壇にあり、興味深いものである。

レーパントの戦いに捧げられた、この基礎部分は我々がここを訪れる第一の理由である。というのは、この歴史的な船の合戦でのイスラムの影響が明確に表れた、美しい例の一つだからである。祭壇は海軍大将ジョヴァンニ・ヴラーナが注文したもので、彼はその足下に葬られた。

この教会を後にして橋[サンティゼーポ橋]を渡り、[そのまま進み、次を]右に曲がるとセッコ・マリーナ(ヴェ語Seco Marina)通りの突き当りになる手前に小さな祭壇が置かれた古い小広場がある。季節が良いと今でも“真珠を挿した”女達を見ることが出来る。それは首飾り用の小さな真珠の付いた、非常に細い歯で出来た特別誂えの櫛を挿した女達である。
[“真珠を挿した(impiraperle)”とは、imperare(ヴェ語)=infilare(伊語―挿す)で出来た言葉]

来た道を戻り、セッコ・マリーナ通りの反対側まで行き。右へ曲がり、フルラーネ通りへ。そこにはフリウーリの特徴的な建物と全く同じ、1600年代の貧相な建物があるが、彼らはヴェネツィアに仕事を求めてやって来て、定住した。当時のフリウーリの人達は、酒場や洗濯屋、乳母やレストランの給仕等をやり、フリウーリの農民舞踊(furlana)をヴェネツィアに導入し、カステッロ区に大変な支持者を得て、広めた。

続いてサンタンナ運河通りへ行こう。右折し、サン・ピエートゥロ・ディ・カステッロ島と結ぶクィンタヴァッレ橋まで。この長い木製の橋から本当に魅力ある景観を楽しむことが出来る。この辺りは全く観光客の気配がない。長い河岸に舫った沢山の船と古い造船工房、ヴェネツィアの旧司教座聖堂サン・ピエートゥロ寺院の傾いた鐘楼(1482~88年マルコ・コドゥッチによる)、更に左、遠方にはアルセナーレの城壁と塔が見える。カテドゥラーレ寺院脇の建物は、1807年まで総大司教の在所であった。現在では放置されて、中庭(キオーストロ)のみが視認出来る。

左へ行き、1600年代のこの教会前に来ると、パッラーディオ様式建築のオリジナルから色々に改築を重ねていった様子が見て取れる。既に7世紀には、Santi Sergio e Bacco に捧げた教会が存在したと思われる。
[Sergio=教皇セルギウス1世(687~701)は聖人。Bacco=バッコスあるいはディオニューソス]

第一次世界大戦中、大穹窿は焼夷弾を何度か被爆し、越し屋根(ランターン)を破壊された。強調しておきたいのは、優に54m高もある穹窿の偉容で、同名の穹窿、ローマの有名なミケランジェロの大穹窿より、僅か4m少ないということである。

内部を叙述すると、右側に所謂ペトロの説教壇があり、石の玉座はアンティオキアの聖人が使用したと言われている。背板はアラブ・イスラム様式の石の墓碑柱であり、13世紀には多分椅子として使われた。 ……」 (24に続く)
  1. 2017/11/30(木) 00:17:29|
  2. ヴェネツィアの街
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ザネッタ・ファルージ(Zanetta Farusi)(2)

(続き)
「サンクト・ペテルブルグからヴェネツィアに音楽家ピエートゥロ・ミーラ(Petrilloと通称)が、宮廷劇場のために役者や音楽家、歌手達の出演契約のためにやって来た。ファルッスィの契約金の総額(年に800ルーブル)と、更に契約した人達、特にカルリーノと呼ばれたアルレッキーノ役カルロ・アントーニオ・ベルティナッズィ等契約した人達の種類から、彼女がヴェネツィアでその年得ていた評価と人気のほどが証明される。

直ぐ後、サンクト・ペテルブルグに滞在していることが知られているが、ファルッスィを始め、他の喜劇役者達が帰郷することになった理由は知られていない。しかしイタリア演劇に対してロシア女帝アンナ・イヴァノヴナの興味がこの役柄に対してなくなったのは確かである。

1737年再びヴェネツィアにあり、ここでザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世(ポーランド王アウグスト3世でもある)に雇われたアンドゥルパ・ベルトルディと出演契約をした。宮廷劇団には欠けている仮面劇のキャラクターを演じるため、オペレッタ劇と“伝統的な本になった”散文劇を交代で演じる役者として採用されたのであった(o^ Byrn、p.25)。

ベルトルディに選ばれた喜劇役者には、ファルッスィ以外にイザベッラとベルナルド・ヴルカーニがいた。サン・ルーカ劇団のトップであったジェローリマとアントーニオ・フランチェスキーニやパーオロ・カレックサーナがいた。続いて他の役者が入団した。即ちマルタ・バストーナ、ジローラモ・フォシェル、ニコレット・アルティッキオ、ジョヴァンニ・カミッロ・カンツァーキである。

王妃マリア・ヨゼーファ(Maria Giuseppa)と内閣官房長官ブリュール公の庇護の下、1785年5月12日ドレースデンにデビューしたイタリアの役者達は、宮廷と観客と名声の高さのお蔭で、20年近くに渡って活躍出来た。特にファルッスィは1756年まで恋人役で人気を博し(1748年からはマルタ・バストーナと交代しながらであった)、かなりの収入を得た。

中でも注目しなければならないのは、子供達3人がやって来たので、いい仕事に付けるために手助けしたことである。フランチェスコは戦争絵画の画家になった。ジョヴァンニ・アルヴィーゼは絵画教師ジョヴァンニ・バッティスタとして有名である。即ち王立美術学校の教授である。マリーア・マッダレーナ・アウグスタはペーター・アウグスト宮廷のオルガン奏者と結婚した。

ドレースデンにやって来て、名前をジョヴァンナとしたファルッスィの役作りの中で、彼女の長い経歴の中で何度も演じられた、1749年のカーニヴァル用に作られた作品『Amor non ha riguardi(アモール[愛の神エロス]には用心深さがない)』の中のロザーウラ役、1752年2月7日のルイ・ド・カユザック(L. de Cahusac)の『Zoroastre[ゾロアスター=フィリップ・ラモーのために書かれた]』の中のエリニス(Erinice)役が特に記憶されている。

ワルシャワではサルヴァトーレ・アポッリーニ作の音楽劇『王冠を巡るメーストレとマルゲーラの争い(Le contese di Mestre e Marghera per il trono)』が1748年11月6日(あるいは12月5日)演じられた。それはメタスターズィオの幾つかの作品『見捨てられたディードー(Didone abbandonata)』と『許されたセミーラミス(Semiramide riconosciuta)』の特別な手法を利用し、それらのオリジナル性を欠いたパロディーとしてファルッスィが書いた(翻案した)ものであった。

その作品とは、《近代的嗜好に合ったものではあるが、エスプリを欠いたファルサ(一幕物の軽い喜歌劇)のようなもので、そこには“永遠の女性”が存在しないのである。台本は伊語と独語で、仏語と波語のメモが添えられており、ファルサについて批判的に述べれば、美学的には程度の低いものであった。しかしジョヴァンナ・カザノーヴァの内部では、生まれが卑しいことを考慮しながらも、イタリア的な要素は並外れた創作力に達しているという自覚があった。》(o^ Bryn、p. 306)

加齢するにつれて、貴族の母親や性格俳優の役を引き受けることを拒んだため、しばしば笑い者にされ、無能力と見做された。ビュルンが引用したシュツットガルトの匿名の批評家は、ファルッスィについて情容赦のない姿を記録に残している。《四十歳は超えている。……相当肥満した女である。顔は劇場の魔術(化粧と衣装)にも拘らず、老女である……汚らしい女、正に女の悪魔、彼女は恋人役でなければ演じられるかも知れない……若い恋人としては声があまりにしわがれ過ぎている。今述べた魅力とガラガラ声の40女が未だに恋人役を演ずるのは、正に軽率の極みである。》

より寛容なエ・ビュルン男爵は、他でもない、彼女の鮮やかな活気を称賛した。《何であれ、その人となりの優雅さや声の美しさといったものと取って代わることは出来ないが、そうした弱点というものは、正に民族的なもので、調和したエスプリ、ユーモアに満ちた演技で緩和されるだろう。それが年齢や外観のことを忘れさせるのである。》

晋墺の7年戦争が勃発し、帰郷を選んだイタリアの多くの仲間と違って、ファルッスィはプラハに避難した。そして戦闘行為が続く間はそこに留まった。1763年ドレースデンに帰ると、400ターレルという王の寛容な年金のお蔭で、落ち着いた晩年を過ごすことが出来た。
ファルッスィは1776年11月29日、ドレースデンで没した。」

Youtubeにカザノーヴァの少年時代(『Infanzia, vocazione e prime esperienze di Giacomo Casanova』日本未公開。かつて伊文化会館イタリア映画祭で見たことがあります)を描いた映画があり、当然彼の母親が登場します。F.フェッリーニの映画『カサノバ』はチネチッタのベネチアを想定したセットで撮られましたが、この映画は実際のヴェネツィアの街もふんだんに見ることが出来ます。
  1. 2017/11/23(木) 00:40:38|
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プロフィール

ペッシェクルード(Pescecrudo)

Author:ペッシェクルード(Pescecrudo)
初めてイタリアに行ったのは1994年、ヴェネツィアには即一目ぼれ。その結果、伊語会話勉強のためにヴェネツィアの語学学校に数年間の間、何ヶ月にも渡り通いました。
その後勝手を知ったヴェネツィアを先ず訪れて、イタリア各地にも足を伸ばしています。
東京に住んでいるので、憧れのヴェネツィアについて何かしら触れているとヴェネツィア気分で楽しいのです。

*図版・写真はクリックすると拡大されます。

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